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【小説】夢見る金魚

 真昼だというのに妙に薄暗い店だった。
 だが、それは、決して不快な類いの暗さではない。ものごころがつく前と後の境界線のような、甘美な心細さと地続きの薄暗さである。
 店内はお世辞にも広いとは言えない。ユーリが育った施設の、子ども三人にあてがわれる部屋と同じくらいだ。
 ニ列の棚に理路整然と並んだ水槽が、ぼんやり光っていた。
 どの水槽にも金魚が数匹ずつ泳いでいるのが見える。
 優雅な尾びれをふわりふわり揺らして。
 素赤。黒。更紗。
 それは夢のような、あるいは突然変異の花のような、現実離れした美しさだった。

「この子……が?」
 帳場に座っている若い店主は、ユーリを見て怪訝そうに言った。「まだ子供じゃないか」
 ああ、またか。ユーリの心は一瞬でしらけた。大人はいつも、チビで痩せっぽちのユーリに不満を抱く。不健康な大人よりもユーリの方がよっぽど元気で頑丈だというのに。
「とんでもない。身体は小さいですが、ちゃんと学校は出ていますし、それに良く働きますんで」
 ユーリのとなりにいる《協会》の営業マンが、すかさずまくし立てた。その声も話し方も、いちいち胡散臭い男である。初めて《協会》本部のロビーで会った時から、ユーリは彼のことがどうにも気に食わなかった。子どもに言うことを聞かせるために耳を引っ張るタイプに違いないとふんでいる。
「そもそも、おまえたちは合法の組織なんだろうな?」
 店主は眉間に皺を寄せて言った。整った顔をしているのに、やたらと愛想が悪い。
「とんでもない。私どもは《連盟》の認可を受けた、ちゃんとした組織ですよ」
 営業マンは首からぶら下げた身分証明書を示しながら主張した。
(ちゃんとした組織?)
 ユーリは、彼の小さな顔にはいくぶん大きすぎる目を、ぐるりと回した。
 営業マンというのは呆れた嘘つきだと思った。
 ユーリたちを管理している《擁護の翼協会》は、身寄りのない子どもをスズメの涙ほどの経費で養い、最低限の教育を施した後、派遣社員としてこき使うことで有名だった。
 彼らの言い分はこうだ。「この子を養育するのにかかった費用を回収しているだけです」と。
「阿漕な商売を《連盟》のお墨付きで堂々とやっている組織のくせに『擁護の翼』なんて、よくもまあ、恥ずかしげもなく名乗れるものだね」
 そう言って肩をすくめた親友の顔が、ユーリの脳裏に浮かんだ。
 ショウは今ごろ、大学で何をしているのだろう。
 ユーリの職探しが落ち着いたら、どんなに短くてもいいから手紙を書いて欲しいと言われたのを、忘れているわけではない。
(でも、ちっとも落ち着かないんだから仕方ない……)
 ユーリは店主と営業マンに気づかれないように、小さなため息をつく。
 奨学生に選ばれたショウは、毎日、大学で楽しく過ごしているのだろうか。
 新しい友人はできたのだろうか……。
 ユーリより親しい友人が……。
(ダメだダメだ。今はそんなことを考えている場合じゃない)
 ユーリは頭を軽く振って、親友の面影を頭から追い出す。ついでに、わきあがってくる惨めな気持ちも追い払う。
「それにですね、この子にはリチャード様の推薦状があるんですよ」
 営業マンはスーツの内ポケットから、封蝋付きの白い封筒を取り出すと、うやうやしく店主に差し出した。
「リチャードが……?」
 店主は驚いた様子で、受け取った封筒を見つめる。
 驚いているのは、ユーリも同じだった。
(リチャード……様……?)
 馴染みのない名前である。だいたい、営業マンのような大人が『様』をつけて呼ぶ人物と、施設で育ったユーリの間に、すぐに分かる接点があるとは考えづらい。
(リチャード……)
 ユーリの人生に、今まさに、何かしらの影響を及ぼそうとしている人物だというのに、その姿かたちを、まったく思い描けないことがもどかしくもあり、不気味でもあった。
 店主は帳場の机の一番上の引き出しからペーパーナイフを取り出すと、手紙を手際よく開封し、書面に目を走らせた。
 その横顔は相変わらず月のように無表情で、推薦状が彼に与えた影響を読み取ることは、誰にもできそうにない。
 口の達者な営業マンも固唾を飲んで見守っていた。
 ブクブク。ブクブク。水槽の中で次々に生まれて消えていく泡の音だけが、店内に響いていた。

 やがて、店主は、 
「……それで、いくらなんだ?」
 営業マンに尋ねた。
 ユーリを雇うために協会に払う金のことを言っているようだった。
「ええっと、住み込みの店員をご希望ということでしたので……こんな感じで」
 営業マンは大事に抱えていたバインダーごと契約書を差し出す。
 店主はそれを黙って受け取った。
「……高いな」
「とんでもない」
 営業マンは大袈裟に目を見開いて言った。
「此処にいる金魚の貸出料の方がずっと高いことくらい、私でも知っていますよ」
 ユーリは我が耳を疑った。
(この魚たちが?僕より高い?)
 信じられなかった。いつか図鑑で見た、南国に咲く花のように艶やかな魚だったが、それでも魚は魚だろう。
(食べても不味そうだし……)
 ユーリは思わず、不謹慎なことを考える。
「……」
 店主は営業マンをひと睨みすると、それ以上は何も言わず、契約書にサインした。
「いつから働ける?」
「それは、もう、今すぐにでも。……なあ?」
 満面の笑顔の営業マンが、ユーリに同意を求めた。
 少年はポカンとして、何も答えられない。
 まさか雇って貰えるとは……。
 昨日まで訪ねたところでは、ことごとく断られた。華奢な体が労働に向かないと判断されたのだ。
(まさか。まさか)
 ユーリの心臓は、口から飛び出しそうにドキドキしていた。

