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戻らない

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 今の私が思い出す私は、今の私が思い出す私よりもずっと大人だった。ような気がする。「自分のことを自分で全部決めるのはムリっす、とりあえず言われたようにやるっす」と思いながら、流されるように日々を生きている今の自分を見たら、きっとかなりがっかりするだろうな、と思うほどに。
 山手線を走る電車の窓が今の私を映し出している。その向こうに、多分秋葉原らへんの風景が流れている。無駄に色が多いなあ、東京は、と思ってみたりする、今の私は。東京には何もかもがあるぜと思いながら、就職活動の合間に御茶ノ水のレコード屋や楽器店を巡ったのはもうとうに昔の話で、東京に引っ越してきてから一度も御茶ノ水なんて行っていない。大きな音で音楽を聴くなんてことは一軒家、それもド田舎に住む人間の特権で、イヤホンで音楽を聴かないという不文律をなんとなく守り続けている今の私は、もう数ヶ月レコードを買っていない。
 今私が思い出す私が想像していた未来の私はこんなではない。東京では毎日どこかで、いやそこいら中でライブをやっている。遅くまでやっている本屋さんも幾らでもある。遅い時間でも煌々と明かりを灯しながら無数の人を運ぶ電車に乗って、私はどこまででも行ける。ボンディ、東京都美、谷中銀座の飲み屋街・・・

 えー髪切っちゃったんだ。いつからその尖った頬を隠さなくても良いやと思うようになったの?
 夏場外回りするときに暑いし邪魔なんだよ。

  ささやかな風が髪を先を揺らすけど、涼しさはかけらもない。 今の私が思い出す私は、背中に汗をかいている。ほとんど弾けもしないグレッチをソフトケースに入れて背中に担ぎ、坂道を上っている。いやあ、こんなのもらわなければ良かったかなあ。私には使いこなせないし価値もイマイチわからない。この間せっちゃんの使っているストラトを肩にかけてみたら同じギターとは思えないほど軽かった。十字架背負ってゴルゴタの丘歩いてるみたいだなあと思って少し笑う。
 いや、これは覚悟の重さなのだ、と私は部室に向かうキャンパスの坂道で思い直す。生乾きの臭いのするアニメキャラの書かれたTシャツの男の子とすれ違いながら思う。フェンスの向こう、高い声で笑いながらグラウンドで何やら細長い棒を持って追いかけあうスポーツをしている女子を眺めながら思う。流行りのアニメ映画のコピーをする同級生バンドの練習が部室から漏れてくるのを聴きながら思う。
 夏は短いぜ、とすぐに汗に変わってしまう学食の給水機で汲んだ水を飲みながら思う。大学生は人生の夏休みだから頑張りなよ、と言って私にハードケースごとギターを託した義理の兄の言葉を、今の私が思い出す私は思い出す。
 覚悟の重さと未来の結果は厳密には紐づかない。

 もうちょっとコツコツ練習すれば何か違ったかもね。
 いやいや。才能の問題なのではないでしょうか。

 電車の中の誰にもバレないように、今の私は、生活、と呟いてみる。生活なあ。生活なんだよなあ。昨日も一人で丸善のとんかつ定食食べちゃったしなー。その前の日はプージャでビリヤニ食ってるしな。今の私が思い出す私みたいに、毎日毎日パスタばかり茹でて食べる生活にはもう戻れないような気がする。もし仕事を辞めて収入がなくなったらと想像するとき思い浮かぶのは何故かいつも食べ物のことだ。私の幸せはいつの間にか形を変えているのだと気がつく。今の私が思い出す私が、どんな風に幸せについて考えていたか思い出そうとしてみるけど、それはうっすらとした輪郭が思い浮かぶだけで曖昧だ。今の私は、当時からそんなものだったような気がすると言い聞かせるみたいに考えながら、いや、でも少なくとも毎日外食できる金銭的余裕のことを幸せという名前で呼んでいたわけではないだろうと思いなおす。
 大塚の駅で、浅黒い肌を露出した女性が数人、けたたましく喋りながら乗り込んでくる。舌を巻きながら話す声のする方を、みんなが見るのを今の私が見た。
 と、その時に子どもが私の鞄のスレスレを通り過ぎて行った。くるくると逆立った髪の毛が手の甲に触れる。

