テキストヘッダ

儀式

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 結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
 今考えると、あのとき食べておけばよかった。

                     アーサー・ゴッドフリー



 そうですね。腐る前に食べておけばよかったのです。
 女は怖い。わたしもそう思います。女は怖いって。

 指先の粘つきを洗い流しながらわたしは言う。生臭さが鼻についた。


◆血
「今日使用する食材はギヅヅギです」
 と言っても普通のギヅヅギ料理ではありません。特別な日のための、ごちそうギヅヅギです。

 ギヅヅギ?わたしはギヅヅギなんて生き物、聞いたことがない。
「ギヅヅギってだいすきなのよね」
「ついつい食べすぎちゃうのよね」
「うちはギヅヅギ炒めを作り置いて、お弁当のおかずにするわ」

 先生は日焼けした太い腕でギヅヅギ——瘤が寄り集まってひとつの大きな瘤になっているみたいな、首の長いだらんとした死体——をまな板の上に乗せる。プロジェクターには、まな板を俯瞰で捉えた映像が映し出されていた。
「今日のギヅヅギは新鮮ですよ。知り合いにギヅヅギ輸入業者がいるので、特別に生きたまま送ってもらいました。頭数が少ないので、今日は一頭を何人かずつで共有してもらいます」

「あらやだ、外国産のギヅヅギなのね」
「輸入物のギヅヅギって、筋増強剤使って育ててるって聞いたことがありますわ」
「まあでも、先生が新鮮だっておっしゃってますし」
 侃々と話すマダムたちの口から唾が飛ぶ。わたしは自分の包丁や皿を、マットごと手前に引いた。
 テーブルの真ん中には、ギヅヅギの長くて黒い死体が横たわっている。

「ギヅヅギは目で新鮮さがわかります」
 先生はギヅヅギのまぶたをひん剥く。カメラがアップになり――ゲル状の目玉を映し出す。
「ほら、瞳の周りが透明でしょう。白く濁っているのは、鮮度が落ちている証拠です」

 マダム2が、テーブルの上のギヅヅギのまぶたを剥く。
「あら、うちのはちょっと白くなりかけてるみたい」
 確かにプロジェクターに映る目よりもかなり曇っている。隣のテーブルのギヅヅギを見せてもらうと、そちらもほのかな煙が立ち上るみたいに濁っていた。こちらのまな板の上でだらんと身を横たえているギヅヅギよりも随分小ぶりだ。親子みたいに見える。
 わたしも自分の指で、自分のテーブルの上のギヅヅギのまぶたを剥いてみる。端に、人間と同じように赤い血管が浮かんでいる。強く引っ張ると、のけぞった瞳が見切れていた。ゼリーのような瞳の光沢は、目に涙を浮かべているようにも見える。

「血抜きはしてあります。スーパーで売っているギヅヅギは基本的にあらかじめ血抜きされていますね。包丁の先は、かすかに当てるだけで大丈夫です。内臓を傷つけないように気をつけて。それでは実際に捌いてみましょう」

「いやだわ、何だかまだ生暖かい気がする」
 マダム1が祈り手を組みながら身をくねらせる。
「わたし触れない」

 マダム1は比較的まだ若く、わたしと同じくらいの年齢だ。でも既に子どもが二人いて、お腹の中にもう一人潜んでいる。三人目を身ごもった時点で思い切って仕事を辞めて、この料理教室に通っているらしい。
「ほんとに、ご飯を作るのがいーちばん大変よね」
 仕事を辞めて、外食や手軽な冷凍食品に頼らなくなってからの方がよっぽど忙しく感じるわ。でも後々の子どもや夫の身体のことを考えたらねえ。ちゃんと身体に良いものを食べてもらった方が良いでしょう?

「わたしがやるわ」
 マダム3が自分の包丁を握った。

 マダム3はマダム1~3の中で一番年を取っている。どうしてこの教室に通っているのか、理由はよくわからない。みんな包丁捌きが怪しい中にあって、マダム3の手つきには迷いがないからだ。丸々と太った指で、器用に食材を捌いていく。また、こういう生ものみたいなものを触るのにも抵抗がないようで、いつもむしろ生き生きとした表情ではらわたを除いている。

 マダム3が包丁を当てると、あらかじめマジックカットされていたみたいにギヅヅギの背中が裂けていく。やがてギヅヅギの身体は真っ二つになった。
「この口のところのコリコリしてるのが、変わった味で美味しいのよね」と、マダム2が赤く塗った爪で口吻を拾い上げながら言った。興奮は細長く鋭く尖り、まだ生きていた頃のしなやかさを残している。

