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仏教の姉妹宗教ジャイナ教の歴史と文化

 概要

 ジャイナ教は、社会的、宗教的背景を仏教と共有し、またその思想も概ね仏教と共通点の多い、仏教と姉妹宗教であるが、インドを離れ世界展開した仏教とは異なり、過去2500年間インドの大地に確りと根を張り、インド社会に確たる社会的、宗教的地位を維持し続けた民族宗教である。その意味で、ジャイナ教は仏教の合わせ鏡のような存在であり、インド仏教の盛衰に関する研究においては,欠くことのできない宗教であるのみならず、その独自の思想や修行形態には、仏教が忘れ去ったウパニシャッド時代の宗教的な熱気を今も感じさせる宗教である。つまり、ジャイナ教は、極端な禁欲と厳しい自己抑制の実践を通じて涅槃(宗教的完成)を獲得するという、典型的なインド型の宗教ということができる。その意味で、インダス文明以来のインド固有の宗教形態を継承した宗教である。
 勿論、仏教と異なり、死をも甘受する、あるいは死を希求する苦行を基本として、決して妥協しない伝統遵守の宗風は、インドにおける絶対少数派故に可能であったともいえるが、同時に仏教のようないわば世俗世界との境界を曖昧にしなかった故に、インド社会での飛躍的な拡大を望まず、宗教的な理想を頑なに追求し続け、今も変わっていない。このように表現すると、仏教がインド宗教界では、いわばその教理や実践において中途半端な宗教であったように聞こえるかもしれない。
 この点は、初期の宗教の純粋形態を墨守し、極め限定的な、つまり閉ざされた集団における自己充足的に満足するか、それとも初期の理想を時代と共に再解釈し、常に発展的に展開してゆく開放型宗教を目指すか、という両宗教の根本姿勢の相違が、時代と共に乖離し合い、両者のインドでの運命を大きく変えることになった、という理解が恐らく正しいのではないだろうか。
 つまり、仏教は開祖ゴータマ・ブッダの二重の覚り体験から、その最初期から常に他者への働きかけを不可欠とし、宗教的な価値を見出していた。つまり、後に確立した慈悲の思想である。一方ジャイナ教は、端的に言えば自力救済を基本とし、出家し厳しい修行による自己の完成(悟り)という方針を変えることはなかった。そのために、インドの大地から飛躍しようとする意志を持たなかった。一方仏教は、インドにおいても一時的には、自然宗教で、民族宗教であるバラモン教を圧倒するほどの隆盛し、またユーラシア各地に世界展開し、文明レベルでの影響をユーラシア各地に残すまでに拡大したが、インドの大地においえては、滅亡といっても過言でない衰退を期した。
 いずれにしても、ジャイナ教は宗教世界を中心として、仏教の様に世俗化せず、2500年に及ぶ長い歴史を、只管伝統を遵守し、歩み続けてきたのであり、おそらくは、今後も変わることなく、インドの大地に生き続けてゆくであろう。

 歴史と思想

 ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(偉大なる英雄の意味)は、その俗名をヴァルダマーナ(栄えるもの)といい、仏典に出てくる釈尊の謂わば先輩思想の6人(六師外道)においては、ニガンタ・ナータプッタ(束縛から離れたナータ族の主神者)である。彼は、仏教の開祖ゴータマ・ブッダよりやや先輩であり、その出身も商業が盛んで、ブッダにも縁の深いヴァイサーリー市の近郊に生まれた。彼は王族の出身と云うことであるが、この点でもゴータマ・ブッダと類似している。更に、結婚し一女をもうけた後、30才で出家し、苦行の後、40才頃に悟を開き地名(勝者、ジャイナ教では覚ったもの)となった。以後、30年ほどの布教の後、紀元前470年頃に72歳で、ナーランダー寺遺跡の近郊で入滅している。この生涯をみても、ゴータマ・ブッダとの類似が認められる。
 尤もジャイナ教は、マハーヴィーラが開祖というよりも、彼は代二十四代の粗であるという位置づけであり、おそらくは苦行者集団の改革者的存在を辞任していたのであろう。この点は、全く新しい教えを説いたと、自己認識するゴータマ・ブッダや仏教の考え方と大きく異なる。この点に、教祖生涯や教えの類似性がありつつも、仏教とジャイナ教の根本的な違いがあり、インドにおいて両者の歴史的展開が対照的に終始した原因の一つ、しかも最大とも云える要因があるのであろう。
 何れにしても、マハーヴィーラは、仏教同様に、あるいはそれ以上に徹底してヴェーダの権威を否定し、倫理的なで合理的な心の制御と苦行の実践に依る救済を説いた。この点で、妥協はない。つまり、ゴータマ・ブッダが、伝統的な苦行集団を離れて独自の宗教世界を創出したのに対し、マハーヴィーラは、伝統的な修行者集団の中で悟りを開いたという自覚であり、その意味で苦行は、ジャイナ教の基礎を形成するものである。その為に、仏教同様の倫理性や合理的思考を主張しつつも、過酷とも云える苦行を重視したのである。
 また、彼の思想は懐疑論を基礎としつつ、これを超越し、一種の相対論的であり、批判的反省主義であり、常に前提を伏しての事物理解となり、一種の相対論に近い立場をとる。
勿論、それは思想的な理解であり、宗教としてのジャイナ教は、徹底した苦行主義であり、行の有効性への懐疑的な視点は認められない。

