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仏教について

 以下は、一般読者向けの「知識ゼロからの世界の三大宗教入門」の一部
 
教祖の諸相・・・仏教、キリスト教、イスラム教の一部項目
 仏教編・・・・・

 仏教、キリスト教、イスラム教の様な創唱宗教においては、教祖の生い立ちや生涯を知ることは、その宗教の全貌を理解するには不可欠である。
 この典型的な創唱宗教で、最初の普遍宗教である仏教の開祖ゴータマ・ブッダは、ヒマラヤ山麓のシャカ族の王国の王子として生を受けた。俗名をゴータマ・シッダルタ(良き富という意味なので、日本名なら富裕的な人であろう)と云った。父シュドーダナ(浄飯王)で、母はマーヤー夫人である。彼は母がお産の為に里帰りの途中のルンビニで生まれた。しかし、不幸にも生後七日ころ母は他界し、叔母のマハー・プラジャパティー(最初のブッダの女性出家信者といわれる)に養育された。
 シッダールタ王子は、王城であるカピラバースト(その位置は考古学的に未確定であるが、現在のインドとネパールにまたがっていたようである)において、出家までの期間を、国王となるべき王子として習得すべき教養や武道など治世の為の術を修めると共に、甘美な宮廷生活を送っていた。
 しかし、この宮廷生活に満たされる思いを募らせていた。経典に由れば、郊外に出る途中で、老人、病人、死者の葬列を目の当たりにし、最期に憂いを感じさせない修行者に会い、衝撃を受ける。
 この体験から、生・老・病・死に代表される人生の苦しみや世の無常といった仏教の根本的な問いが、シッダールタの心に芽生えたとされ、出家を決意した。そして、長子ラーフラ(後に出家し、持戒第一と称された僧になる)の誕生を機に、周囲の反対を押し切って、29才の時、全てを棄てて出家した。彼は先ず、諸方の知者を訪ねたが、これに満足することが出来ず、森林修行者となり、命がけの苦行を行った。しかし、苦行は悟への道ではないと感じたシッダールタは、苦行を棄て、後菩提樹と称されるピッパラの樹下において一人瞑想を行じ、やがて悟を開く。その間には、村娘スジャータからの乳粥の供養や、悪魔・鬼女からの脅しや誘惑を克服したというエピソードが、経典に綴られている。その結果、目覚めた人ブッタとなったゴータマであったが、彼は「欲望に迷う人々には、私の覚った真理は理解出来ないであろう」として、そのまま命を終えようとする。しかし、これを憂えたバラモン教の主宰神ブラフマーが、天界からブッダのことに降臨し、人々に真理を説くことを懇願する。シダールタは、ブラフマーの要請に突き動かされる形で、バラモン教的な自己救済の悟から、他者の救いを目指すことの意味に目覚め、真に仏教的な悟を完成させる。ここに仏教の覚者、ブッダが誕生する。
 真のブッダとなったゴータマは、嘗ての修行仲間5人への説法を決意し、サールナートに赴く。その途中で、最初の在家信者となる二人の商人の帰依を受け、さらに5人の修行者の帰依を受け、ここにサンガ(僧伽:教団)が形成された。
 以後、ブッダの活躍は、ガンジス河中流のバラナシーを中心とする200キロ四方を、人々に悟への道(仏教的な救い)を説いて廻った。
 その壮絶な利他行の最期の瞬間を伝える「遊行経」によれば、ブッダは最後の食事となった鍛冶屋のチュンダが供養した食事が原因で、重篤の病に罹り、瀕死の状態に陥る。これを悔やんだチュンダに対して「最後の食事を供養したチュンダは、最高に祝福される」と彼を気遣った。そして、愛弟子アーナンダに「悲しむなかれ、私は嘗て説いたであろう。全ては移ろいゆくものである。永遠のものは存在しない、と」と、諭し、長くブッダに使えた労をねぎらうのである。
 ところが、アンダーの制止にもかかわらず、瀕死のブッダに、無理矢理教えを請いにきたスバッタに対しても、ブッダは最後の力を振り絞り「スバッタよ。私は29才で善を求めて出家した。私は出家してから50余年となった。(その間)正理と法の領域のみを歩んできた。これ意外には(道の人)なるものは存在しない。」と仏教の道を説き、涅槃に入ったのである。
 まさに、人間として、また悟の道を切り開いた覚者として、ゴータマ・ブッダは人々のために真理を説き続けたのである。

執筆:保坂俊司

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