 マダム2は新婚で、かなり年上の夫がいる。
 時々冗談めかしながら、「うちの旦那はもう半分死んでるようなものだから」と言うことがあった。しわがれた老父がマダム2の妖艶な指先で給餌されている姿を、わたしは時々想像する。
「わたしは料理で彼の胃袋を掴んで結婚したの」
 その赤い爪が、枯れて縮んだ胃袋の入口を掴んでいるところをイメージする。
「あの年代の人は家庭的な女が好きなのよ。美味しいだけじゃなくて、身体を気遣った料理にするのがこつね」
 マダム2の作った料理を食べれば食べるほど、何故かますます老父は痩せていく。
 隣のテーブルで声が上がる。
「わあ、すごい血」
 テーブルの端からしたたるほどの血が、となりのギヅヅギからはあふれ出している。
「ああ、すみません。うまく血抜きができていなかったみたいですね」
 テーブルを回っていた先生が、ゆっくり落ち着いた口調で言った。
 ギヅヅギの血管構成は複雑で、固体によって動脈と静脈の位置や絡まりがかなり異なるらしい。喉を切ってぶら下げておくだけでは血抜きが不十分なことがあって、こうして血が溢れてしまうことがあるのだと言う。
 マダムたちは案外平然としている。さっきギヅヅギを触れないと言ったマダム1も、やっぱり新鮮だとあんまり匂いがないわねと呟いていた。
 マダム1とマダム2がおしゃべりしている間も、マダム3はプロジェクターで再生され続けている手さばきをちらちら見ながら包丁を振るっていく。鉤鼻の頭に汗をかいていた。
 こちらのテーブルのギヅヅギは、少しも血が流れなかった。意識して初めて気が付くくらいの、ほんの少し鼻につく匂いがするだけ。
「あら、サトウさん。そこ、血が付いてるわよ」
「え」
 いつの間にかわたしの服の袖に血がついている。
 こすっても、それが指に付いたりかすれたりすることはなかった。もともとからそこに浮かび上がっていたみたいに。

 わたしは家に帰って今日作ったギヅヅギのキッシュをゴミ箱に捨てたあと、血のついたシャツを丁寧に畳んで箪笥にしまった。



 あなたたちはわたしたちが作ったものを食べる。それをエネルギーに換えて駆動する。
 気づいてなかったですか?あなたもわたしによって駆動しているんです。わたしの作った料理によって呼吸し、心臓に血液を送り、生きている。
 だから、言うことを聞かなくなったらそれまで。
 どうして気づかなかったの?
 わたしがどうして料理を習っていたのか、もっと早く気付くべきでしたね。


◆肉
「先生はどうして先生なんですか」
 わたしがそう訊ねると、先生は細長いワインのグラスを持ったまま笑う。わたしの乳首を摘むのと同じ指の形だ、とわたしは思う。
「なんですか、その質問。どうして先生になったかってことですか?」
「はい」
 先生はラム肉をナイフで切る。ほんのわずかに、かちゃかちゃと皿にナイフが当たる音が聞こえた。やがて肉は小さく千切れる。
「こう見えて僕は昔、すごくワルだったんですよ」
 先生はラム肉をくちゃくちゃと噛みながら話し続ける。
「触るものみな傷つける、なんて。ははは。喧嘩ばっかりしていたんですよね。僕を恨んでいたやつに後ろからバットで殴られて、入院したこともあるくらい」
 先生の腕は精悍としている。料理には必要ないくらい。この人の逞しい身体は、喧嘩と自分の作った料理でできているのだ。
「家族との折り合いが悪くて、小さな頃からずっと夜遊びばっかりしていたんですよ。まともな食事なんて給食くらいしか食べたことがなかった。それも中学生までの話です。高校くらいからはまともに家に帰っていませんでした」
 わたしはテーブルの上にひじをついて、時々ワインで唇を濡らしながら先生の話を聞いていた。料理はどれも味が濃い。メインディッシュのラム肉は、獣臭さを消すためのにんにくの臭いがきつく、食べれそうもなかった。

 マダム2は、こんなもの食べて喜んでいたのだろうか?

「それでふらふらしていたんですが、街である洋食屋さんに出会いまして。あまりにも良い匂いがしたんで、お金もないのに入ったわけです。そこで食べたハンバーグがあまりにも美味しくて。一口食べるたびに自然と涙が流れたんです。ああ、何かを食べるというのはこういうことだな、と。食べたものがエネルギーになって自分を駆動させていくというのはこういうことか、と。そこからはよくある話ですよ。無理を言ってその洋食屋で修行をして、ちゃんとした調理学校に行って、今に至ります」
 先生はグラスに残っているワインを飲み干した。顔がワインと同じ色に変色している。まるで飲んだワインがそのまま先生の表皮と肉の間を満たしていくようだ。
「実は自分で店を持ったこともあるんですが、あんまり上手くいかなくて。それで、こうして雇われ料理教室の先生をやっているってわけです。やってみたら、これが案外性に合っていたみたいで。作り方を教えるということは、やっぱり心の込め方を教えることですよね。こういう家庭料理レベルの料理教室だと、単純に美味しいものをたくさん知っているよりも、かつてのあの洋食屋のように、心のこもった料理の味を知っている方が役に立つんですよ」
「そうだったんですか」

 そんな話、全部知っている。みんな知っている。

 先生は顎ひげをこする。それが自分の男性をアピールする仕草だと知っているからだ。
「口に合いませんでしたか?」
「いえ、なんというか、胸がいっぱいで」
「そうでしたか。次はこういうのじゃなくて、お蕎麦とかにしましょう。目黒川沿いに、良い蕎麦屋があるんですよ」
 はい、ぜひ、とわたしは答える。この声は何のエネルギーで出来ているのだろう?

