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海外にルーツがあるすべての人に伝えたいこと

 自分が乗り越えたことを他の人にも求めるのはいけないことなのか?どこかで聞いたことがあるが、困難を乗り越えた人は、たとえその最中がどんなに辛い記憶だったとしても、それを忘れてしまいたいと思うことはないそうだ。困難によってどれほど自身が成長したのか感じることができるから、というのが理由らしい。

 人は誰しもが、大なり小なり困難を乗り越えてきていると思う。私にとっての困難はアイデンティティーの確立であった。日本が欧米と最も違う点は、国内の民族が画一であるというところだと私は考えている。そのような環境に、海外にルーツがある人、特に子供が放り込まれると、多くの場合彼らは混乱してしまうのだ。実際私自身が大変混乱した子供時代を過ごしたと思う。

 少し自分語りになってしまうが、私自身のバックボーンを話したいと思う。私は両親が生粋の中国人で、別に残留孤児の血縁者というわけでもなく、日本人の遺伝子は一切有していない。両親は私が四歳の時に、幼稚園生だった私を連れて、中国の無錫から東京の練馬区に渡ってきた。母は、当時の幼稚園時の先生から、私が8ヶ月間無口な子供だったことなどを聞き、私に幼稚園でのことを聞いてきたが、正直幼稚園では特に思い出深いことはなかった。これに関しては、外国由来の子どもに関わらず、日本人の子供も就学前の記憶はあまりないのではないだろうか?とはいえ、私は小学生時も嫌な記憶はほとんどない。このように、中学生になるまで、自分が他の友達と違いがあることなど全く意識することがないまま、私は中学生になる。

 中学は自転車に乗って15分で通える地元の私立に入った。完全中高一貫制の女子高で、入学者説明会で、全員女子であることにおそれおののいたことを記憶している。しかし、同級生は気さくな子ばかりで、思い返せば、小学校の友人より、心の余裕がある子が中高では多かったように考えられる。そのため、私の自分理解に関する葛藤は、周囲の影響によって引き起こされたのではなく、自身がその段階に至ったことで、私の頭を悩ませ始めたのだろう。世にいう中二病を私が一切ばかにできないもの、確かに自分もその時期に「自分とは何か」を考え始めたからである。

 我が家は私が小学生の時に、日本国籍に帰化した。外国人が帰化する場合、自分に好きな苗字をつけることができる。あとで触れようと思うが、私の従妹の一家はそのタイミングで、中国人だとはわからなくなるような一般的な日本人の苗字をつけた。だが我が家では、家族会議を経てそのままそれまで使ってきた苗字を使い続けよう、という決定になった。小3だった私も、苗字を変えたくない、と主張した記憶がうっすらある。

 小学生は、まだ姓で国籍を判断できない子供ばかりであるが、中学生になると少しずつ知識も増えて、あれ、この姓ってオリンピックで見た中国選手のと同じじゃん、くらいの連想はできるようになる。くしくも我が家の苗字は、中国国内でも一位二位を争うほど人数が多く、当然同じ苗字の運動選手なんて山ほどいる。しかし、彼女らは、私のことを異端者として扱うのではなく、まったく自分たちと同じ存在として扱ってくれた。今思うと少し不思議だが、私の出身中高はいわゆるお嬢様学校と呼んで差支えのない学校だったため、親御さんの教育が大変素晴らしいものだったのかな?くらいに思っている。とまあ、このように民度が高いお嬢様方に囲まれて、彼女たちと完全に同じ存在であると思い込んでいた矢先、問題の中学二年生に突入する。

 私をまずびっくりさせたのが、「C(私の苗字)さん、尖閣諸島は中国のだと思う?日本のだと思う?」という同級生からの質問であった。別に「なんて無神経な質問をするんだ!なんて子だ!」とびっくりしたわけではない。自分が「絶対日本のでしょ」とすっと言えないことに驚いたのだ。私は完全に同級生に同化していると自分自身は思っていたが、この質問で、それは私の完全な思い込みであることに気づいたからびっくりしたのだ。それから私の葛藤が生まれ始めた。それまで「Cさんは、自分のこと日本人だと思うの?中国人だと思うの?」という質問もされたことがあったが、自分はその時なんて返したっけ?など、意識する前は普通の会話の一部でしかなかった他人からの言葉も、より敏感に感じるようになった。

 家に帰ってすぐに親にそのことを話した。外国由来の子どもは、親との会話が少なく、特に親の国の言語が話せないことが理由で、満足なコミュニケーションができないということも聞くが、両親は私をバイリンガルに育てたため、私は流暢な中国語でその衝撃的な出来事を伝えた。もちろん今のように客観的にはなれていないため、「尖閣諸島について聞かれたけど、なにも答えられなかった」くらいの内容の薄さで伝えたと思う。みなさん想像してみましょう、自分の子供にそのような質問をされたら、どのように答えるだろうか?私の両親は...