 もういいや、諦めて適当なところに座ろう、と思った今の私が思い出す私のスーツケースが、進行方向と逆に流れていこうとするのを、サラリーマンが身体で止めた。
「ちょっと」
 窓側の席、7A、私の指定席で腕組みしながら眠っていた母親らしき女は、明らかにだるそうにこちらを見た。子どもはスマホで流れるカートゥーンに釘付けのままだ。
「ここ、私の席なんですけど」
 女は低い声で唸りながら子どもを抱き寄せると、自分の膝に載せる。
「いやいや、窓側あなたの席じゃないでしょ?」
 彼女のでしょ、とサラリーマンが言う声を無視して、女は目を瞑った。
「すみません、大丈夫です、別に」
 サラリーマンは自然な動きで私のスーツケースを荷物置きに載せた後で席につくと、災難でしたね、と話しかけてきた。
「こういう勝手な人がいると困りますよね」
 こういう親が育てた子ってどんな人間に育つんでしょうね。子どもは悪くないとか親を選べないとか言いますけど、こういう人も子どもだった時代があるわけでしょ。ほら、じゃあいつからちゃんと大人として責任を追及してよくなるんでしょうね。あなたは、え、今就職活動中、そうか、じゃあこれから大人として自覚のある行動を心がけなきゃいけませんね、見てる人は見てますから、ははは。
 親子に聞こえるくらいのトーンでサラリーマンが話し続けるのを、今の私が思い出す私は頷きながら聞いた。早く終われという祈りを込めながら、しきりに深く頷いた。頭の後ろに親子の存在を感じたけど、今の私が思い出す限り身じろぎ一つ聞こえなかった。男はしばらくまくしたてた後カナル型のイヤホンを挿すと、あっという間に眠ってしまった。窓側に座る親子の方を見られず、その上スマホから流れる意味のない言葉をしゃべるキャラクターの声がうるさくて眠ることも出来なかった。
 二組は名古屋で降りて行った。何事もなかったみたいだったけど、ようやく窓の外を見ると、真っ暗だった。突然夜が来たみたいに。

 すれ違う、湘南新宿ラインの海へと向かう車両が、西日を反射している。
 今の私はふと、あれが外国から来た親子だったことに思い当たる。カートゥーンから流れていたのは意味のない言葉ではなく、どこか外国の言語だったことに。
 例えば今の私が今の私じゃなかったら、と思う。あの、巻き舌の女たちの足元にいる子どもだったら。
 くるくる髪の子どもはじっとこちらを見ていた。完全に今の私と目が合っていた。
 運命に抗おうとしたことあるかなあ、私は、と今の私が思う。今の私が思い出す私が「自分の未来は自分で決めなければ」とか「自分のやりたいと思うことを選ばなければ」と思っていたあれは、運命に抗っていたわけではないのかもしれないな、と思う。
 山本橋の上から目黒川を見下ろす。すっかりミーハーになった今の私は、ちょっとステキだと思ってしまったしょうもない恋愛映画が目黒川周辺で撮られていたことを知り、橋の名前なんて他にどこも知らないくせに、この目黒川に架かる橋の名前だけは覚えてしまっている。

 自分のこと、全部自分で決められてるって思ってる方がよっぽど傲慢なんじゃないの?

 ゴムはちゃんとつけてください、と、今の私が思い出す私は一応言うことは言った。はずだ。いやいや。いやいやいや、冗談じゃなくって。
 先輩の肩越しにはシーリングファンがゆっくりくるくる回っていて、何だか一度気になったら目から離れなくなってしまった。あれ、何の意味があるんだろう。値段高い部屋にしかついてないっぽいけど必要なのだろうか。今も最初に思い出すのはそのファンがくるくるくるくるくるくるくるくる回っていることで、その次に生暖かい息が当たっていたことを思い出す。
 早くイケよ、としか思っていなかった、今の私が思い出す私。
 お腹の上に出された白い液体の中を、うなぎみたいな尻尾の生えた種から泳いでいるのが見えるような気が、今の私が思い出す私も確かにしたはずなのに、今の私が思い出す私はその後特に何も対策をしなかった。
 あの時の子どもが生まれていたらどうだったかなー、ここにはいなかったかなあ。あれ恋愛だったんかな。まあ先輩と結婚していたかどうかはともかく、とにかく私はあの片田舎の街、レコード屋のない街でぼんやり暮らしていただろうな。レコードは通販でしか買えないけど、大きな音量で音楽を聴くことが出来る家で。もしかすると今より音楽は好きだったかもしれない。
 子どもにもたくさん音楽を聴かせて、それなりに楽しく暮らしていたかもしれない。

 今の私は品川を過ぎる。今の私が思い出す私が就職活動中、地理がいまいちよくわからなくて、新宿や池袋に行くときも馬鹿正直に通り過ぎていた品川。
 外国からやってきた(のであろう)肌色の浅黒い女の人たち、それからくるくるした髪の毛の子どもはいつの間にかいなくなっている。多くの人と同じように、品川で降りたのだろう。さっきまで同じ車両にいた私以外の全員が入れ替わったのではないか、と錯覚する。
 この電車が船で、線路が海だったら、今の私はどこかへ流されていく、どこかわからない方へ、知らない方角へ、海へと出て、自分の境界が曖昧になるくらい静かで孤独な海へ、遠くから聞こえる音楽めいたノイズの方へ、そういう想像力を持って、私はいつも自分の降りる駅を、反対回りにぐるりと回ってきたその駅を、通り過ぎずにきちんと迎え入れることができれば、それは、運命に抗っていると言えないこともないだろうか?

 いやあ。

 東京駅に下りて、京葉線の乗り換えに向かう。ホームがいつもと違うせいで、私は変な方へ歩き出してしまう。駅弁買って帰る、猫と分けて食べる。

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