「………名前は?」
 厄介払いが出来たとばかりに、軽い足取りで営業マンが去った後。
 小さな鞄とともに残されたユーリに、店主が尋ねた。
「ユーリです。旦那様」
「旦那様はやめてくれ」
 店主は顔をしかめる。
「では……何と呼べばいいですか?」
「名前で呼んでくれればいい。私はテルシマだ」
「テルシマさん……」
 ユーリは小声でつぶやいてみる。
 テルシマは二十代後半に見えた。真っ黒な髪と瞳がミステリアスだ。
「あの、テルシマさん」
「なんだ?」
「えっと……あの……質問……してもいいですか?」
 ユーリは恐る恐る切り出した。
「なにが聞きたい?」
「ええっと……あの……此処は金魚屋さん、ですよね?」
「……君はうちの商売のことも知らずに連れて来られたのか?」
「は、はい」
 不機嫌そうなテルシマの様子に、ユーリは思わず身構える。
 この先の展開を、ユーリは嫌というほど知っている。不機嫌な大人はいつもユーリを標的にして、必要以上に叱りつけた。少年のいたいけな風貌が、大人の加虐性を掻き立てるとでも言うように。
 その度にユーリは、華奢に生まれついたことを呪った。
 顔すらおぼえていない両親に腹を立てることがあるとしたら、この小さな身体についてだ。もちろん、自分を捨てたことも絶対に許すつもりはないのだが、現在進行形で切実なのは体格の問題の方だ。
「まあ……間違った知識を植えつけられるよりはましか……」
 だが、テルシマはユーリの予想を裏切って、独り言をつぶやいただけだった。
 ユーリは面食らった。
(この人はいったい……)
 奇妙な大人。
 テルシマはユーリの知っている大人たちの、誰とも似ていなかった。
「うちは貸し金魚屋だ」
「貸すんですか?」
 ユーリは薄暗い店内を、くるりと見回した。
 頼りなく発光する水槽。あぶくを吐き出すポンプの音が、絶え間なく響いている。
 一方、金魚は静かだ。沈黙している。
「フォーチュンの金魚を知っているか?」
 ユーリは首を横に振る。
「フォーチュンは幸運の女神だ。この金魚たちは持ち主に幸運をもたらす力を持っている。だから『フォーチュンの金魚』なんだ」
 テルシマが説明してくれても、ユーリは半信半疑だった。
「信じられないか?」
「……はい」
「だろうな」
 テルシマは淡々と言う。ユーリが自分の言葉を信じなくても、特に気にしていない様子だった。
 やはり変わった大人だ、と思う。ユーリの知っている大人は、子どもが自分の言うことを信じるか、あるいは信じているフリをしなければ納得しなかった。
「あの……」
「なんだ?」
「本当に高価なんですか?……金魚」
 ユーリの質問にテルシマは具体的な数字を答える。それは少年の精一杯の予想を嘲笑うような金額だった。
「そ、そんなに?」
 実物の金を目にしたわけでもないのにドキドキする。ユーリは思わずテルシマの顔をまじまじと見つめた。
 それだけの金額を手に入れる、この人こそ億万長者なのではないのか?
「俺のことを金持ちだと思ったか?」
「違うんですか?」
「違う」
 テルシマはきっぱり否定した。
「こいつらを生かしておくには恐ろしい手間と、呆れるくらいの金が必要なんだ。だから、まともな貸し金魚屋は儲からない」
「そうなんですか……?」
「そうなんだ」
 テルシマは、むっとしたように言った。案外、子どもっぽいところがあるらしい。
「どうして『貸し金魚』なんですか?売った方が後腐れがなくて楽そうですけど」
「手間がかかると言っただろう?素人では飼育が難しい生き物なんだ。一ヶ月が限界。それ以上になるとどうしても弱ってくるし、見た目も悪くなる」
「は……あ?」
 ユーリはあらためて水槽を見回す。
 得体の知れない生命体に包囲された気分がして、ぶるっと震えた。
「だから定期的に調子が良いやつと入れ替えてやる。回収してきた金魚はサンクチュアリに送って休ませる」
 まあ、オーバーホールみたいなものだな、とテルシマは言った。
「サンクチュアリ?」
「フォーチュンの金魚の生まれた場所だ。《連盟》の特別管轄地にある」
「特別……管轄地?」
 なにやら物々しい話である。
 ユーリは、そうやってテルシマの説明を受けているうちに、じわじわと不安になってきた。
「あのぉ……」
「なんだ?」
「僕に此処のお仕事、出来るでしょうか?お話を聞いていると難しそうに思えるんですけど」
「さあ……な。俺には分からない。……だが、おまえのその謙虚さがあれば、気に入られるだろう」
「気に入られる……って、もしかして……」
 ユーリはひそひそ声で確認する。「金魚に……ですか?」
「なんだ、分かってきたじゃないか」
 テルシマはいたって真面目な様子だ。
(まさか僕が採用されたのって、金魚に気に入られそうだから?)
 そんな頓狂な採用理由があるだろうか。
 だが。
 深く考えるのはよそう。ユーリは覚悟を決める。理由は何であれ、こうして職を得られたのだから。
「他に質問は?」
 テルシマが聞く。
 ユーリは少し考えて、
「さっき、まともな貸し金魚屋は儲からないって言われてましたけど、まともじゃない貸し金魚屋もあるんですか?」
 そう尋ねてみた。
 途端に、テルシマは苦虫を噛み潰したような顔になった。笑わないくせに不機嫌な表情のレパートリーだけは豊富な男である。
「その話はタブーだ」
「え?タブーって……?」
 そう言われても、そもそものきっかけはテルシマの『まともな貸し金魚屋』発言なのだが……。
「俺は違法なものが嫌いなんだ。ここで働くなら、それだけは覚えておいて欲しい」
「はい……」
 ユーリは神妙な面持ちで頷いたが、本心ではテルシマの話の飛躍を理解できていなかった。まともじゃない貸金魚屋の話と、違法なものが嫌いな話は、どう繋がるというのだろう。
 その二つの間には何か欠けている要素がある気がする。
(でも、まあ、いいや)
 何はともあれ、この少し変わった頑固そうな男が、ユーリの初めての雇い主なのだ。
「あのっ……よろしくお願いします。僕、一生懸命頑張りますから。テルシマさん」
 ユーリはペコリと頭を下げた。
 そのとき、少年の頭の中からは、リチャードという謎の男のことはもちろん、ショウのことも、一時的に消失していたのだった。

「金魚の中には泳ぎが下手なやつもいる」
「魚なのにですか?」
 ユーリはテルシマを見上げた。二人の身長差は頭ひとつ分以上ある。
 水槽の金魚を見つめるテルシマの横顔は、相変わらず無愛想だった。だが、それは彼の日常的な表情であって、特に機嫌が悪いわけではない。
 それがこの二ヶ月で、ユーリが理解したことのひとつだった。
「観賞用に見た目優先で改良を重ねた生き物だからな。頭が大きすぎて遊泳力がない品種もいる」
「そうなんですか……」
 ユーリは水槽の中の静かな住人に目を向ける。
 気のせいか、金魚たちも自分を見ている気がする。
(キミたち、少しは僕に馴染んでくれたの?好かれているのか嫌われているのか、さっぱり分からないよ)
 金魚は無表情で、愛想もない。
(まるでテルシマさんみたいだ)
 この二ヶ月の間、テルシマと一緒に働き、店の二階で寝食を共にして分かったことは、彼の仕事が『金魚士』と呼ばれていること、そして、その生活は極めてシンプルで、金魚を中心に回っているということだった。
 水温、水質、餌の管理。神経質で気難しい(らしい)フォーチュンの金魚のためにしてやらなくてはならないことは、いくらでもある。
 月に一度は、金魚たちの何匹かを丁寧にパッキングして、サンクチュアリへ送り出してやらなければならなかった。
 その日は宇宙船のような、あるいはジェラルミンのカプセルのような、奇妙な自動運転の搬送車が、静かにやって来る。そして、テルシマとユーリの積み込んだ金魚を淡々と運んで行くのだ。
 金魚たちはどうやら《連盟》の支配下にあるらしく、金魚士、つまりテルシマの仕事は金魚の管理だけのようだった。
 金魚の世話をしていないときのテルシマは、たいてい帳場で分厚い帳簿をつけている。この店の顧客は桁外れの金持ちばかりだ。
 テルシマのもとで働き始めて間もない頃、ユーリは、
「お金持ちでもまだ幸運を願うんですか?じゅうぶん幸せだと思うんですけど」
 そう尋ねてみたことがある。
 どうしても聞いてみたかったのだ。
 自分自身のものなど何ひとつ持っていないユーリから見たら、たくさんの財産を持っている彼らは、既にじゅうぶん過ぎるほど幸運に思えた。
 少年が身につけている冴えない洋服さえ、《協会》の所有物だというのに……。
「まだ足りないと思っているんだろう」
 帳場に座っていたテルシマは、つまらなさそうに答えた。
「それに、持っているからこそ失いたくないと願うこともあるだろう。手に入れた瞬間から、失う恐怖に取り憑かれることもある」
「失う恐怖…?」
 ユーリには想像もつかない。

