テキストヘッダ

誰のものでもない物語

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1hBzROi3mVduuCWgcAo8KR3zqE4qTUk40

■指
 こんにちは。指があります。机の上に。指だなあ、とあなたは思います。よく考えてみると、こういった形のものは、指くらいしかないものだなあと思います。一方で、あれ、でも、指ってこんな形をしていただろうかと思ったりもします。それはゲシュタルト崩壊に似ています。あ、よくよく考えてみれば、指を指一本だけで捉えたことってないな、いつもは手全体があって、その中に指があるんだもんな。いやいや、と思って持ち上げてみて、ああ、でもやっぱり指だ、と思います。この触感と重量感は指以外あり得ない。
 誰の指だろう?

 部屋の隅には猫がいます。あなたが、あなたの生まれる前から、飼っている猫です。あれ、ということはこの猫って今何歳なんだっけ、という疑問を、あなたはいつも先送りにします。考えても答えが出ないことだからです。
 あなたには、まだ喃語しか喋れない頃に、この猫と会話をした記憶があります。
「いつかまた、迎えに来るからね」
 それは確かな記憶です。猫の黄色い瞳のことを覚えています。猫が、にこっ、と笑った後に、また猫然とした表情に戻って、顔を洗い始めたのを覚えています。窓ガラスの向こうの空の色を覚えています。今、その窓ガラスの向こうには、三十七階建てのマンションが建てられていて、もう空は見えません。ですが、黄砂を含んだ真昼の光は、プールみたいに世界を満たしていて、この部屋にもちゃんと入り込んでいます。
 猫はいつか私を迎えに来る。どこへ連れて行かれるのだろう。そんなことを、あなたは時々考えます。

 テーブルの上のだらんとした指を、あなたは持ち上げたりくるくる振り回したりして遊びます。関節ごとに重力に引っ張られる、独立と統合の組み合わさった奇妙な動き。誰のものでもなくなった指ってこんなにだらしないんだ。あなたは指でつまみ上げた指と自分の指をためつすがめつ見比べてみたりします。
 あれ、どっちが自分の指なんだっけ。
 ここに指があるということは?

「そんなの当たり前じゃないの」
 というような顔で、猫がこちらを見ているのと目が合います。やはり猫が喋るはずはないので、あくまでそれは、そういう「というような顔」でしかない、とあなたは考えます。
 でもそれって、「というようなことを言っている」のとどのように違うのだろう?
「そこに指があったら、指がない人もいるだろ。指が指だけで生まれてくることはないんだから」
 にこっ。


■耳
 こんばんは。
 こんばんは。
 お願いがあるんです。
 何でしょうか。
 この缶ビールのプルタブを開けていただけませんか?自分では開けられなくて。
 え、あ、はい。

 プシュ。

 はい。
 ありがとうございます。好きなんですか?
 え?
 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン。
 ええ。あ、でも、まあまあ、ぐらいかもしれません。わざわざこれ見に苗場まで来たわけではないです。
 そうでしたか。
 はい。なんかすみません。
 いえ。
 …好きなんですか?マイブラ。
 いや。私も別に。
 なんだ。ははは。
 なんか、聞いたんですけど、耳栓しておいた方が良いそうですよ。すごく音が大きくて、下手したら一週間くらい耳鳴りが止まないって。
 本当ですか?
 本当です。
 ライブで耳栓?そんなのありなんですか?
 そうでもしないと耳がおかしくなるって。
 あ、本当に耳栓持って来てるんですね。
 え?
 本当に耳栓持って来てるんですね!
 え?ああ、これですか?指ね。僕指ないんですよ!
 あ、そう、なんですね。
 あ、ほら、出てきましたよ!ケヴィン・シールズ!
 ほんとで

 ド・カン!

 テントに帰っても耳鳴りが止まなかった。それどころか、二週間経っても治らなかった。気がついたときには耳鳴りが聞こえなくなっていたので、もはやよくわからない。
 ところがこの間、会社の健康診断で聴力検査を受けたら、いつの間にか僕は、特定の周波数領域の音が聞こえなくなっているらしかった。
「まあ、聞こえなくても日常生活上は差支えないですよ、これなら」
 医者にそう言われたので、放っておいている。
 でも時々、自分には聞こえていない音がどこかで鳴っているのかもしれないと思うと不思議な気持ちになる。


■分身
 その日何度目かの泣き声が聞こえてきた。どの泣き声も長かったが、今回のはとりわけ長かった。他に物音はしない。
 その声が聞こえている間に、丸まっていた洗濯物をたたみ、シンクの中のビールの缶を洗い、図書館で借りっぱなしになっていた本を本棚に並べた。八冊。貸し出し期間は二週間。どうやってこんなにたくさん読むのだろうなと思って電卓でページ数を足してみたら、三千ページ近くあった。こんなに読めないよ、誰が読むんだよと胸の中で笑っている間にも泣き声はずっと聞こえていた。
 缶ビールを冷蔵庫から出して、ベランダの窓を覗き込む。隣の家のシルバーのプリウスはない。