 「尖閣諸島は中国のもの!!!」と返してきたのだ。いや、中二だった私も驚くほどの断言ぶりである。両親は30代になってから日本に渡ってきたため、中国式の教育を受け、中国に対する愛国心があるからこその発言であることは、今だからわかるが、それを理解するのは14歳の私には少々荷が重かったのだろう。つまり、私は大混乱した。世間と友達、それに対してパパママの言うことが全然違う!そしてもっと混乱したのが、自分の思考にまとまりがなく、一個の結論が出ない、という点であった。胸のもやもやが解消されないまま、さらに大きな混乱が私を襲う出来事が起こる。

 それは尖閣ショックからおおよそ一年後の中三の時のことだった。友達数人とおしゃべりに花を咲かせていたのだが、たまたま話は中国のパクリ問題のことに関してになったのだ。当時中国はパクリミッキー、パクリドラえもんなど数々の問題作を世間に出し、世界のひんしゅくを買っていた。たまたまそれについての話題になったのだ。友達の名誉を守るために、一言断っておくが、彼女たちは決して私に悲しい思いをさせようと思って、そのことに触れたわけではない。私を完全に彼女たちと一心同体の仲間だと思い、何の気なしにたまたまその話になったのだ。しかし、彼女たちの考えとは裏腹に、私はまだアイデンティティーが確立できていないふやふやの自分しか持っていなかった。そんな私にとって彼女たちの笑い話はナイフのような鋭さで私の心に突き刺さり、血が流れるがごとく涙があふれて止まらなかった。「涙を見せたらあかん」と私はトイレの個室に駆け込んだ。ひとしきり泣いていると、個室のドアをコンコンと小さくノックする音が聞こえ、「Cちゃん、ごめん、ごめん、出てきてよ」と謝ってくる声が聞こえた。私もすぐに個室から出て、こっちこそごめん、みたいなことを言ったと覚えている。

 これを通し、もう一つ学んだ。自分は中国が悪口を言われると、悲しく感じる、ということである。また、周囲も中国が私の地雷であることを学び、危険地帯をウロチョロする同級生いなくなった。中国について触れられることが激減した残りの中高時代は、平穏であったが、私の自分に対する理解が深まることもそれ以降はなかった。

 そして私は大学生になる。ここで環境がガラッと変わった。中国からの留学生と知り合うことができる環境になったのだ。今までは、自分だけ他の同級生と違う二項対立だったのが、もう一つポジションが増えることで、一気に多角的に物事を見ることができるようになったと思う。また、多文化理解の授業も、私が自身の立ち位置を考え直すことを助けてくれた。授業の一環で、海外にルーツがあり、日本語がうまく話せないことで授業についていけない小学生たちに、一対一で勉強をみるボランティアにも毎週参加した。キャンパス移動があり、一年間しか行けなかったが、自分以外の海外由来の子は、どんなことを困難に感じているかなどを知ることができた。私の方がたくさん勉強になったと思う。そしてとうとう「私は私」ということろに至ることができた。「私は日本人」もしくは「私は中国人」と簡単に言うことができない、自分を自分で受け入れられるようになった。しみじみと、成長したな、と感じたポイントは、

 まず、日中の懸け橋になりたいと思えるようになったこと。私に様々な質問をして、それによって中国に対する理解が深まるのなら、何でも聞いてほしい、と思うようになった。もう一つは、中国の代表として、中国に恥じない行動をしたい、と思うようになったことである。苗字によって周りは一目で私が中国と関係がある人だとわかる。私と接する日本人の多くが、中国に由来がある人は私しか知らない。そのような日本人にとって私はまさに中国の代表なのである。私がわがままな言動をすれば「中国人はわがまま」と考えるだろうし、私が怠けてばっかりでいたら「中国人は怠け者」と印象付けてしまう。そんなことはできないと思った。もちろんこれは国に限ったことではなく、大学では私は出身中高の代表ということになるが、私は中国に恥じない言動を意識するようになった。

 長くなったので、ここで一旦締めくくる。次は、同じく海外由来の私の彼氏について書きたい。また、いづれ従妹の一家の話にもふれたいと思う。

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