「金魚は変温動物だ」
 テルシマは再び説明を始める。
「緩やかな温度変化にはうまく対応できるが、急な変化が起こると、場合によってはショック死することがある」
 此処でのユーリの仕事は、店の掃除や使い走り、それに炊事や洗濯といった雑用ばかりだったが、最近になってようやくテルシマから金魚の生態について教えて貰えるようになった。
 テルシマは手が空くと、金魚の水槽の前に立ち、ユーリを呼ぶ。そして、淡々と金魚の話を始めるのだ。
 それをユーリは、夜眠りに就く前にノートにまとめる。
 そうやって、ちょっとずつでもテルシマと金魚に近づこうと努力していた。
「だからテルシマさんは水温を小まめにチェックしているんですか?」
「ああ」
 テルシマは腕時計を見る。
「ユーリ」
「はい」
「そろそろ店を閉めるか」
 金魚屋の閉店は十八時だ。
 テルシマは帳簿をレトロな金庫に仕舞い、鍵をかける。
 ユーリは真鍮で出来た『閉店』のプレートを手に店を出る。それを入り口のドアノブにぶら下げるのだ。
 閉店後も金魚の世話は続く。本当に手のかかる生き物だ。
(でも……)
 確かテルシマは、フォーチュンの金魚の世話には呆れるほど金がかかると言っていた。しかし、今のところ、金魚の飼育の何処にそれほどの金がかかっているのか、ユーリにはさっぱり分からない。
(あれはテルシマさんのハッタリだったのかな……)
 日の沈んだ街は、薄紫色だった。石畳の通りは、店じまいの慌ただしい気配に包まれている。
 テルシマの金魚屋は下町の小さな商店街にあった。庶民の手の届かない商品を扱う店が、ありふれた日常の中にあるのは、なんとも皮肉で寓話めいていた。
(あ……)
 ユーリは店を出たところで動きを止める。
 その青年は今日もショーウィンドウの前に立っていた。
 常春のこの都市で、薄いとはいえコートを着込んでいる姿は目立つ。おそらく、よそから流れてきた労働者だ。
 年齢は二十そこそこに見えた。なんとなく疲れたような顔をしている。
 だが、ガラス越しに金魚を見つめるアーモンド色の瞳は真剣だった。
「あの……」
 ユーリは遠慮がちに声をかけた。テルシマからは放っておくようにと言われているが、青年にはユーリやショウと同じ『見捨てられた子ども』の匂いが染みついていて、黙殺を続けることは苦しかった。
 声をかけられた青年は、ユーリと目が合うと、慌てて顔を背け、足早に立ち去ってしまった。
「あ、あのっ……」
 後にはプレートを手にしたままのユーリが、後悔と恥ずかしさと共に取り残された。

 もしも自分をグラスにたとえるなら……。
 カズサは考える。
 きっと小ぶりなグラスに違いない。
 元々あまり容量がないのだから、たくさんのものを入れようとしても適わない。
 入れようとも思わない。
 カズサには不満という感情が理解できなかった。街のネジ工場での地味な仕事も、安い給料も、カズサが一人で生きていくのに何の問題もない。
 花屋の二階のアパートもそうだ。狭い部屋も荷物を持たない彼には気にならない。白いバスタブひとつの殺風景な浴室も、一日の汚れを洗い流すには充分だった。
 ただ、ひとつ……。
 カズサが夢見ることがあるとすれば、それは……。
 フォーチュンの金魚。
 その存在を知ったのは五、六歳のときだ。遠縁の資産家の家で、水槽の中を優雅に泳いでいるのを見た。
 窓がたくさんある部屋だった。ガラスというガラスがぴかぴかに光って、カズサを圧倒した。
 水槽の中で生まれ、消えていく泡も、宝石のように輝いていたのをおぼえている。
 その中で優雅に泳ぐ金魚の姿に、カズサは目を奪われた。
 まるで澄ました少女のように……。
 金魚たちはカズサに見向きもしなかった。
 赤い、大輪の花のようだった。
(ああ、これだ。これがいい……)
 カズサは金魚の夢を見た。
 何度も。
 何通りも。
 だが、結局、何ひとつ実現するはずもなく、いつのまにか金魚の夢も見なくなっていた。
 金魚も、夢を見ることも、カズサの器からこぼれ落ちたのだろう。
 新しく住んだこの街に貸し金魚屋があったのは意外だった。
 金魚屋を見たのはこれが初めてだったが、こんな下町の商店街の中にあるものなのだろうか。建物も間口は狭いし、立派でもない。
 それでも、ショーウィンドウ越しに見る金魚はどれもみな素晴らしかった。絹のハンカチのような尾びれを揺らして優雅に泳いでいる。
 その姿を見た途端、カズサの記憶の中の赤い金魚もユラユラ動き出した。
 これは残像……?
 夢の残り香……?
 気がつくと金魚屋の前に立っている。工場からの帰り道、カズサは、つい足を止めてしまうのだった。
 今日はとうとう貸し金魚屋の店員に声をかけられてしまった。
(あの子……俺のことを変に思ったんだ……)
 無理もないと思った。このところ毎日のようにショーウィンドウをのぞき込んでいるのだから。
 しかも、カズサはどう見ても高価な金魚には縁がなさそうな人間だ。
(次は通報されるかもしれない)
 しばらくあそこには近づかない方が賢明だろう。
 カズサは重たい足取りでアパートの階段をのぼる。
 通路の丸い電灯の下で、華奢な少女とぶつかりそうになった。
「どーしたのカズサ。失恋したみたいな顔してる」
 メイファは不思議そうに言った。彼女は隣に住む留学生で、夜間大学に通っている。今も大きな鞄を抱えて授業に行くところなのだろう。
「何でもない……」
「ウソ。何でもないって顔じゃない」
「疲れてるんだ」
 カズサはメイファを適当にあしらうと、小さなアパートの小さな部屋に飛び込んだ。背後で少女が「バカっ」と叫んでいるのが聞こえた。悲鳴のような、鋭い声だった。
(失恋したみたいな顔だって?)
 メイファの言葉が意外なほど胸に突き刺さっていた。カズサは動揺する。あんな言葉を気にしているなんて、まるで彼女の発言が真実を突いているようではないか。
(失恋だなんて。金魚のことを考えていただけなのに。しばらく見に行くのをやめようと思っていただけ。それだけなのに……)
 カズサはベッドに横たわり、目を閉じる。
 器がひび割れる光景が見えた。
 そこから赤い金魚が飛び出してきた。
 自分が何を望み、何処へ行こうとしているのか……。
 カズサには分からなかった。

「やあ、こんにちは」
 午後の露出オーバー気味の日差しの中。店の外で窓拭きをしていたユーリは、背後から声をかけられた。
 柔らかなテノール。
 振り返ると、なんとなく高そうなスーツを着た、四十代くらいの金髪の男が立っていた。
 見るからに高そうなスーツを着ている人より、なんとなく高そうなスーツを着ている人の方がはるかに金持ちであることを、ユーリはテルシマのところにやってくる客を見て学んだ。
 この男は正真正銘の金持ちだ。
「そろそろ仕事には慣れたかな?」
「あ、ありがとうございます。少し慣れました」
 ユーリはペコリと頭を下げる。
「それは良かった」
 男はなぜか嬉しそうに、あるいは、ほっとしたように微笑んだ。彼の目元には幾筋かの皺が刻まれ、よりいっそう優しげな人物に見えた。
「えっと……テルシマさんに御用ですよね?」
 ユーリはおずおずと尋ねる。目の前の紳士が店内に入る様子を見せないのがどうにも奇妙で、落ち着かなかった。
「ああ、もちろん、そうなんだけど。でも、今日はどちらかと言うと君に用があって……」
「僕に……?」
 突然の展開にユーリは戸惑い、すぐさま怖くなった。こういう時はたいてい、何か良くないことが起きているものなのだと、少年は経験上知っている。
「……」
「……」
 ユーリと紳士はお互いに相手の次の言葉を待って、黙って見つめ合っていた。
 その時。
 店の扉が開いて、店内から姿を現したテルシマが、
「リチャード」
 紳士に声をかけた。
「えっ、リチャード……さま?」
 ユーリは驚いて、テルシマと紳士を交互に見つめた。
(この人が?僕に紹介状を書いてくれた……?本当に?本当に存在してたのか……)
 まるで、空想上の生き物に遭遇してしまった心持ちだった。
「やあ、久しぶりだね」
 リチャードは少年の困惑に気づいていないのか、嬉しそうに言った。
 その言葉に、ユーリはまたもや戸惑う。
「あの……えっと……僕たち……お会いしたことありましたっけ?」
 ユーリはできるだけ遠慮しながら、しかし、正直に言った。
「え……?」
 リチャードの両方の眉毛が、悲しそうに下がった。

