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【短編小説】その選択をしたから

 世間は5月初旬の9日間もある大型連休を目の前にしてみんなふわふわと浮き足立っていた。
 短大を卒業して第一志望の旅行代理店に就職した私は、研修期間にもかかわらず体調が悪いと会社に嘘をついて今ここにいる。
 いや、全部が全部嘘ではない。
 体調が悪いのは、本当だ。
 ただ、会社の上司や同僚が想像しているような体調の悪さでは、きっとないのだけれど。

  「竹川さーん、竹川美月さーん。」

 看護師から名前を呼ばれた私は、鉛のように重くて怠い体をソファーから持ち上げて、のろのろと診察室へと入室した。
 すると、白髪頭のひょろひょろとした女性医師がこちらを見るでもなく、私が椅子に着席する前にーーーーー私が検査の結果を聞く覚悟を決める前にーーーーー淡々と結果を言い放った。
 「尿検査の結果は陽性。
  妊娠してますね。
  エコーで赤ちゃんが今どれくらいの大きさか診るから、こっちの検診台に上がって。」
 さっさと動いて医師の指示に従わなければいけないのに、何だか頭がグラグラ揺れて、吐き気がするせいで、身体が思い通りに動かない。
 そんな私を見て、医師が小さくため息をつきながら看護師を呼んだことまでは覚えているのだけれど、そこから先のことはよく思い出せない。

 妊娠9週3日。
 それが、私の体調の悪さについた名前だった。
 そして、妊娠は病気ではないために診療費用が保険適応外になることを初めて知った。
 給料日直後とはいえ、初診料含めて1万5000円の出費はかなり痛い。
 それが初任給なのだから、尚更だ。
 初任給で両親に何かプレゼントをサプライズで送って泣かせるつもりだったのに。
 こんなサプライズ、ある意味泣かれるだろうけど。

 そんなことをぼんやり思いながら、帰宅ラッシュで混み合う電車の中で、陽平にメッセージを送るために、メッセージアプリを開いた。

 「やっぱり妊娠してた」

 自分で入力しているのに、「妊娠」の字を見ると、気持ちが沈んで指が震える。
 耐えられずに送信取り消しボタンを急いで押した。

 陽平はこの結果をどう思うだろうか。
 もしかしたら、逃げ出したりして。
 もし本当にそうなったら、私はどうすればいいんだろう。
 陽平に限ってそんな無責任なことをするわけない。
 でも、人間の本性なんて本当のところはわからない。

 陽平が、私のメッセージを読んで取り乱さないようーーーーー私を裏切って一人で逃げ出したりしないようーーーーーどういう言い方をすればいいか推敲に推敲を重ねているうちに、電車は自宅の最寄り駅に着いていて、危うく乗り過ごすところだった。

 陽平は、2年半くらい前から付き合っている大学4年の彼氏だ。
 進学のために地元から一緒に上京した紗千絵のバイト仲間として紹介された。
 付き合い始めた頃は、特筆することが何もない陽平のことが大して好きでもなかった。
でも、誰に対しても礼儀正しくて、優しい彼の人柄が一緒にいて安心したし、すごく楽で居心地がよかった。
 結婚するなら陽平がみたいな人いいけど…なんか、結婚とか出産とか子育てとかまだ全然想像つかないなぁ…。
 とかなんとか思っていたのに。

 最近では、若年齢で子どもが出来ることや、結婚もしていないのに子どもを産み育てることをやいやい言われなくなったように感じるが、やいやい言われないのは、子どもを産んで育てる揺るぎない覚悟と、子どもを成した責任を満たす社会的能力がある一握りの人間だけだ。
 新卒一年目の私や学生の陽平のように、まだ親の扶養からも抜けきれてないような半人前が子どもなんて許されるわけがない。

 思考がぐるぐると同じところを巡り、陽平に送るメッセージの正解がわからない。
 駅の改札を抜けたところでメッセージアプリと睨めっこを続けるために立ち止まると、それを終わらせる電話の着信があった。

 陽平からだ。

 「あ、もしもし?今大丈夫?」
 低くて少し鼻にかかったような、いつもの陽平の声が聞こえる。
 何だかほっとして涙が出そうになる。
 「うん、大丈夫だよ。」
 「あの…さ、結果…どうだったかな。」
 「妊娠してなかったよ」と嘘をついた方がいいのではないかと一瞬思った。
 余計な心配はかけたくないという殊勝な考えでではなく、自己保身のためにだが。

