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【馬と人の関係】だまされるな!これが虐待か!

みんなで楽しみに、そして待ちに待ったパリオリンピック!!
私は馬術競技。
家族はそれぞれ、開会式、バレーボール、サッカー、思いおもいの種目。

なのに、いきなり、やぶからぼうに、イギリスの馬術選手シャーロット・ドゥジャルダン選手の馬への虐待騒ぎとオリンピック出場辞退。

シャーロット・ドゥジャルダン選手は、オリンピックや世界選手権で数々の金メダルを達成し、スコアも世界一の記録保持者です。
私はなにか出鼻をくじかれ、久しぶりに怒りを感じています。。

おいしいラーメンを注文し、カウンターから厨房内の大将の調理の様子を、わくわくして眺め、やっと自分のラーメンが「はいよっ!」って出てきて、割り箸を割り、「さぁ食べよう!」と思ったら、隣に座った注文もしていない偏食主義者から「ラーメンなんて食う奴は人間じゃねぇ!」と、一方的にいいがかりをつけられて、注文したラーメンをどんぶりごと床に叩き付けられたくらいの、怒りと不条理を感じています。


問題となった虐待とされる動画はこちらです。

よく注意してご覧下さい。
それは、ショッキングな虐待動画だからではなく、この動画、加工されているからです。
しかも、明らかに馬を知らない人が、いい加減で適当にやった仕事だと思います。
でも、無頓着に見ると、恐い鞭の効果音により、虐待にしか見えません。
言うにことかいて、「1分間に24回も鞭打っている。」とも。

1. 虐待とされる動画と内容の矛盾

以下の内容は、まぁ、適当に読み流して下さい。
途中で辟易してくること保証します。
要は、この動画、あえて捏造ねつぞうとはいいません。でも、加工したいじくった人の仕事ぶりがあまりにもいい加減すぎますよ。ということを言いたいだけなので。

疑義1 なぜ鞭のタイミングと鞭の反響音がズレる?
疑義2 なぜ打ってもないのに、鞭の反響音がする?
疑義3 なぜ遠くの鞭は高く響き、目の前の鞭は音がしない?
疑義4 文字通り「鞭打むちうって」いるのか。
疑義5 なぜ馬が騎乗者を落として鞭から逃げようとしていない?
疑義6 虐待の最中に、生徒とドゥジャルダン選手がなんの会話?

動画1:虐待とされた動画

05-06秒:
鞭を振っているのに、ピシッと鞭の音がしていない。

14秒:
ヒュッというこの音は、かなり強く鞭を振らないと出ない音。鞭の音で緊張感を与えるためで、実際には打っていない。
これから、動画の中で、たびたび耳を突くようなビシッという鞭音が度々しますが、その音は、これくらい強く、そして確実に馬体を叩かなければ出ない音だということを、心して見て下さい。
つまり、適当にやったら、そもそも出ない音だということです。

17-19秒:
ドゥジャルダン選手が1回しか鞭を振ってないのに、鞭の音が2回しているシーンが2回。
しかも強い音がしているのに馬は痛いというボディランゲージが出ていない。馬の反応は「痛いっ!」ではなく、「あ~うるさい。」。

21-23秒:
ドゥジャルダン選手の位置と動作から、鞭は馬体に当たっているはずですが、音も聞こえないし馬も反応していない。つまり、鞭は当たっているけれど痛くはない強さ。
レッスン生とドゥジャルダン選手の会話がある。つまり、馬上のレッスン生が恐怖を感じるような馬の反応がないということ。
言い換えれば、馬に恐怖や苦痛がないということ。

30-34秒:
馬場の向こう端で、軽く鞭を当てているだけなのに、馬場全体に強い音が響いている。

37秒:
これも同じ。馬のボディランゲージは、「痛い!」ではなく「うるさいっ!!」

51-53秒:
鞭を軽く振っているだけなのに、不自然に強い鞭の反響音。しかも馬は反応していない。

54-55秒:
同じ振り方なのに、1回目は無音で、2回目は強い反響音。
鞭を振っていないのに、鞭の痛打音。

※動画の後半は、これまでの繰り返しなので、疑義はここまで。

あぁ、なんかもう、書いていてバカばかしくなってきました・・・・。
ここまでくると、この動画を加工した人も、本当はやる気がなくて、「あ~もうどうでもいいや。」と、もう適当に鞭の合成音を入れているとしか考えられません。他の仕事で忙しかったのでしょうか。

2.シャーロット・ドゥジャルダン選手の世界一たる所以

次に下の動画を見て下さい。
英国ハートプリー・フェスティバル・オブ・ドレッサージュ2017のときの、シャーロット・ドゥジャルダン選手と乗馬エン・ヴォーグの様子です。

とても些細なことですが、この動画のようなことが誰にも気づかれないように、さりげなく、そして確実にやるということが、シャーロット・ドゥジャルダン選手の偉大さと、馬たちから信頼される理由を示していると、私はいつも思うのです。