「私は君のいた施設の評議員を、ずいぶん長いことやっているんだけどね……。まあ、訪問に行っても、あまり印象に残らないタイプだから……」
 店内の隅に置いてある、年代ものの応接セットのソファに座ったリチャードは、少し寂しそうに笑った。
「すみません……」
 ユーリは小さく頭を下げる。少年の尻の下で、革張りのソファが軋む音がした。自分が毎日拭き掃除している応接用のソファに、こうして座るなんて、想定外すぎて落ち着かなかった。
「でも、あの、リチャード様が印象に残らないんじゃなくて、僕たち、施設長から評議員さん達のことをジロジロ見ないように厳しく言われているんです。だから、えっと、みんな、施設に訪問に来る他の評議員さんの顔も全然おぼえていないと思います」
「はは……。ありがとう」
 リチャードは相変わらず力なく笑っているが、心なしか嬉しそうにも見える。
 この二ヶ月の間、ユーリは、自分に推薦状を出してくれた(らしい)リチャードという人物のことを忘れていたわけではない。
 ただ、テルシマに聞いても「そのうち現れる。そうしたらわかる」としか答えてくれないので、ユーリは、リチャードという人物も『まっとうじゃない貸金魚屋』のような存在なのではないかと思っていたのだ。
 タブーなら触れてはいけない。
 そう思って、なるべく考えないようにつとめた。
 しかし、今、ユーリの目の前に現れたリチャードは、タブーとか、まっとうじゃないものから、とても遠い人物に見えた。
「施設を出て進学や就職をした子の様子を見に行くのも、評議員の仕事なんだけど、一昨日、面会に行った子も僕のことをおぼえていなかったんだよね……」
 リチャードは目の前のユーリに、というより、応接セットの近くの帳場に座っているテルシマに聞かせるように言った。
 テルシマは何か書き物をしながら、黙って聞いている。
 彼らの関係は、ユーリの目には、客と店主という範疇を超えているように見えた。しかし、友人と言うには年齢が離れているし、そこまでのなれなれしさもない。ただ、なんとなく、古い知り合いなのではないかと感じさせる空気が、二人の間にはあった。
 リチャードはテルシマの素っ気ない対応にはすっかり慣れている様子で、話を続ける。
「まあ、それは、いいんだけど。その……僕のことをおぼえていなかった子にね『ユーリという子にも会いに行くか』と聞かれてね。うん、まだ行ってないから、これから行くことになるねと伝えたら、伝言を頼まれて……」
「えっ」
 ユーリは思わず声をあげる。
「あ、やっぱり、心当たりがあるんだね?」
 リチャードは嬉しそうである。
「え……あの……」
 ユーリはしどろもどろである。
(ショウだ。ショウに違いない)
 実のところ、ユーリは金魚屋の仕事が決まってからも、ショウに手紙を書けずにいた。
 もう二ヶ月も経つというのに。
 親友……だと自分が思っている少年に対して、ユーリは現在進行形で不義理をしている。その事実を思い出して胸が痛くなった。
「そ、そんな困った顔をしなくても……大丈夫だよ。べつに何か悪い知らせというわけじゃないんだ。ショウ君……というのがその子の名前なんだけど、知ってるよね?彼がね、君からの手紙を待っていることを君に伝えて欲しいと頼んできたんだ。まあ、君も心当たりがあるみたいなんで、話は早いと思うけど……」
 リチャードはそう言うと、スーツの胸ポケットからメモを一枚取り出して、応接セットのテーブルの上に置いた。
「ショウ君の大学の寮の住所だ。これは、私のお節介。もしも……君が彼の連絡先を、何らかの理由で失くしてしまっていたらいけないだろう?あっ、此処の住所は伝えていないよ。彼も私には聞かなかった。自分の連絡先は君に伝えてあるから、とね」
 それは本当だった。ショウの連絡先はユーリの小さなカバンの底にちゃんと保管してある。リチャードが心配したような事態は、起きていないのだ。
 だから。
 ユーリさえその気になれば、いつでもショウに連絡ができる。
(でも……)
 書けないのだ。
 理由は自分でもよく分からない。
 ショウのことを考えると、ただ、ただ、苦しい。彼に比べたら、今の自分はとてもちっぽけな、取るに足らない存在に思えた。こんな自分の現状を知らせる便りなんか送ったら、ショウはきっと呆れるだろう。
「……」
 気がつくとリチャードが、首を傾げて、ユーリを見ていた。その表情は、少年のことを心配しているように見える。
(どうして、僕なんかのことを……?)
 リチャードも、テルシマとはタイプが異なるものの、変な大人だと思う。
「彼はね、君の連絡先は君自身から聞きたいそうだ。どんなに短くても、どんなに遅くなってもいいから、手紙を書いて欲しい。それがショウ君からの伝言だ」
 ユーリは曖昧に頷くことしかできない。
 嘘はつきたくない……。
 しばらく沈黙が続いた。店の中には、金魚のポンプが正確なリズムを刻む音だけが、延々と流れ続けた。
 やがて、リチャードは話題を変えることにしたらしい。
「えっと……僕の本来の用件なんだけど……。君は此処での仕事や生活で、困っていることが何かあるかい?」
 ユーリは黙って首を横に振った。
「まあ、此処なら大丈夫だと思っているけどね。金魚たちと、それから……彼と相性さえ悪くなければ」
 そう言って、リチャードはテルシマの方を見た。
 テルシマはいつものように無反応だった。

