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アメリカが好きだった

 高校生の頃、アメリカが好きだった。
おそらく、夏が好きだという理由とさほど変わらない理由で好きだった。
朝の陽光が渇いた匂いと共にやって来る。
何者でもない自分自身が、可能性に満ちてそのひかりを受け、そして自転車を漕ぐ。

12歳から22歳までに思い描く未来は、アメリカへのあこがれに似て、夏の朝の色がした。

初めてアメリカに行ったのは、21歳の夏休みだった。
留学中の高校の同級生を訪ね、1ヶ月足らず滞在する計画を実行したのだ。

渡航費用、パスポート、旅券、全ての準備を調えてから両親にも承諾を得て、初めてのアメリカに向かった。
女性二人旅は少しの心細さも無かったし、今でもその空気感が漂って来る。

サンフランシスコ迄、友人がむかえに来てくれ、滞在先は西海岸のサンノゼという街だった。そして、日本人に理解がある大学の先生宅にお世話になる事も決めていた。先生は50代の女性であり、私達を心良く受け入れて下さった。
ステイでもなく、先生宅を拠点に私達は旅行を計画しており、南へ向かう事になる。
サンフランシスコは、アメリカの闇も映し出していた。
AIDSの感染者が、浮浪者として街のあちこちに見られ、乳呑み子を連れた母子の姿もあった。
彼女達の生活は、そこに掲げるメッセージに対する支援金に支えられており、同性愛者も多く見られた。

私達の同級生から、自分自身もそうなのだと告げられ、彼がアメリカに来た理由を私達は知ることになる。
そもそも彼の体躯は日本人離れしているくらい大きく、体育会系であったために、もちろん私達は驚いた。しかし、彼が私達だけにカミングアウトしたのだという事実は、不思議な許容を私達に生み、彼の今までの苦悩をそっと撫でるように私達は彼に接した。

そして、滞在中に私達が危険に晒されず、安全な旅を続けらたのは、彼の尽力があってこそだったと、今でも思っている。

彼はユタ州の学校に在籍していた。

旅を続け、ユタ州に近づくにつれ赤茶けた地が何処までも続いた。
出逢う人々は、インディアンのルーツを姿形に映し出しており、彼等の多くはハイウェイ関係の職に就いていた。
土の家にプロパンを引き込んだ生活も、見せてくれた。
それは、私達の同級生がほとんど彼等と変わり無い服装と顔つきだったからかもしれない。
アメリカは広いだろ?
友人は私達に何度も言った。

今のユタ州もずいぶん変わったと聞く。
サンノゼの静かな街にはカジノが出来、
様変わりしたのだと、今でもサンノゼに住む友人が話してくれた。

もちろん、日本も大きく変わった。

今、高校生達はアメリカが好きだとは簡単には言わないだろう。

あれから、企業の研修講座に参加して、UCLAの夏季講座を受けたりして、何度かアメリカに滞在した。
私の青春は確かにそこにあり、未だ見ぬ日々がキラキラひかりを届けてくれた。

星)☆



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