 「妊娠、してたんだね。」
 無言の時間に耐えられなかったのだろうか、陽平から話の核心を切り出した。
 「…うん。
  …9週3日だって。」
 そう言った時、私は自分の喉がカラカラに渇いてたことに気づいた。
 「…そっか。」
 「うん…。」
 耳元で、陽平が何かを飲んだ音が聞こえた。
 陽平も喉が渇くほど、緊張していたようだ。
 「とりあえず、そっち行くよ。
 話をしよう。
 みづの分もご飯もコンビニで買って行く。
 食べたいものがあったらメッセで送って。」
 気遣ってくれるのは本当にありがたいことなのだけれど、こんな非常事態に食欲なんて湧くはずがない。
 でも、陽平を心配させないためには何でもないフリをして食べた方がいいのだろうか。
 とはいえ、最近は食べ物のちょっとした匂いで気分が悪くなってしまい、トイレに駆け込むことが増えてきた。
 これがつわりというやつか。
 結局、陽平に「家にあるものを適当に食べるから買わなくて大丈夫だよ」とうそぶいた。

 私が帰宅して、10分もすると陽平がやってきた。
 手にはコンビニの袋をぶら下げている。
 「食欲、ほんとはないんだろ。
  でも食べなきゃ身体によくないから。
  少しでも食べれるものを食べといたほうがいいよ。」
 と言って、袋を差し出してきた。
 でも、陽平も食欲がないのか、陽平の食べるものはその袋に一つも入ってなかった。

 二人で、いつものようにテーブルを挟んで向かい合って座る。
 一週間前、久しぶりに会った私達は、今と同じように座って季節外れのキムチ鍋を二人で食べていた。
 あの時、私は会社の研修が面倒なことや、上司の話が長いこと、同僚で仲良くなった子の話をした。
 陽平も、エントリーシートの書き方を私に相談したり、サークルの友達と就活の息抜きに行った沖縄弾丸旅行の話をしてくれた。
 あの時は、こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。
 きっと、陽平だって同じ気持ちのはずだ。


 「それでさ、今後のことなんだけど。」
 今回も、口火を切ったのは陽平だった。
 「みづは、どう思う?」
 「どうって…、何が?」
 曖昧な質問をされて、何をどう答えたらいいかわからず、つっけんどんな物言いになってしまった。
 「お腹の…その…赤ちゃんのことだよ。」
 それに少し苛ついたのか、陽平の語気が静かに強くなる。
 それは、そうなのだ。
 私達が今日会う予定もなかったのに、こうして会ってるのはそのことを話すためなのだ。
 でも、どうと聞かれてもどう言えばいいのだろう。
 妊娠してることをどう思ってるか、ということなのか。
 それとも、今後このお腹にいる赤ちゃんをどうしたいかと聞きたいということなのだろうか。
 私は先月第一志望の旅行代理店に就職したばかりだ。
 研修が面倒だの上司の話が長いだのとグチグチ文句は言ったけれど、充実した日々を送っている。
 社会人の責任感とやらもようやく芽生えてきたと思っている。
 妊娠なんて想定外だ。
 自分のキャリアの中ではもっと先の話なはずだった。
 でも、それを正直に陽平には伝えることが出来なかった。
 私のお腹の中にいる命が云々と言うより、それを言うことで陽平に軽蔑されたくないという保身がこの期に及んで働いた。
 何をどう言うのが正解なのかわからず、私は押し黙ったままでいると陽平が、
 「親父がさ、俺の地元で一番でかい銀行の就職試験、筆記だけ通過すれば、あとは通してくれるように頼んでやるって言ってたんだ。
 言われた時は地元になんて帰るつもりなかったから適当にあしらっちゃったけど、それ親父に頼もうと思う。」と言った。

 私には、陽平が言ってることがいまいち理解出来なかった。
 理解したくなかった、が正解かもしれない。
 つまり、それはーーーーー。

 「俺の地元で暮らす、その条件でよければ、結婚してその子を産んで育てよう。」
 断る言い訳を必死になって考えたが、何も思い浮かばず、
 「私、パパとママにも相談しないと…答え出せないよ…。」
 と、社会人としての自覚が芽生えた人間とは思えないほど、情けない言葉が口にするのが精一杯だった。