 その日。工場長から残業を言い渡されたカズサが家路についたのは、日付が変わろうとする頃だった。
 人通りの途絶えた商店街を、いつものように俯き加減で歩いていた。誰の目線があるわけでもないのに顔を上げられない。結局、他人の実在など、カズサにとって意味のないものなのだ。
 彼にとって意味のあるもの。それはフォーチュンの金魚だけだった。最近は、寝ても覚めても金魚のことばかり考えている。
 仕事をしていても、道を歩いていても、カズサの意識の半分は金魚の幻想を追っていた。
 今、道を歩いているのも、半分だけのカズサだ。
 誰もいない商店街。薄汚れたシャッター。化粧が剥がれた道化師のような街……。
 その角に提灯をさげた男が立っていた。
 スーツもシャツもネクタイも夜の闇の色。
 まるで保護色だ。提灯だけが満月のように、卵色に光っていた。
 男はカズサをじっと見ていた。小さな目とちょび髭が胡散臭い。
「お兄さん、ちょっと」
 男は、無視して通り過ぎようとするカズサの腕を掴んだ。「金魚、いりませんか?」
 男を睨んでやり過ごそうとしていたカズサは驚いて立ち止まる。
「いつも金魚屋を覗いていたでしょう?」
 カズサの顔つきが驚きから警戒に変わる。それを見た男は、
「あ、いやいや、怪しい者ではないのです。警察関係者でもごさいません。申し遅れましたが私、ホラグチと申します」
 スーツの内ポケットから名刺を取り出して、カズサの手に無理やり押し込んだ。
「非合法組織・庶民に金魚を普及させる会代表…?」
 カズサは名刺とホラグチと自称する男を交互に見る。どちらも怪しい。怪しさを凝縮して、さらに煮詰めたように真っ黒だ。
「手前どもは『違法貸し金魚』を扱っております」
 ホラグチは満面の笑みを浮かべて言った。
 笑うとますます怪しい。
「違法貸し金魚?」
「フォーチュンの金魚ですよ。それも、とんでもなく効果のあるやつです。あっ、疑ってますね。そんなに効果がある金魚がいるのか、どうして違法なのか、そうお思いになっているんでしょう?いやぁ無理もない。しかしですね、本当にいるんですね、これが。そして違法なのにもちゃんと理由があるんです。なにしろどんな願いでも必ず叶ってしまいますからねぇ。国家転覆でも願われた日にゃあ大変なことになってしまうでございましょう?そういう理由なんですよ」
 ホラグチは呆れるほどよく喋った。
 だが、軽蔑しながらも、カズサは男の話にじわじわと引き込まれていった。
 フォーチュンの金魚が手に入るかもしれない。そんな話はこれから先、冗談でも出ないだろう。
「どうせ高いんだろう?」
 カズサの胸は高鳴っていた。
 同時に微かな戦慄を感じる。
 夢は願うだけのもの。それが叶った後、何が待っているのか、カズサには想像もつかない。
「そりゃあお安くはないです。フォーチュンの金魚ですからね。しかーし!手前どもはあのケチな金魚屋どもとは違いまして料金は後払いでごさいますからね。金魚に願いを叶えてもらった後で手に入った利益の一部を還元して頂ければオッケー!なんでございますよ。何しろ富でも権力でも願ったとおりですからね。謂わばあなた様の未来への投資でごさいますよ、投資」
 ホラグチは念を押すように言った。聞けば聞くほど怪しい話だった。
(でも……)
 カズサにとって、たったひとつ意味のあるもの……。
 それが手に入るのなら、他のものは何も望むことはないだろう。
 例えば……。
 平穏な生活。
 気がつくとホラグチがこちらをじっと見ていた。何かを確信したような笑みを浮かべている。
「お決まりになりましたね」
 カズサは短く「ああ」と答えた。

 もしもショウが《擁護の翼協会》の今年の奨学生に選ばれていなかったら。
 次点はユーリだった。
 もっとも、この二十年でいちばんの秀才と言われるショウとユーリの成績の差は、笑ってしまうほど歴然だったのだが。
 それでも、例年ならユーリの成績は《擁護の翼協会》が施設ごとに一人と決めている奨学生に選ばれるレベルだった。
 ユーリと同じ施設にショウがいなければ、あるいは、せめて年齢が一歳でも違えばよかったのだが、二人の登録上の年齢は同い年だった。(施設にいる子ども達の本当の年齢は、必ずしも正確に把握されているわけではない。)
(運が悪かっただけ。ショウのせいじゃない。それに……)
 自分が奨学生に選ばれるよりも、ショウと同じ施設で出会えたことの方が、ユーリにはずっと価値があることに思えた。
 ショウほどの友人は、なかなか得られるものではない。自分は幸運だった。
(でも……)
 ショウが大学へ進学して、これから先、二人の距離はどんどん離れてしまうかもしれない。
 いや、離れるだろう。
 将来有望なショウに比べて、自分は金魚屋の下働きに過ぎないのだ。
 もしも。
 もしも二人が別々の施設で育ち、奨学生として大学で出会えていたなら。
 もしも二人が一歳でいいから、登録年齢が違っていたら。
 ユーリはつい、そんなことを考えてしまう。
 こんな夢のようなことは、フォーチュンの金魚だって、今さら叶えてくれないだろう。彼らはもともと運が良い人間に、追い風を送るような存在に過ぎないというのがユーリの考えだ。
 ユーリはべつに、奨学生に選ばれたショウが妬ましいわけではない。彼の学問への情熱と努力をすぐそばで見てきたユーリにとって、親友が奨学生に選ばれたことは喜ばしいことだし、彼は誰よりその地位に相応しいと思う。
 ショウの熱意と比べたら、ユーリは彼ほど勉強が好きなわけでも、学問を極めたいわけでもなかった。大学に行けば、体格に恵まれなくてもうまいこと世の中を渡っていけるのではないかという、下心のようなものが、ユーリの勤勉さの源だった。
(そりゃあ少しはうらやましいけど……)
 そのことで、ショウのことを嫌ったり憎んだりするほどではない。
(むしろ……ショウの方が僕を……)
 ユーリはもう何度目か分からないため息をついた。
『ショウへ。すっかり連絡が遅くなってごめん。僕は今……』
 金魚屋の二階。ユーリにあてがわれた、小さいけれど清潔な部屋。明かり取りの天窓の下に、片袖の机がある。その上に何日も置きっぱなしになっている便箋を前にして、ユーリは今晩も、そこから一文字も書けないままだった。
 金魚屋で働いています、と書こうとすると、手が震えた。
 大学生になったショウにとって、得体の知れない金魚屋で働いている友達なんて、恥ずかしいに決まっている。知られたくない。
(もし、知られたら……)
 ショウに話したいことはいっぱいある。だが、ユーリが伝えたいと思う日々の出来事は、ショウの目にはくだらないものに見えるかもしれない。自分の今の生活を親友に嗤われてしまうかもしれないと想像すると、惨めだった。
 ユーリはいつの間にか泣き出していた。

 指定した日の深夜。
 あの日と同じように提灯をさげたホラグチが、カズサのアパートまで、一匹の赤い、ランチュウ型の金魚を届けに来た。
 アカデメキンの突然変異だという。頂点眼という名前のとおり、飛び出た目は真っすぐ上を向いている。
 金魚は運搬用のナイロン袋の中でじっとして動かない。水中花のようだ。
「ときどき様子を見に寄らせて貰いますよ」
 ホラグチは金魚に見入っているカズサに意味ありげに笑いかけると、
「ぜひ富クジをお買いなさい。出来るだけたくさん」
 そう囁いて帰っていった。

 水槽がないので浴室の白いバスタブに水を張った。
 恐る恐る金魚を放す。
 赤い花の姿をした魚はゆらゆらと、浴槽の底を這うように泳ぎ出した。
 カズサは浴室の床に座り込んだ。
 バスタブに体を預け、透き通った水の底を覗き込む。
 彼の目は金魚を追った。
 ただひたすら金魚だけを。
(ああ、金魚だ。金魚なんだ)
 カズサは自分が器から流れ出していくのを感じた。
 音が消えた。
 時間も消えた。
 みんな溶けて無くなった。

 そう言えば……。
 メイファがやって来た気がする。
 あれはいつのことだろう……。
 彼女はひどく怒っている様子だった。けれど、何を怒っているのか、その声がカズサの耳に届くことはなかった。
(水があるから……水の中だから……)
 よく聞こえないのだ。
 メイファは泣いていたような気もする。
 だが、水の中では涙も分からない。
 泣いても分からない。