 夫が仕事から帰って来る。
「そろそろ警察とかに電話した方が良いかもしれないね」
 私が飲んでいた缶ビールをさりげなくシンクに流しながら夫は言う。育児ノイローゼってやつかな。言うこときいてくれないんだろうね、子ども。自分の子どもって言ったって、結局他人だしね。そういえば旦那さんもほとんど見たことないもんね。面倒なトラブルは避けたいから匿名扱いにしてもらえばいいと思うんだけど、一応下の家とか反対隣の家に相談してからの方が良いかな。
 テーブルの上には夫が買ってきた中華丼が二つ置かれている。こういう時、二種類の弁当を買ってきた方が選べたりして楽しいのだろうなと思うけど、私は言わない。中華丼は好きでも嫌いでもないけど、今食べたい気分ではないなと思う。
 まだ泣き声は聞こえている。

「お腹が空いてるとか、そんなかな」
 中華丼を食べながら夫が言った。
「寂しいのかな」
「泣いている理由が知りたいの?」
「いや、別にそういうわけでは」

 断続的に泣き声が聞こえ続けているせいか、泣き声を吸った壁の浸透圧が変わっているというか、何かしら変質してしまっている感じがした。音が漏れ聞こえてくるというだけではなくて、隣の部屋の空気そのものが、こちらの部屋にまでじんわり伝わってきているのではないか。
 しっかり食べないとだめだよ、という顔を夫がしているのがわかった。私が箸を置いた瞬間、というか私が箸を置こうとした瞬間から夫がその顔をするのがわかっていたので、夫がその顔をしているのか、私がその顔を夫にさせているのかがわからなくなった。

 皿を洗う夫のワイシャツの背中を見ながら、この生活はいつまで続くのだろうかと思った。結婚して、マンションを買って、と、少しずつ身体に杭を打っているような気分だった。
 でもこんな生活はそんなに長く続けられないだろうな、と思う。たった二人で、閉じ切った世界で生きていくことは出来ない。私たち二人の人生は滞ってしまった。これ以上の変化は見込めない。いずれ身体の一部を損なってでも、この生活から自分を引き剥がさねばならない局面が来るだろう。

「子どもが泣いているのは、お腹が空いているからでも寂しいからでもないよ」
 夫の背中にそう言った。
「ただ泣いているから泣いているんだよ」

 夫がそうか、と言う。


■骨
 恋人が骨になった。
 是非、と彼の母親にお願いされて断れず、彼の骨を拾うことになった。

「息子から話は聞いています」

 彼の身体が焼かれている間、火葬場の待合室で彼の母親が話をしてくれた。彼と僕の関係について、彼から話を聞いていたこと。彼が自分のセクシャリティについて自覚した頃のこと。僕が知らない、彼が生まれた頃のこと。
 マイノリティに属している人間は、自分も含めて嘘や建前が多い。そういう必然性に駆られることがあるから致し方ない、と僕が言ってしまうとそれは責任転嫁になってしまうのかもしれないけれど。少なくとも人付き合いをするにあたって、「職場用の自分」「家族用の自分」「恋人用の自分」などと使い分けをせねばならない。
 どうやらそういう中にあって彼は、比較的周り対して正直だったらしい。職場でカミングアウトしていたことは知っていたけど、家族である母親から聞く彼の話と、生前の彼が話していた物語にほとんど相違はなかったし、印象も変わらなかった。また僕との関係性、出会ってから付き合うまでの経緯、僕ら二人の生活、そして一時期僕らが養子で子どもを引き取ることを考えたことまでを母親は知っていた。これまでの恋人だと、街中で相方の知り合いにあったりするとその場で話を合わせなければならなかったり、僕自身もその場しのぎの法螺話に帳尻を合わせてもらうことがままあったのだけど、彼の母親においては全くそんなことはなかった。彼が生きていればいずれ、家族を紹介されるようなこともあったのかもしれない。
 何か強い意志のようなものがなければこういうことになり得ないことを、僕は身を以て知っている。

 小さくなる、小さくなる、と念じながら焼けた彼の棺の跡を覗き込むと、思っていた程は小さくなっていなかった。頭の天辺、喉仏、腰骨、足、と彼がそこにいた形跡がわかる程度に骨が残っていた。やっぱり若いと骨もまだ弱っていないから残るのね、お父さんのときはもっともっと残ってる骨が少なかったけれど、と彼の母親が呟いていた。私は具体的に誰なのかわからない親族の横、彼の腰辺りに立って骨を拾っていった。意識しないように意識しても、股の辺りに目が行ってしまう。こんな姿になったことを、もしかすると彼は羞恥するかもしれない。生前僕が首輪をつけてあげたときに見せた顔で。そこには他の部位と同じように細かい骨が散らばっているだけなのだけど、僕にはよりそこに何があったのかという記憶が形を帯びて喚起されるような気がした。

 これから僕は、どうしたらいい?