 結局、お互い親に状況を話して今後どうするか話をしようと約束をし、その日は別れた。


 あれは、陽平と付き合い始めて初めての夏休みの話だ。
 陽平が夏休みいっぱい地元に帰って、実家の手伝いをさせられているということに納得が出来なかった私は、普通のカップルのように夏休みを一緒に満喫したいとごねて陽平を困らせた。
 すると、陽平から「じゃあ、俺の地元に遊びにおいでよ。」と提案があり、すぐ新幹線のチケットを取ってすっ飛んでったことがある。
 新幹線が止まる駅から陽平が運転するマニュアルの軽トラックに揺られること一時間弱、アニメでしか見たことがないような田舎の風景が眼前に広がった。
 夏野菜の収穫や、秋に採れる野菜の準備に追われていた陽平の家族との挨拶もそこそこに済ますと、陽平は自分の家に私を連れて行った。
 旧武家屋敷を買い取ってリフォームしたという陽平の実家は、どこもかしこも重厚感があった。
 と言えば聞こえはいいが、要するにお化け屋敷のような建物だった。

 玄関の式台を見るのが初めてで、どこで靴を脱ぐのが正解なのか分からず戸惑っていたら、廊下の1番奥からぬっと髪の長い何かの抜け殻のような女が出てきた。
 やはり、ここはお化け屋敷のようだ。

 「姉さん。」
 陽平は、その抜け殻を「姉さん」と呼んだ。
 「姉さん、俺の彼女。
  美月だよ。
  今日からしばらくうちに泊まるから。」
 「姉さん」は返事もせず、奥の襖を開けるとすーっと消えて行った。
 ますますお化けにしか見えなかった。
 「知らない人が苦手でさ、愛想悪くてごめんね。」
 陽平の「知らない人」呼ばわりが若干引っかかったものの、こちらもあんなお化けと知り合いになるつもりもなかった。

 後々、あのお化けは「香織」と言う名前で、高校で壮絶ないじめに遭ってから外に出ることができなくなってしまい、以来ずっと部屋に引き篭もっているということを知った。
 知ったところで私には何も関係がないことだったし、興味もなかった。

 そう思っていた。

 そのはずだった。




 大型連休を越えたはじめての週末、私はつわりの気持ち悪さを押し殺して実家へ帰省し、両親に妊娠した事実を告げた。
 父には、殴られ蹴られ罵倒されることも覚悟の上だったが、意外にもそれをされることはなかった。
 しかし、それをされなかったからこそ、自分のお腹の中に私とは違う命が宿っていることを強く認識せざるを得なかった。

 両親との話し合いが終わったあと、私は自分の部屋に戻り、陽平に電話をした。
 陽平も私からの電話を待っていたかのように、1コールもたたずと電話に出た。
 「…話、出来た?」
 「うん…。」
 「…なんて…?」
 「今回は…諦めなさいって…。」
 「…そうか…そうだよね…。
  俺も許してもらえなかったよ…。」
 両親に反対され、子どもを諦める。 
 それを私は望んでいたはずなのに、私の意志に反して涙がとめどなく溢れた。 

 そんなことをしていて、どれくらい経った頃だろう。
 「みづ、ちょっとごめん。
  姉さんが話があるって言うから。
  また電話する。」



 お盆の時期の田舎の寺は、線香の煙があちこちの墓からもうもうと立ち上っている。
 私は、喘息もちのえみりが煙を吸わないよう顔の前でパタパタとハンカチを仰いだ。
 えみりは「早く帰りたい」とグズグズ泣き始めて、私のハンカチをむしり取って投げ捨てた。
 「もう少しで終わるから、頑張りな。」
 棒付きのキャンディの袋を破って渡すとあっという間に機嫌が戻る。
 こんなもので機嫌が戻り、頑張る気になれるのだから、子どもはなんてコスパがいいんだろう。
 まあ、そんなところも可愛いのだけれど。

 「お待たせ、卒塔婆立てるからちょっとよけて。」
 長い卒塔婆を何本も抱えた陽平がそこにいた。
 「ご住職は?」
 私はえみりに投げ捨てられたハンカチを拾いながら、陽平に聞く。
 「すぐ来るって。
  この後の食事、宝泉でやるってもう一回みんなに言っといて。
 多分よくわかってない人いるから。」
 「これだけの人数がいれば、そうかもね。」
 大して広くもない墓地に、総勢50人はいるだろうか。
 これ全部が親族なのだから田舎の有力者は凄まじい。
 「姉さんもこんなに人が集まって、びっくりしてるだろうな。」
 「そうね。香織さん、嫌な顔してるかも。」

