教育者の今後の役割

小さな海外の民間の教育機関の経営者として、また時には子どもに教える講師として、大きな括りとして人を教育をする側であることが日々の時間で僕は多い。ここ最近、今後の教育する人間の役割について考えており少し自分の中でまとまってきた。

親しい知人の子どもがスイスのサマースクールに三姉妹で毎年行っているのだが、その時の話が毎回刺激的だ。今年も今ちょうど行っているのだが、昨年行った時の話が面白かった。昨年は12歳の長女はシェイクスピアの劇を、1ヶ月ほどの期間中に準備し、最終日にチームのメンバーで発表したようだ。
その時の知人の話がとても印象に残っている。
「うちの娘が劇でいじわるなおばさんの役をやることになった。それは先生の意向から決められたことのようで、うちの娘は、なぜその役割を私がやることになったのか、疑問に想い先生に直接聞いてみたようだ。その時先生が言ったのが、「あなたは今までの人生において、このいじわるなおばさんのような立場で、ものを考えたり振る舞ったことがないと思う。だからこそ、この機会にこの役をあなたに演じさせたいと思った。」この話を聞いたときに、私は高い費用を払ってでもサマースクールに行かせた価値があったと思った。」

子どもの教育に関して、AIが教師に取って代わる云々の話をよく耳にし、その時に併せて聞くその時の教師の役割は、「いかに子どもをモチベートするか」と言う視点で語られることが多い。僕たち以上に何かを好奇心を持って学びつづけることが価値に繋がる時代を子どもは生きるであろうから、その考えには僕も賛成だ。

ただ子どもを見た時に、このAI時代云々の話というのは、精神的な部分で果たせる教師を含めた周囲の役割というのがごっそり抜けおちているようにも思う。

うちに学びに来ている子どもたちを見ていても思うのだが、最近の子どもはやることの選択肢が増えて、また周囲の大人からもどれを選ぶかの権利もある程度「人に迷惑をかけない範囲内で」とかいう条件のもと、委ねられている子が多いように感じる。
そういう環境で育った子どもにとって重要なのは、このスイスのサマースクールの先生のように「あえて本人が選択しないような困難を与えること」も子ども時代には特に重要であると思っている。特に大人になればなるほど、その選択の幅は広がっていく中で、困難な選択はどんどん取りにくくなるから、より子ども時代の困難な選択をした経験というのは大きな意味を持ってくる。

ただこういった合理性とは無縁の、精神面の成長をいかに促すか、という部分は数値化しようもないし、人それぞれであまりにも異なるので、この部分というのは人間によってのみできることとして残り続けると思う。

そしてこの提案を自分の判断でしたこのスイスのサマースクールの先生のような、子どもを見て最適な経験を積ませる判断のできる教師や講師というのは、今も今後も貴重な存在として、1人ずつではあるが子どもに対して忘れない経験を与え続けるのだろう。

僕も含めたうちの講師達も、こういった経験を与えられる人間が少しずつ増えていくように、子どもにとって何が必要か、もっと本気で考えていきたい。




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