 先生の息は獣臭かった。不思議とにんにくの香りはしなかった。ということは、この獣臭さは先生自体のものだろうか?
「サトウさん」
 この人はさっき食べたラム肉のエネルギーで腰のモーターを駆動させているのだ。わたしは足を開いているだけで良いので楽だった。
「サトウさん」
 先生が耳元で息を吐くたび、ベッドごと深く沈んでいくような感覚があった。
「サトウさん、何か言って」
 わたしが先生の耳元に呼気を吹きかけると、先生はわずかに震える。これはエネルギーを使った動作ではなく、ただの反応だ。
 わたしが吐く生温かい息も、さっきわずかに口にしたラム肉で出来ているのだろうか。
「先生、わたしたち」

 今、ひとつですね。

「サトウ、さん」
 先生はやがてわたしの中で果てる。エネルギーの塊をわたしの中に放ち、小さくしぼんでいく。わたしはマダム2の夫である、しわくちゃの老父がますます乾いていくところを想像していた。



 もうすぐ完成です。
 先生が教えてくれたのは、真心の込め方でしたね。
 それって本当に料理に宿るのだろうか。わたしは正直、当為は先生が言っていた真心というのがどういうものなのかよくわからずにいました。
 でも、今ならなんとなくわかります。ああ、心を込めるというのはこういうことなんだなと。一本ずつあなたの指を開いていくと、そこにまだ温もりが残っているのを感じました。この温もりは命の灯火によるものではなくて、わたしの作った料理を食べて蓄えたエネルギーが尽きるまで燃焼しているだけなのでしょう。とても神秘的ですね。
 ずいぶん食べましたね。若いときに比べてよく肥えたお腹を見ていると、感慨深い気持ちになってしまいます。これはわたしが悪いのでしょうか?わたしが、美味しいものを作りすぎたからでしょうか?

 あなたは一度も、わたしが作った料理を残しませんでしたね。


◆魂
 一方でわたしのお腹は、別の生き物によって膨らんでいく。

 鍋に水を張り、鶏ひき肉を強火で煮込む。

 ボウルに水を張り、じゃがいもをつけておく。

 一合分の米を釜に入れ、水を加える。二、三回底から混ぜたら、糠の臭いが米についてしまわないうちにすぐに水を捨て、研ぐ工程に入る。米同士の摩擦によって、余計なものが剥がれていく。もう一度水を入れて、白く濁った水を流しに捨てる。それを二回繰り返す。釜に米を入れて水を線まで注ぐ。炊きムラができないように、水の中の米を優しく揺らしながら平らにする。炊飯器に釜をセットして、スイッチを押す。

 ひき肉を鍋から取り上げたら、ダシスープ、コーンクリーム、ごま油、塩を入れ、よく混ぜて、強火で温める。沸騰しそうになったところで片栗粉を入れて中火にする。スープにとろみがついたら、溶き玉子をまわし入れ、ひと煮立ちさせたら缶詰のコーンを加える。

 じゃがいもの表面の、柔らかくなった泥を落とす。包丁を使って、毒素のある芽を取り除いていく。皮は剥かずにおいて、輪切りにする。皮にもたくさん栄養があるからだ。

 肉は大きめのフライパンで焼く。あらかじめ常温に戻しておいた肉を、ごくごく弱火で温めたサラダ油の上に置く。肉汁を外に出してしまわないように、表面を焼いてコーティングする。肉が少し白くなってきたら、中火にして焼き色をつける。この時、動かさずに表裏それぞれ1分くらい焼いて、塩胡椒を振る。
 焼いたばかりの肉はすぐに切らず休ませる。アルミホイルに包んで保温し、肉汁を中に閉じ込める。その間に、肉を焼いた油でじゃがいもをソテーにして、付け合せにする。

 ご飯をよそい、コーンスープをスープ皿に注ぎ、肉とじゃがいもを皿の上に横たえる。

 自分の中に、二人分生きている命があるというのは、妙な気分だなと思う。
 わたしは自分が作ったものを食べる。口から繋がっている細長いホースを通って、直接エネルギーがお腹の中にある命に渡っていくところを想像しながら。それは得体の知れない闇にも似ている。

 あなたもさっき食べたものをちゃんと思い出した方がいい。
 それがなんだったのか、そしてそのエネルギーがあなたの中の何に注がれているのか、ちゃんと考えた方が良いと思う。

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