 遠い遠い昔から脈々と続く家に相応しく、古めかしい墓石に沢山の人の名前が連なっている。
 そして、この春に新しい名前が刻まれた。


 「香織 享年 二十七歳」


 陽平が地元では随一と呼ばれる銀行に親のコネで就職を決めたあと、私は勤めていた旅行代理店を辞め、陽平と結婚し、お腹の子どもを産んだ。
 私が妊娠したと知った時、陽平の両親は烈火の如く怒り狂い、父親に気絶しそうなほど陽平は殴られたそうだ。
 話し合いにならない話し合いを終わろうとした時、香織さんが珍しく部屋から出てきて陽平と私の結婚出産を認めるよう説得してくれたらしい。
 それが陽平の父親の怒りに油を注ぐことになり、香織さんも散々ぱら殴られたそうだが、そのあと陽平をこっそり呼び出して、
 「お前は彼女の人生を狂わせた。
 ここでお前が手放したら彼女は心にも体にも一生の傷を負うことになる。
 お前が彼女とお腹の子どもを一生かけて幸せにしろ。」と陽平を諭したそうだ。
 香織さんのその言葉に奮起した陽平は、両親を毎日説得し続けた。
 香織さんも毎日陽平と一緒に両親を説得してくれていたらしい。
 最初は何があっても絶対反対だった両親も、陽平の覚悟と、何よりどんなことがあっても部屋から出てこなかった香織さんが、弟のために親身になった姿にほだされて、遂には私たちの結婚出産を認めると言い出した。
 その話を陽平から聞いた時、正直私の人生をあんな引きこもりのお化け女に決められたくないと憤ったが、家族の了承を取ってしまった手前もう引き返せなくなってしまったのもあるのだろう、陽平は今度は私を説得し続けた。
 正直に言うとごちゃごちゃ文句を言っていた私も私で、この妊娠騒動で仕事に全く集中できず、ミスを連発して上司に叱責されまくり、同僚からは「お荷物同期」とコソコソと陰口を叩かれるようになった。
 いよいよ肩身が狭くなり、結局逃げるように結婚出産を決めて退職してしまったというのが事の顛末である。

 しかし、これはこれで案外悪くなかった。
 田舎の親戚付き合いはやることが多くて面倒ではあるが、幸いなことに陽平の親戚にそこまでクセの強い人間はおらず、一般的に言われているような親族間のトラブルに悩むようなこともなかった。
 高いヒールを履いて、綺麗めのジャケットを羽織り、流行りのメイクをすることはなくなったが、すっぴんで農作業をすることも意外と苦ではなかった。
 そして、産まれてきた娘のえみりが本当に可愛くて愛おしい。
 現在イヤイヤ期真っ只中で、うんざりさせられることも多くなってきたが、一日の終わりにえみりの寝顔を見ることが、今の私の一番の幸せになっている。

 香織さんも、えみりを可愛がってくれていた。
 変わらず廊下の一番奥の部屋から出てくることはあまりなかったが、時々一緒になると甲斐甲斐しくえみりの世話をしてくれ、えみりも香織さんにとても懐いた。
 その頃には私の香織さんに対する気持ちも変化していた。
 えみりと出会わせてくれたことに、自分では想像し得ない幸せに導いてくれたこと、深く深く感謝していた。


 しかし、ーーーーー香織さんは死んだ。
 春一番が吹き荒れる嵐のような夜に自室で首を吊っていた。
 部屋に遺された膨大な量のキャンパスノートには、高校生の時に付き合っていた彼氏との子を妊娠してしまったこと、両親に中絶を強要されて県外の病院で一人中絶手術を受けたこと、それが学校中にばれていじめに遭い、不登校になってしまったこと、私がえみりを妊娠したと知った時、陽平を激しく憎んだこと、陽平の人生をめちゃくちゃにしたくて、綺麗事を並べて結婚出産するようし向けたこと、それなのに陽平と私とえみりが幸せそうに暮らしていることが許せないこと、そして、えみりの笑顔を見るたびにそんなことを思ってしまう自分が一番許せなくて苦しんでいることが所狭しと書かれていた。
 私や陽平をはじめ、親族全員が香織さんの苦悩を知り、それを理解しようとも救い出そうともしなかった自分達の過ちをひどく嘆き悲しんだ。

 ーーーーーはずだった。

 先日気づいたことだが、香織さんが遺したキャンパスノートは、いつの間にか誰かに処分されてしまい、跡形もなく無くなっていた。
 みんな香織さんのノートの存在も内容も知っているはずなのに、今日の香織さんの新盆までに誰が処分したのか、なぜ無くなったのか、親族の間で話に出ることもなかった。


 香織さんは今こっちに帰ってきているだろうか。

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