 せせらぎの音がする……。
 カズサは目を覚ました。
 いつのまにか眠っていたらしい。
 思い瞼を無理やり開ける。
 倦怠感が首のつけ根から全身に、毒のように回っていた。衰弱しているのが自分でも分かる。
 どれくらい浴室で眠っていたのだろう。
 何分?何時間?
 それとも……。
「……カズサ?」
 頭上から圧し殺した声が聞こえた。
 人間だ。
 カズサのそばに立っている。
 いつからそうしていたのだろう?
 今まで気がつかなかった。
 せせらぎの音はまだ聞こえる。
「メイファ…?」
 拡散していた意識がようやくカズサの中に戻ってきた。
 曖昧だったものが名前のある、確かなものに姿を変えていく。
 カズサのそばに立っているのはメイファ。隣に住む留学生。
 それは分かった。
 だが、彼女がどうして凍りついた顔をして此処に立っているのか。それが分からない。
 メイファは手に黒いものを握りしめていた。
 ゴム製の……それは……。
 浴槽の栓だ。
「そ……そんな!」
 カズサは全てを悟った。
 悟ってしまった。
 狼狽えて浴槽を覗き込む。思ったとおり、水はほとんど残っていなかった。
 残された僅かな水が渦を描きながら排水されていく。
 その流れに逆らうように、金魚が泳いでいた。下手くそな泳ぎだった。
「あぁ……」
 おろおろするカズサの目の前で、金魚はくるくる回りながら排水口に吸い込まれていった。
 すぽん。間の抜けた音が最後。
 あっという間の出来事だった。
(ああ……)
 次の瞬間、カズサの思考は停止した。
 目の前は真っ暗だった。
(排水管の中だから仕方ないか……)
 カズサは何処までも落ちていった。

 深夜だというのに、店の扉を激しく叩く音で目が覚めた。
 ユーリは寝台から抜け出す。
 隣のテルシマの部屋の様子をうかがい、声もかけてみたが返事はない。テルシマは自分の部屋にいないようだった。
 追いつめられたように扉を叩く音は、途切れることなく続いている。
(仕方ないなあ)
 ユーリは手早く着替えて階段を降りると、彼らの生活のための空間と店とを隔てている扉を抜けて、金魚用のポンプのモーター音が響く店内を通り抜けた。
 店の扉を開けると、そこには青ざめた少女が立っていた。
 ユーリより少し年上で、ライラック色の、襟の高い、異国風の服を着ている。
「ドクターが金魚屋さんに来て欲しいって。早く。ねぇ、早く来てよ。私……こんなことになるなんて思ってなくて、排水口に金魚を流してしまった!」
「え?え?」
 事態がまったく飲み込めないユーリだったが、少女の剣幕に押され、慌ててテルシマを呼びに行く。
(たぶん、あそこだ)
 ユーリは店の奥の、ついさっき通ったばかりの扉の向こうへ飛び込むと、狭い階段を、今度は地下へと降りていった。
 階段の先の通路の突き当たりに、重たい鉄の扉に守られた部屋がある。
 テルシマは夜中、その中に閉じこもっていることが多い。
「テルシマさんっ。テルシマさんっ」
 ユーリは扉を叩く。鈍い音が地下に響いた。
 返事はない。
 今度はドアノブを回してみようと思った瞬間、中から扉がゆっくり開いた。
「何だ?」
 無感動なテルシマの顔。彼はなぜか白衣を身につけていた。
「あの……」
 ユーリの目は、テルシマの背後に釘付けになる。
 夜空のように暗い部屋の広さを掴むのは、不可能だった。ものすごく広そうでもあり、おそろしく狭そうでもある。
 そこにいくつもの、ほの明るい球体が浮かんでいた。
 すべての球体は水で満たされ、それぞれ一匹の金魚を抱えている。
 青い光のすじが球体から球体へ伸びて、複雑な三次元の模様を描いていた。
「これは……?」
 衝撃のあまり、ユーリは暫し少女のことを忘れてしまった。
「ユーリ。お前は俺に用があるんだろう?違うのか?」
 テルシマの様子はいつもと変わらない。こうしてみると、本心がまったく分からない男だ。
「は……はい、そうでした」
 ユーリは少女のことを思い出し、手短かに事情を説明した。
「金魚を排水口へ?」
「はい。それでドクターが金魚屋を呼んでくるように言ったとか…」
 金魚を排水口に流したことと医者がどうつながるのか、ユーリには想像もつかなかった。
「……よく分からんが、仕方ない、行ってみよう」
 テルシマはまだ呆然としたままのユーリを促して、店先で待つ少女のもとへ向かう。
(あの部屋は……あの光景は……いったい……。あれがメンテナンス?金魚にお金がかかるって、あれのこと?……でも、メンテナンスが必要な金魚たちはサンクチュアリに送られたはずなのに……)
 ユーリは階段をのぼりながら、自分はまだ夢の中にいるのではないかと疑っていた。

