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白目

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 恋人とホテルで交わった後、ベッドの上で変な顔をし合って笑い合っていた。
 鼻の頭を指で引っ張ったり、おでこを釣り上げたりするのがエスカレートして、鼻に指を突っ込んだり黒目を真ん中に寄せたりした。彼女のかわいい顔がくしゃくしゃになって、ものによっては本当に目も当てられないくらいブサイクだったけど、僕は幸せだった。僕と彼女が打ち解けてきた証拠だ。普通の恋人同士になってきた証拠だ。もう失ってしまった青春じみた関係性に、衒いなく自然体で甘んじられるということの証拠だ。
 こういう顔は、恋人である僕しか見られないのだ。僕自身も、自分でも見たことのない顔をして彼女を笑わせられることが幸せだった。

「全くできてないよ!」
 白目を剥こうと、思い切り上を見ると、彼女はシーツの上からお腹を抱えて笑った。緩やかな丘のような形をした胸のラインが強調される。
「ただ上を見てるだけじゃない!」
「じゃあ君もやってみてよ」
「いいわよ」
 彼女は大げさに息を吸い込んで、いくわよ、と言ってから白目を剥いた。それはもう見事な白目で、まるでうずらのゆで卵が眼窩にはめ込まれているみたいだった。
 僕は腹を抱えて笑った。エクソシストみたい!
「ああっ」
 突然彼女は悲鳴のような声をあげた。くるりと黒目がこちらに戻ってきた。みるみるうちに、彼女の顔色が青ざめていく。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 彼女は口元を押さえている。

 正直に言えば、僕はもう一回くらいできる体力を残しておいたのだけど、突然彼女の体調が悪くなってしまったので帰ることになった。
 僕がシャワーを浴びている間に彼女は服を着て、鞄まで肩に下げていた。裸の僕がなんとなく情けない。
「ちょっと、用事を思い出したの」そう言って彼女はベッドから立ち上がった。
「悪いけど、先に帰るわ」
 僕は髪の毛も乾いていない。
「どうしたの?さっきから変だよ」
「ごめんなさい。そうよね。でも今日は気分が優れないから早く帰りたいの」
「ねえ、ちょっと待ってよ」
 僕は部屋を出て行こうとする彼女の腕を掴む。女の機嫌は変わりやすいというけど、さすがにこれは変だ。
「さっき白目を剥いた時に、自分でもびっくりしていたよね。その時に何か思い出したの?」
 彼女は押し黙ってしまった。涙目になる。
「泣かなくてもいいよ。何でも言ってよ」
 僕はできるだけ優しい声で彼女にそう言う。
「あなたのことを、本当は愛してないの」

 僕はバスタオルを巻いたままラブホテルの部屋に取り残されてしまった。まだ休憩時間は一時間以上残っていた。
 何か彼女を怒らせるようなことを言っただろうか?白目が上手く剥けなくて、代わりに彼女に白目を剥かせてしまったこと?
 馬鹿馬鹿しかった。

 彼女と僕は、もうこれで別れてしまったことになるのだろうか?突然のことすぎて、今どういう状況なのかがわからなかった。さよならともまたねとも言っていない。
 彼女の顔を思い出そうと思っても、白目を剥いている顔しか思い浮かばなかった。あれは本当に見事な白目だった。血管の一筋も浮かんでない、混じり気のない白目だった。思い出せば思い出すほど、頭の中の彼女の顔が剥製かデスマスクのように無機質になっていってしまう。その白目のマスクのまま、彼女は僕に向かって「あなたのことを、本当は愛していないの」というのだった。

 鏡の前で髪の毛を乾かしながら自分の顔を見ていた。雨の日に捨てられた上に、一発蹴られた犬みたいな顔の自分がいた。
 惨めすぎて涙が滲んできた。前髪を乾かしながら、それをどうにか振り払おうとする。前髪を掴んで、見つめる。
 白目。ははは。前髪が見えている以上は白目になっているわけはないよな。
 僕は力を込めて、もう一度白目を剥いてみる。ぼやけた視界の中に、まだほんのわずかに前髪が見えた。あともう少し。
 そう思った時に、視界の上の方に何かが見えた。オレンジ色っぽい光。

 その後は力を入れなくても大丈夫だった。ルーレットの最後の目が回るように、眼球がすとんと動きを止めた。
「こんな関係はいつまでも続かないぜ」
 オレンジ色の光が、脈を打ちながらそう言った。

 彼女の、いつもどこか心あらずな感じが好きじゃなかった。自分の興味のない話題については、一切聞く耳をもたない。
 僕が映画の話をしていても-----ソ連の映画監督だ-----彼女はソファの上であぐらをかいて、耳掃除をすることをやめない。
 あるいは彼女の食事の仕方が気に入らなかった。ビュッフェに行くと、まずはデザートやフルーツのテーブルを回る。偏食のきらいがあるのだ。
 僕の目の前で、僕と彼女は口汚く罵り合っていた。
「はじめから上手くいくはずなんてなかったのよ!」
 彼女は僕との関係をみんなにバラすと言った。
「あなたみたいな薄汚い人間は、地獄に堕ちて当然よ」
 カッとなった僕の目の前にいる僕は、ベッドの上に彼女を押さえつけて首を絞めた。彼女は僕の目の前の僕に向かって唾を吐く。何か勝ち誇ったみたいに目を見開いていた。顔、というよりは頭全体が腐ったトマトみたいな色に変わっていき、目は-----色を失って灰色に染まった。

 はっと気がつくと、僕は半裸のままラブホテルのベッドに寝転がっていた。自分のいびきで目が覚めたのだ。
 洗面所に戻ると、泉から湧き出るみたいに水がちょろちょろ溢れていた。ソファの上には、しわくちゃになった僕のワイシャツとスーツの上着が転がっていた。
 彼女が僕とやっていけないと思うであろう理由が、いくらでも想像できた。

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