 苦行重視故に教団組織は堅固である。

 ジャイナ教の教団組織は、仏教と異なりよく整備され、またその維持は常に教団の重要な観心事であり、一種の宗教税さえ制度化した。この点で、仏教は信者からの布施を重視したが、一方で教団運営のために僧が、寺院の資金を運営し、また、個人で金銭等資産をある程度保持、運営出来たために、宗教税のような信者を取り込むための教団組織は、未整備であった。それが結果的に、仏教の衰亡の原因の一因となったことも事実である。何しろ、ジャヤイナ教の僧の無所有戒の実践は、一糸まとわぬ全裸が原則であるほどに徹底しているのである。これが、ジャヤイナ教の二大宗派にして、謂わばジャイナ教の上座部派とも云える裸形派(デイタンバラ)である。彼らはマハーヴィーラ以来の伝統を守る、謂わば保守派であり、正統派である。彼らは21世紀の現在でも全裸である。
 一方、僅かに白衣を身に纏うことを許す白衣派(スベータンバラ)派がある。両派が、ジャイナ教の有力宗派であるが、偶然にも両派が分かれたのは、クシャン朝時代の西暦1世紀の終わりであり、この点でも仏教の大乗と上座部が分離した時期に近似する。しかも、この時代にはジャイナ教でも、仏教同様にマハーヴィーラの神格化と、その神像の製作が始まった。さらには、仏教のジャータカに当たる宗教譚が大規模に作られ、民衆への布教に用いられ多い委効果があったとされる。
 しかし、インドの国粋化時代であるグプタ王朝を通じてバラモン教の勢力が絶大となり、ジャイナ教も仏教同様、バラモン教への共生をいやが上にも強制される自体となった。この点で仏教はいち早くタントラ化などバラモン教化していったが、ジャイナ教も少なからぬ密教化や大衆化への対応は迫られた。しかし、ジャイナ教は、厳しい戒律の重視という基本路線があり、その点で仏教の様な全面的なタントラ化、つまり密教化には至らなかった。その為に、バラモン教への融解消滅現象は殆ど見られなかったのである。勿論、それ故に仏教の様な巨大な教団に生長せず、従ってバラモン教徒の社会的競合関係に無く、その為に敵視されることも少なかったということも、見逃せない要素ではある。
 更に云えば、彼らは戒律遵守という基本路線を堅持し続けた故に、インド宗教の受難期とも云えるイスラム支配時代を乗り切れたのである。この点で、仏教とは好対照の結果となった。また同様な理由で、近代以降の社会的な変化の時代にも、その存在を守り続けたのである。
 その原動力の一つは、戒律遵守を信徒にも求めた点にあろう。特に不殺生戒の遵守は、その職業選択や生活規範をも厳しく規定してきた。その為に彼等は、殺生から遠い商業(金融業、宝石商等が典型)などの極一部の職種にしか就けず、またその勤勉と正直、そして清貧を貴ぶ教えは、彼らに膨大な資本蓄積という結果を生み出した。中村元博士は、しばしばほんの一握りのジャイナ教徒が、19世紀までインドの民族資本の過半数を手中にしていた、と指摘する。
 尤も現在に至っては、往時の繁栄は見られないが、それでも非殺生主義を守り続けつつ、その豊かな資本を元手に、活発な経済活動を行っている。

執筆:保坂俊司

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