 少女は店先でそわそわと、落ち着きのない様子で待っていた。
「お待たせしまし……」
「いーからっ。早く」
 テルシマの言葉が終わるより先に、少女は彼の腕を掴んで引っ張った。
「おい……っ」
 さすがのテルシマも面食らったような声を出す。
 それも少女の耳には届いていないのか、泣きながらテルシマの腕を引っ張り続けていた。
「分かった。一緒に行くから。戸締まりだけさせてくれ」
 テルシマは白衣のポケットから金色の鍵を取り出すと、一瞬考えるような表情になり、ユーリに「ついてくるか?」と聞いた。
 ユーリは勿論そのつもりだった。
「早く。早くってば」
 テルシマが店の鍵をかけ終わるのを待ちかねるように、少女は駆け出した。ときどき振り返っては早く、早くと言う。
 ユーリとテルシマは彼女のライラックの背中を追って、商店街を走った。
 途中で一本違う通りに入る。
 たどり着いたのは花屋の二階にあるアパートの一室だった。
 小さな部屋の簡素な寝台に、青年が横たわっていた。
(あ……っ)
 ユーリの心臓がドキンと音を立てた。
 やつれているが間違いない。ショーウィンドウ越しにいつも金魚を見つめていた、あの青年だ。
 寝台の横には、医者らしき若い男が、質素な椅子に腰掛けていた。
「あなたが金魚屋さ……いえ、金魚士さんですか?」
 若い男は立ち上がって、テルシマに問いかける。
「はい、そうです」
「私はこの地区の一般医療を担当しているマードックと言います。実は……かなり困ったことになっていましてね」
「いったいどういう状況なんですか?彼女の話では金魚を排水口に流したそうですが」
 テルシマは少女の方をちらっと見る。
 彼女は部屋の入り口で足を止めたまま、叱られた子どものような顔で、医者とテルシマのやり取りを見守っていた。
「そうらしいです。私もこの目で見たわけではないのですが……。その直後に彼が意識を失ってしまったそうです。それから丸一日以上眠ったままなんだそうで……」
 マードックと名乗った医者は、困り果てた様子だった、
 まだ若い医者で、経験もたいしてなさそうだった。医者の配置は《連盟》が決める。こんな下町に送り込まれているくらいだから、コネも実力も、今のところ持ち合わせていないのだろう。
「彼は眠っているんですか?」
 テルシマが尋ねる。
「はい。眠っていますね。ええ、状態としてはただ眠っているだけなのです。……でも、何をしても目を覚まさないんですね。全く反応がない」
 医者は不思議そうに言う。
「幸せをもたらす金魚を粗末に扱うとバチが当たる、なんてことがあるんですか?」
「そんなことはありません。……もっとも、合法の金魚に限ってですが」
 テルシマは即答した。
 彼の眉間にはいつもより深い皺が刻まれていた。
「おそらく……彼が手に入れたのは違法な貸し金魚だったと思われます。彼らにはどんな夢でも叶えてしまうといわれるくらい強い力があるのですが、そのぶん反動も大きくて、叶えた夢と同じスケールの不幸が後から必ずやってくるんです」
「じゃあ、彼の今の状態は……」
「そうかもしれません。……ただ、この部屋を見る限り、彼が何らかの夢を叶えた後だとは考えにくい」
 それはユーリも同感だった。この部屋に比べたらユーリが育った施設の方がまだ、生命と生活の匂いがしていた。
 この部屋には何もない。
 青年は何も手に入れていない。
「夢なんて……」
 突然、少女が口を開いた。
 ユーリたちは、はっとして、彼女に注目する。
 少女は肩を震わせながら、
「カズサは何も叶えてない。金魚が来てからはずっと、そばにいた。何もしようとしなかった。バチなんか……当たるはずない」
 怒りを押し殺したように言った。
「金魚のそばにいた?ずっと?」
 テルシマの問いかけに、少女は拗ねたような仕草で頷いた。
「ご飯も食べてなかった。私が話しかけても、まるで声が届いていないみたいで……。怖かった。みんなあの金魚のせい……。だから、私……」
 少女は泣き出してしまった。青年のことで、自分を責めているのだろう。
 ユーリは少女にかける言葉を見つけられなかった。
 テルシマは何やら考え込んでいる。
 そこへ。
 黒尽くめの、見るからに怪しいちょび髭男が鼻歌交じりで現れた。
 男は部屋の中の様子を見て取ると、くるりと回れ右をして逃げ出そうとした。
 それをテルシマが鋭い口調で呼び止める。
「待て。ホラグチ。逃げるな」
 ビクッとして立ち止まった男は、引きつった笑顔で振り返った。
「ど、どうしてテルシマさんが此処にいるんでしょうか……ね?」
「医者に呼ばれたんだ」
「ど、どうして医者までいるんですかね……?」
「聞きたいか?」
「い、いえ。あんまり……」
「聞け」
「は……はい」
 ホラグチと呼ばれた男とテルシマは知り合いのようだった。
 もっとも、お互いに好意を抱いているとは言い難い仲のようだ。
 ホラグチは「相変わらず堅物なんだから」とか「ホント、タイミング悪いよな」などと呟きながら部屋の中へ入ってくる。
「……で、何があったんです?おしえてくださいよ」
 ホラグチは渋々という様子で言った。
 テルシマはこれ以上ありえないくらい不機嫌な顔で、此処に来るまでの経緯や青年の状態について語った。
「はあ?金魚を捨てたあ?」
 小さな目を大袈裟に見開いて、ホラグチは頓狂な声をあげた。
「そのうえ富も成功も手にしないうちに、こんなことになったって言うんですかい?」
 ホラグチは寝台に横たわる青年を、信じ難いという目で見つめる。
「すぐにいくらでも儲けられたのに……どうして……」
「見込み違いだったようだな。おそらく彼は富だとか成功だとか、おまえが横取り出来るようなものは何ひとつ望んでいなかったんだ」
「じゃあ、どうして金魚を欲しがったりしたんです?」
「欲しかったからだろう。それだけだ」
 テルシマはクールに言い放った。
「……は?どういうことで?」
「そのまんまの意味だよ。彼の願いは、おまえから金魚を受け取ったときに叶ったんだ。たぶん、な……」
 そう言ってテルシマは、静かな視線を青年に向けた。
 つられてユーリも青年を見る。
 たぶん……。そう。たぶん……としか言いようがない。
 青年の青ざめた唇は何も語ってくれないのだから。
「んな……馬鹿な……」
 ホラグチは肩を落とし、泣きそうな声をあげる。
 青年に金魚を与えたのは彼なのだ。
 そして。ユーリは悟った。
 以前、テルシマとの会話に出てきた『まともじゃない貸し金魚屋』というのは、この男のことなのだ。

「……あんたが」
 突然。少女が声をあげた。
 その場にいた誰もがギョッとして、その存在をほとんど忘れていた少女の方を見た。
「あんたが余計なことをしなければ、カズサはこんなことにならなかったのに。カズサを元に戻してっ」
 そう言って、それまで沈黙に閉じこもっていた少女は、ホラグチに殴りかかった。細い腕と小さな手で、自分より大きな男を何度も打つ。
 医者が慌てて椅子から立ち上がり、少女を取り押さえた。
 少女は激しく抵抗して、ホラグチを罵り続ける。まるで、こらえきれない痛みに悲鳴をあげているみたいに。
 ユーリは無性に腹が立っていた。
 どうして医者は少女を止めるのだろう。
 彼女のやりたいようにやらせてあげればいい。
 どうして……。
 怒ってはいけないのだろう。
 そうしてはいけない理由を、ちゃんと教えて貰ったおぼえがない。
 施設の職員たちの言葉はいつも同じ。
『悲しいのも寂しいのも君だけじゃない。此処にいる子はみんなそうだ』
 それだけ。
 ユーリはユーリの悲しみや怒りをどうすればいいのか、それを話して欲しかったのに。 
「まったく……勘違いしないで欲しいね」
 乱れた着衣を直しながら、ホラグチは少女に向かって言った。
「望んだのは彼なんだ。選んだのも彼だ。彼にはあんたより金魚の方が良かったんだろうよ」
 少女はその言葉に打ちのめされたように、その場に座り込んで泣き出した。
「ホラグチ、言い過ぎだ」
 テルシマがホラグチを睨んで言った。
 違法貸し金魚屋は「うへぇ」と首をすくめた。
「そうは言いますけどねえ、泣きたいのはこっちなんですよ。まったく……今から探し出せるかなあ。貴重な金魚だってのに……」
 不満をこぼしながら、ホラグチは部屋を出て行った。
 途端に静かになる。
 殺風景な部屋に、少女のすすり泣きだけが響いていた。
 ユーリは居たたまれない気持ちになって、テルシマを見上げた。
「どうにかならないんですか?」
「ならない……。違法貸し金魚の効果はプラスもマイナスも絶大だ。だからこそ《連盟》も取り締まっているんだ。後のことは医者と《連盟》に任せるしかない」
 テルシマの言葉に、ユーリは唇を噛みしめる。
 仕方がないということは分かっている。
 両親に置き去りにされたユーリも、そうやって《擁護の翼協会》の手に委ねられたのだから。
「……帰ろう」
 不機嫌の権化のような顔のテルシマに連れられて、ユーリは部屋を出る。
 最後に、もう一度、眠り続ける青年の顔を見た。
(え……?)
 ユーリは瞳を瞬く。
 青ざめた青年の口もとに浮かぶ微笑みを、確かに見たような気がした。