動画2:シャーロット・ドゥジャルダン選手の本当のすごさ


写真1:軽快な速歩のまま進路変更ポイントに向かっています。
写真2:進路を右に変更するのと同時に、前方から発せられているコーヒースチーマー(アルフレスコ社)の「プシュゥゥゥ」という異音を恐がり、ここから遠ざかろうして、馬の足並みが乱れはじめます。
写真3:馬は前脚の前進気勢を止め、馬体後部に緊張が走り、後ろ脚にエネルギーを溜めています。
写真4-6:馬が前方の異音に対する恐怖のあまり、大きく急反転してしまいます。とても急激な反応なのですが、シャーロット・ドゥジャルダン選手は、これを力で抑えるどころか、自分の体を地面に垂直に保ち続けようとし、まるで「私を中心軸にして反転しなさい。」と、馬が逃げやすくなるように導いています。
写真7-9:そして、「もう大丈夫! 落着いた? そうか、じゃぁ行こうか。」と言っているかのように馬を導き、馬も安心して競技に戻ります。

「恐かったね。もう大丈夫だよ。」

シャーロット・ドゥジャルダン選手は、大きな動作や力で馬を抑えつけるどころか、馬の本能的な「恐いっ!!」という反応の邪魔をしないようにしました。
馬はこのシャーロット・ドゥジャルダン選手の対応に安心したと思います。
そして、馬が安心するのと同時に、上の写真のように「恐かったね。もう大丈夫だよ。」と、やさしく愛撫しています。

3.馬のストレス耐性と騎乗者のストレス耐性

馬という生き物の、5500万年の時間をかけて構築された本能の一つに、異常な「恐がり」というものがあります。
これはどうにもならないことです。
あんなに大きな体をしているのに、ちょっとした音や、初めて見るものなどに、体全体でびびります。
そういう生き物に乗っている人間は、この本能を良く理解し、馬が恐がったときに、「この人と一緒にいるから大丈夫!」と、馬がすぐに正気を取り戻せるようになりたいものです。

そのためには、馬のストレスがまるで自分のストレスであるかのように感じられるほどの共感が必要で、これは普段から、リンゴを分かち合っては「これおいしいね。」とか、水を飲んでは「喉渇いちゃったね。」。
乗馬する度に、馬体に負荷をかけないようにあぶみにそっと脚をかけたり。
ハードなトレーニングで「ストレス耐性」をあげていくためには、馬が鞭を持っている「人」を信頼していることが大前提になります。もちろん鞭は馬を痛打する道具ではなく、合図や、逆に気を散らす道具として使います。
そして、馬がその刺激に対して「苦痛」や「恐怖」ではなく、「あ~、それ邪魔なんですけどぉ。」とか「あ~うるさい。わかってるよ。」など、人からの刺激が、自分が本来やるべきことへの「摩擦」、一言で言えば「やりにくさ」として受け入れられるものでなければなりません。
この動画中で、シャーロット・ドゥジャルダン選手が馬を「痛打」する場面は一度もありません。

4.なぜこのようなトレーニングが必要だったのか

では、なぜこの動画のように、鞭を振るうトレーニングが必要だったのか。
それは、一言で言えば、騎乗しているレッスン生に才能があり、将来有望だったからとしか言いようがありません。
それは動画を見ていれば明白な事実です。
ドゥジャルダン選手がいくら鞭を振って、馬がそれをうるさがっても、この生徒は騎乗姿勢を大きく崩すことなく乗馬を継続しています。
馬を虐待することが目的ならば、わざわざ人を乗せる必要はありませんし、シャーロット・ドゥジャルダン選手が無意味に馬を虐待する理由もありません。

シャーロット・ドゥジャルダン選手が見込んだ生徒だったからこそ、そして、動画2で示しているような、とても高度で、微かで、最も大切なことを教えたかったからこそ、このようなトレーニングになったのであり、それは馬と騎乗者のストレス耐性を高めるということよりも、この生徒が今後、馬上で馬の気持ちを瞬時に感じ取り、競技中、どんなことがあっても馬第一、馬への変わらぬ思いやりや愛というものを維持しつつ、競技に臨むためのトレーニングだったように思えてなりません。

私がこのように考える根拠はただ一つ。
この件に関するシャーロット・ドゥジャルダン選手のコメントです。

what happend was completely out of character and does not reflect haw i train my horses or coach my pupils, however there is no excuse.
今回のことは、完全に私らしくなく、そして私の馬の調教や生徒たちへの指導を反映したものではありませんが、弁解の余地はありません。

動画1より

これが虐待に当たるとか当たらないとか、そんなことには一言も触れず、「弁解の余地はありません」と言っていること。
これは、「生徒の指導方法を誤った。」という指導者としての反省、というよりは「後悔」に思えてならないのです。
もしかしたら、この生徒の反感を買ってしまい、離れていったのかもしれません。
生徒のために、本当に大切なこと、教えることがとても困難なことをなんとか教えようとして、そして、それを体得できると生徒を信じてやった(試した)こと。
それが生徒に通じなかったとき、指導者には「悲しみ」が残ります。

シャーロット・ドゥジャルダン選手のコメントに、私は「悲しみ」と「潔さ」を感じます。
さすが「騎士の国のHorse man(騎士)」だと、心から尊敬します。

前回の記事、「【馬と人の関係】逃げるか!守るか!」は、今回の記事を書くための前半部分と思って頂ければありがたいです。
馬が恐怖心に囚われたときにこそ発揮される「人との絆」。
この動画に、「馬の恐怖」は感じられません。
でも、その「絆の幸せ」を人に教えることの難しさは溢れていると思います。

シャーロット・ドゥジャルダン選手とパリオリンピック出場予定だったイザベラ

おしまい
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