 骨を一通り拾い終わると、火葬場の職員が、骨壷からはみ出た大振りな骨を、ちょっと僕には粗暴に見える強さで叩き割って納めた。
「足の方拾った?」と言う彼の母親と目が合ったので、可能な限り小さな骨を選んで、壷の中に落とした。みんなが見ていたので、少し手が震えた。

「人は誰かの物になり得ると思いますか」と、彼の母親は僕に向かって訊ねた。
 彼は私たちの息子でした。でもいつから彼が自律するようになったのか、私たちは思い出せないんです。彼のセクシャリティのことが、そのことに影響しているのは、間違いありません。彼にも、そしてあなたにも申し訳ないけれど。彼が、死後の彼をどのように扱ってほしいと願っているか、想像しかねています。私は結婚して、いずれ死ねば夫と同じ墓に入ることになりますが、彼がそういうことを望んでいるかどうかわかりません。
 そういうようなことを言った後に、彼女は僕の手を握り込んだ。
「あなたの骨よ」

 裸の骨を持ったまま、電車に乗って家に帰った。
 彼の身体が無傷のままそこにあったら、僕は彼と交わるかもしれない、と考えながら手のひらで骨を握った。それは彼の望みを考慮してのことではなく、自分自身の欲望のためかもしれない。あくまでそれを想像の範囲で押し止めるとき、彼は誰のものなのだろうと思った。

 彼がいなければ生きていけない僕の方こそが、彼の所有物だったのかもしれない。


■幻
 群盲象を評すってあるじゃないですか。中国の故事で、数人の盲人がそれぞれに象の色々な部位を触って、これは柱のようだ、いや壁だよ、って言いあうみたいな。
 あんな感じでした。

 …君はその故事が好きだよね。でもそれはなんか微妙に違うんじゃないか、って話になったじゃないか。君が感じているのはそういうことじゃなくて、自分の足が人のものみたいに感じられて気持ち悪いっていうことだろう?

 ああ、そうでしたっけ。

 そうだよ。

 …ええと、まあそういう病気があるんです。BIIDっていう病気なんですけど。

 Body Integrity Identity Disorder、身体完全同一性障害です。最近になってようやく知られるようになってきた病気なんですけど。現在は脳の機能不全による障害だという見方が強いです。私も彼が初めての患者です。今のところ国内にも数例しかありません。
 彼は何度も自分で足を切断しようと試みていて、わざと氷水に自分の足をつけて凍傷になったところを運ばれてきたんです。信じられないないかもしれませんが。彼は自分の足が自分のものではないという違和感だけでそこまでのことをやってのけたわけです。今の気分は?

 いい気分です。新しい人生が開けたような。

 我々には信じがたいですが。本当にそうなんだよね。

 はい。先生には感謝しています。

 諸外国では、BIID患者について、四肢を始めとする身体の自発的切除を認めるための議論も活発です。

 先生。
 足を切ってもらえた今だから言えるんですが、本当に「群盲象を評す」みたいな感じなんです。

 どういうことだね?

「自分の身体ではないように感じる」というわけではなくて、もっともっと厳密に言うと、「その足が自分のものかどうかわからない」というような…。

 でも、君が凍傷になってまで自分の足を切断したかった理由は、自分にかつてあったその足に対する「所有感がなかった」ということではなかったのかい?

 すみません。所有感とはまた違います。そこにあるのが何なのかわからないというような…。それってもっと一般的な感情じゃないですか?例えば、歯って、自分のものだと思えますか?
 ねえ、あなたは自分の歯を舌で触って、それが自分のものだって言い切ることが出来ますか?


■物語
 こんばんは。ここに物語があります。
「友達に聞いた話なんだけどさ、」と話し始められた物語が、実は物語るもの自身の話であるというのはよくある話ですが、これまでの話はいずれも私自身の話であると同時に、あなた自身の話であり、また更には誰のものでもない話です。

 継ぎ目なく繋がった身体の一部が自分のものではないと感じられるとき、
 自分の意志ではどうにもならない身体的不都合を抱えているとき、
 人の話をあたかも自分の話かのように物語っているとき、
 あるいはそんな話を夢中になって聞いているとき、

 私たちは何を以てそれを特定の誰か特定固有のものと規定できるでしょうか。

 ここからは、私たちではなく、私自身の話です。
 こうして何かを物語っているとき、私はこれが、誰の物語なのかわからなくなることがあります。
 私はこれを、自分の口や手によって物語るわけですが、頭の中にある物語を外にアウトプットしながら、まさにアウトプットされながらそれがシームレスに変質していくのを感じます。
 これは誰の物語なのだろう。

 こうして話をしながら、これはあなたの物語になっている可能性はないでしょうか。
 あったかもしれない過去や未来を、たまたま私が話している。
 その方がしっくりくるな、と私は思うのです。

 そしてあったことを「全て物語り切る」ということが原理上不可能であることを加えると、あなたはここまでの物語を補完せねばならないことになります。
 私が知りえない、あなたなりに補完した物語は、誰の物語なのでしょうか。



 それはあなたの指でしょうか?
 それはあなたの耳鳴りでしょうか。
 それはあなたの分身だろうか。
 それはあなたの恋人の骨か。
 それは幻か。
 それは物語。

 ちゃんと疑った方が良いと思います。
 ここにも誰かの指があるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?