 あれから一週間が過ぎた。
 はじめのうちこそ警察に事情を聴かれたりして、馬鹿馬鹿しいほど慌ただしかったが、それも数日で止み、今は拍子抜けするほど静かだった。
 ユーリは切ない気持でいっぱいだった。
 あの青年の身に起こったことは、この程度で収拾をつけられてしまうようなことだったのか。
 それとも……。
 彼が富や権力を持っていたなら、もっと違っていたのだろうか。
 例えば、合法の金魚を借りられるくらいの人間だったなら……どうだったのだろう。
「ユーリ。手が止まっているぞ」
 帳簿に視線を向けたまま、テルシマが言った。
 ユーリは慌てて、床のモップがけを再開する。
 しばらく、金魚の水槽のモーター音だけを聞きながら床を磨いた。
「……そういえば」
 やがてユーリは顔を上げて、テルシマに話しかけた。
「ホラグチさんに会いました」
「……何処で?」
 テルシマの声は既に不機嫌だ。
 無理もない。彼は今回の件で、警察からホラグチについてしつこく聞かれていた。うんざりしているのだろう。リチャードが間に入ってくれなかったら、テルシマもホラグチの仲間だと決めつけられてしまうところだったのだ。
「うちの店の裏の道です」
「あいつ……何をしていた?」
「ちょうどマンホールから出てきたところでした」
「……」
 テルシマは目を瞑り、暫し沈黙した後、
「……それで?」
 話を促した。
 気のせいか、声が震えているようだった。
「うちの店の金魚の数が増えていないか聞かれました」
「……何と答えたんだ?」
「分かりません、と答えました」
 ユーリの返事にテルシマはため息をついて、帳簿を閉じた。
「それでいい。まったく、あいつは…」
「ホラグチさんは排水口に流された金魚を、テルシマさんが回収したと思っているんですか?」
「だろうな。どこまで本気で考えているのか分からんが」
「かなり本気みたいでした」
「……」
 呆れているのか、怒っているのか。
 テルシマは難しい顔で黙りこんだ。
 ユーリはモップの柄の頭に両手を乗せ、首を傾ける。
「今頃何処にいるんでしょうね。その金魚」
「さあ……な」
 テルシマの返事は素っ気ない。
「あの……」
「なんだ?」
「ずっと気になっていたことがあるんですけど……」
 ユーリはそう言いながら、テルシマに聞くべきかどうかまだ迷っていた。
「聞くのはおまえの勝手だ。答えるかどうかは俺が決めることであって、答えられないことは答えない。それだけだ」
 テルシマは相変わらず無愛想だったが、機嫌は悪くなさそうだ。
 ユーリは勇気を出して切り出した。
「どうしてリチャード様は、僕のことをテルシマさんに紹介してくれたんですか?」
 いくらリチャードが親切な人柄で、いっこうに就職の決まらないユーリを縁故採用させようと試みたのだとしても、その相手にテルシマを選ぶというのは考えにくい。テルシマはそういう融通をよしとしない男だ。
「心当たりはないのか?」
「あったら聞いてません」
「……本当に覚えてないみたいだな」
 テルシマは微かに笑っている。彼でも笑うことがあるのかと、ユーリは驚いた。
「《協会》本部のロビーにフォーチュンの金魚の水槽があったのは覚えているか?」
「……えっと、なんとなく」
 就職活動中、毎朝のように《協会》の営業マンと待ち合わせたロビー。そういえば、無駄に豪華な螺旋階段の足もとに、金魚の入った大きな水槽があった。あれもフォーチュンの金魚だったのか。
「あそこの金魚に愚痴をこぼしただろう?」
「え……?……えっ?」
 ユーリの脳裏に、ひらひらと泳ぐ金魚たちの映像が鮮明によみがえった。
 あれは……此処に連れて来られる三日ほど前だっただろうか。
 仕事がまったく決まらないことに心が折れそうになったユーリは、ロビーで営業マンと別れた後、ふと目に入った水槽にふらふらと吸い寄せられた。そして、我関せずに泳いでいる金魚たちに弱音を吐くくらいには、疲れて病んでいた。
「えっ?えっ?なんでテルシマさんが知ってるんですか?まさか金魚に聞いたとか言わないですよね?」
「リチャードだ」
「え?あ?リチャード様?」
「水槽の前でリチャードに声をかけられただろう?」
「え?……えっと」
 かけられたかもしれない。
 あれがリチャードだったかどうか、記憶は定かではない。だが、確かに水槽の金魚に話しかけているときに背後から大人に声をかけられた。
 いつものように叱られると思ったユーリは適当に謝ってその場から逃げ出したので、相手の返事や顔まで覚えていない。
「リチャードが言うには、フォーチュンの金魚たちがおまえの周りに寄ってきて、おまえの話に耳を傾けているようだったらしい。金魚たちがそんな反応を見せる相手ならば、此処で働くのに相応しいだろうと、あいつは考えたわけだ」
 ユーリはまだ半信半疑だった。
「なんでリチャード様は金魚に話しかけている変な子が僕だって分かったんでしょう……?」
「おまえは、なかなか就職先が見つからなかったんだろう?」
「は……い」
「そういう《協会》が言うところの『問題児』は、担当の評議員のところへ顔写真付きの書類が送られるんだ。リチャードはおまえの担当だったから、すぐに分かったらしい」
 そういうことか……。
 ユーリは年齢にそぐわない幼い外見をしているせいで悪目立ちする。リチャードも、写真の少年とユーリが同一人物であるとすぐに分かったのだろう。
「ユーリ」
「は、はい?」
「リチャードは相変わらず、おまえがあの友達に手紙を出したのかどうかを気にしている。さすがにおまえには直接確認しないだけの分別はあるらしいが、代わりに俺に毎日聞いてくる」
 テルシマは困っているのかいないのか、いまひとつ伝わってこない、淡々とした様子で言った。
「す、すみません」
「べつにおまえが謝ることじゃない。これはリチャードの問題だ。彼こそ、さっさと手紙を出せばいいんだ」
「え?誰にですか?まさかショウに?」
 テルシマの話は飛躍していて、ユーリにはよく分からない。
「そんなわけないだろう。リチャードの元の婚約者にだよ」
「リチャード様にそんな人がいるんですか?」
「詳しいことが知りたかったら、本人に聞けばいい」
「聞けませんよ……」
 ユーリが困ったように言うと、テルシマは珍しく笑った。
「人と人との関係には、時間が解決してくれるものと、時間が経てば経つほど拗れてしまうものがある。リチャードはそれを知っている。だから、おまえのことが心配なんだろう。自分のことは棚に上げているくせにな」
「……」
 ユーリは唇を噛みしめる。
 テルシマは、泣き出しそうなユーリに気づかないふりをしてくれたのか、黙って事務作業に戻った。
 しかし、ふいに、
「誰かを信じるには勇気がいる。おまえの友達には、その勇気があるようだ」
 と、独り言のようにつぶやいた。
 ユーリはハッとして、テルシマを見る。
 店主は何事もなかったような顔で、帳簿に数字を書きつけていた。
(僕は……僕は……ショウを……)
 信じていただろうか?
 答えは明白だった。
(なんてバカなことを……僕は……)
 ユーリは今すぐ、ショウに手紙を書きたかった。
 まだ間に合うのか分からないけれど。
 伝えたいことなら、いっぱいある。
 フォーチュンの金魚のことやテルシマのこと、リチャードのこと。
 カズサのこと。
(今晩こそショウに手紙を書こう)
 ユーリは決意した。
 その手紙を読んだショウが、何をどう思うのか、ユーリには分からない。
 ユーリにできるのは、ショウが投げ返してくれることを信じて、ボールを投げることだけだ。
「ユーリ」
 テルシマが声をかける。
「また手が止まってるぞ」
「あっ、はいっ」
 ユーリは元気に返事をすると、箒を動かし始める。
 気のせいか、店の水槽の中の金魚たちも嬉しそうに泳いでいるように見えた。
 
 ★

 暗いパイプの中を、カズサは泳いだ。
 やがて、地下の水道に押し出された。
 カズサは泳いだ。宇宙のような水の中を。
 彼は紛れもない、金魚だった。
 全身が均等に赤くて。
 可愛い金魚。
 あの日。
 幼い彼が、なりたいと願った金魚だ。
 カズサは嬉しくなって、元気よく泳いだ。
 澄ました顔で泳いだ。
 ずっとこうしたかった。
 金魚になりたかった。
 綺麗な金魚に。

〈終〉

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