【小説・雑感】匿名性のラクさ―『箱男』安倍公房


まだきちんと考え切れていないけど,いや少しも熟考できていないけど,
感じたことを書いておく.


『箱男』において,「見ること/見られること」が
大きなテーマとしてあることは誰しもが読めば分かるところである.


箱男は段ボールという箱で自分を覆うことにより,
自分の情報を周囲に開示することなく他者を見ること,言い換えれば他人の情報を取得することができる。

方や見られる側は,自分を見ている人間が一体何者なのかという情報を得られないまま,一方的に自分の情報を見知らぬ人に盗まれるのである.

つまり,両者は非常に一方通行なコミュニケーションの中にある.
箱男と通常の人間は非常に非対称な関係にあるわけである.
<見る側>は非常に気が楽である.他者の情報に対し,主観的に,恣意的に,個人的意見や評価を下せる.
情報を好きなように咀嚼できる.思想は常に個人の中で自由である.

これは,段ボールをかぶっていなくなって,見る側には優位性があるが,
さらに,箱男となれば,自分の情報を少しも犠牲にすることなく,他者の情報を得ることが可能だ.


<見られる側>は自分の情報を勝手に引き抜かれているわけである.
勝手とは書いたが,その度合いはシチュエーションに依る.

つまり,知人と向かい合ってカフェで話しているとすれば,勝手というよりは多少の合意がある中での”勝手な”情報の引き抜かれであるが,街で立っているときに,後ろにいる人がじろじろと自分を見ていると言った場合には,非常に”勝手な”情報の出し抜きが行われているわけである.

見られる側は常に自分が誰かの目にさらされ,他者から何かしらの評価や形容をされているという自覚を―エゴイズムとも言えるが―抱くがために,常に他者の目を気にし,自分を少なからず”整える”努力をする窮屈さが伴う.



段ボールで身を覆えば,人間は匿名性を手に入れる.
現代に置き換えれば,SNSとはまさに箱男―或いは箱女―の巣窟である.

例えば,ツイッターは自分の情報は一切明かさずに他人のツイートを見ることができるほか,他人のツイートに対し,批判したり,賛同したり,嘲笑したり,好きに主義主張が可能である.

”捨てアカウント”とは最たるものであり,他人のツイートに対し物申すためだけのアカウントというのは,まさに箱男の,というよりは箱男の利点を総なめした典型とも言えるわけである.


現代人は匿名性の楽さを知り,匿名性を追求しているとも言える.
SNSしかり,メタバース,アバター,セルフレジ,”プライバシー”,と言えるものがそうである.


コロナでもはや当たり前とされた
マスクはまさに,自分の情報を外部に漏れることを防ぐ”段ボール”である.

そういう意味では,みな箱男になりたがっているのである.



そういえば,
箱男と登場人物の看護婦,戸山葉子の2者はこの対比の象徴である.

箱男が<見る側>であり戸山春子が<見られる側>である.


しかし,この両者間における<見る/見られる>関係が特異なのは,
戸山春子が自分をさらけ出すこと,情報を他者に開示することに全くの抵抗が無いことである.

作中では確か,戸山春子は生粋の”見られる人間”であるとか,どこかで書かれていた気がする.


この場合,戸山春子は<見られる側>であるが,見られることに抵抗を感じていないタイプであって,裸である方がもはや匿名性を帯びると言う特殊な性質を持つ.

裸の戸山春子と箱男は,もはや立場が逆転し,箱男の方がより情報を持っているので,
箱男が<見られる側>に回っているという解釈もできる.




長くなってしまったので,また気が向いたら書こうと思う.
しかし,途中までは面白かったのだが,最後の方はあまり楽しみながら読むことが出来なかった.

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