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「え、蛍って絶滅したんじゃなかったっけ?」とソシガヤが言うので、呆れてしまった。
臨床研究棟の外はもう梅雨だ。窓辺に身体を預けると、どこかから染み出してきた雨で触れた場所が湿る。建物の脇で、チェリオの自販機が濡れているのが見えた。
「ほんとに常識知らずだよね」
この街から出たことのない、いいところ出のソシガヤは、時々こうして私を驚かせる。
「でも、確かに見た気がするんだよね、テレビで」
それは、どうして蛍が絶滅してしまったのか、有力と思われる複数の原因を検証していく番組だったという。つまり、蛍はもう絶滅してしまっているという前提らしい。
一番有力なのは、九十年代くらいから広く使われるようになった農薬に含まれる特定の成分が、回りまわって蛍の食べるエサだか住む水だかにも含まれるようになり、それが蛍"だけを"殺してしまうというものだった。他にも、携帯電話の電波が蛍の平衡感覚を狂わせ、みんな川に墜落してしまうというような説もあったという。
まるでSFだ。
「いずれにせよ蛍の大量死は、近代社会に入ってから人間が一定のラインを超えて自然に介入してしまったことに対しての警鐘なのだ!」と、ソシガヤは生物の先生の声色を真似て言った。
「他の虫と勘違いしてるんじゃないの?」と、私が言うと、ソシガヤは眉間に皺を寄せた。
「いや、確かにあれは蛍だった。しゃべってるうちに記憶が蘇ってきた。蛍が水面から湧くように舞い上がるところを捉えた、とても古いVTRが流れたの。画質が荒くて、画面のサイズもぐっと幅が狭い、旧時代のVTR」
ベッドに飛び乗ったときの埃みたいに、草の陰から光の玉が大量に出てくるの。そう言いながら激しく身振り手振りをするソシガヤの、真っ白な胸元がはだける。かぼそい、蜘蛛の巣のような血管が透き通って見えた。
「一個一個は頼りない光なんだけど、それが暗闇の中で消えたり浮かんだりして綺麗なわけ。綺麗だなと思った気持ち、思い出した」
「いや、でもそれが蛍が絶滅してるって理由にはならないでしょ」
「でも現存するんだったら、新しい映像撮るんじゃない?」
「そうかなあ」そうとは限らないような気がするけれど。
「というか、蛍見たことあるの?生で」とソシガヤはムキになって言う。
「あるよ。あるある。まだ小さいときに、お父さんにチチブに連れて行かれたの。お父さん、そういうの好きだったから。でも二、三匹、ふわ~って浮かんでるくらいだった気がする。粘って粘ってそんなもんだった記憶があるよ。川べりの草むらから、ふわふわ浮かんでたの見た」
人魂みたいだった。と私が言うと、ソシガヤは腕を組んで、ほら、それだって現実味ないじゃん、記憶の捏造かもしれないじゃん、と言った。
「私には、おしりが光る昆虫が水辺にたくさん群がってるなんていうのは、ファンタジーすぎるように思えるんだよ。そんなものがこの世に現存するなんて、夢みたいに思える」
「そうかなあ」
そんな風に言われると、私の頭の中にある光の玉も、テレビか何かで見たものであるような気がしてくるのだった。
「この街じゃ、蛍は見られないのかな」と私は言った。
「蛍って、綺麗な水じゃないと生きられないんでしょ?」
「そうそう。だからチチブまで行ったの」
窓の外を見やる。しとしとと降りしきる雨は叙情的に見えたけど、蛍たちにとっては致命的な不純物がたっぷりと混じっているのだろう。
「チチブだったら、今から行けば日付が変わる頃には帰って来られるんじゃない?」と、ソシガヤは言った。
ええ。
「行ってみようよ、チチブ」
車の中で、変な夢を見た気がするけど思い出せない。
目を醒ますと、そこはもうチチブだった。
私はソシガヤの運転する車の中で眠りこけてしまって、東京からチチブまでの記憶がほとんどなかった。口すらつけていないコンビニのコーヒーが、ドリンクホルダーで熱を失っている。六月というのに、まだまだ肌寒く感じた。「チチブって近いんだね」と私がいうと、ソシガヤはさすがにそれはひどいと言って笑った。
田んぼの道に、点々と小さな明かりが灯っている。ビートを刻むような一定のリズムで、車の外を光が流れた。
ひとけもあかりもない川べりに車を停めてライトを消すと、フロントガラス越しに月の光の反射する川面が見えた。ジョイ・ディヴィジョンの有名なアルバムのジャケットみたいだ。
「いないかな」
何かが共鳴しているみたいな音と川の流れる音以外は、何も聞こえない。静かな田舎の夜だった。月の光で空は明るい。その明るさは、こんもり小高い山の形に切り取られ、そこだけが完全な闇だった。ビルだらけのあの街から、一眠りしている間に来られる場所だとは思えない。
「こういうところでしょ?お父さんと来たのって」
「そうそう」
そうだ。蛍は騒がしくすると逃げちゃうんだ、と父親が言っていたのを思い出す。とにかくひとけのないところじゃないとだめだと言って、なかなか蛍を見られずテンションが下がり始めた私を乗せて、車は小さな水流を遡上して行った。あれも、こういう静かな夜だったはずだ。私たちは時折車から降りて、しのび足で川に近づいた。
川面に向かって歩を進める。少し身じろぎするだけで、足元の長い草同士がこすれあう音が聞こえた。普段草むらを歩くときも、こんな風に大きな音がしていただろうか。足元で鳴っているのではなく、頭の中に直接響いてきているみたいに思える。
二人で、しばらくその静けさに耳を傾けていた。
「静かだね」
そういう自分の声すら、いつもと違って聞こえるくらいの静けさだった。川辺には、蛍どころか生き物の気配すらないように感じた。東京に立ち込めていた雨雲はチチブには及んでおらず、月の光で十分に明るい。
「こういうところに死体が落ちてる漫画、あったよね」とソシガヤは言った。それを宝物と呼ぶ若者たちの話だ。
川面に向かって目を凝らす、ソシガヤの華奢な身体を青白い光が縁取っている。もし地球が核爆弾で滅んでも、きのこ雲さえ晴れてしまえば、月の青白い光は変わらずにこうして夜を照らすのだろう。そこが廃墟だろうがなんだろうが。
「絶滅」と私は声に出して言ってみた。
「絶滅、しちゃったのかもな」
そう思えてきた。私が見たと思ってる蛍も、やっぱり記憶の捏造かもしれない。
「確かに、きれいな水辺にしか住めないおしりの光る虫というのは、ちょっとファンタジーすぎるかもしれない」
ソシガヤは黙っていた。
その上彼らは、騒がしさに過敏に反応して身を隠す。その美しい特徴を見られることを嫌がるように。それも出来すぎた話のように思えた。本来は雌の気を引いたり仲間に場所を知らせるためのサインだったものを、私たちが雌以上に喜んでしまったのだ。
でも、もし蛍が絶滅していたとしても、私たちは何も困らないだろう。蛍を佃煮にして食べるなんていうのも聞いたことがないし、その頼りなさのせいなのか、いなくなったところで生態系を崩してしまうような影響力もなさそうな感じがした。だから、蛍が絶滅してようがしてまいが、私たちの世界は変わらないのだ。だから私も、簡単に自分の記憶が捏造であるような気がするのだ。
でも、だとすれば、家族でわざわざチチブまで蛍を見に行ったという美しい記憶はどうなるのだろうか?
不思議なことに、父親の顔も声もちゃんと思い出せなかった。もう随分会っていない気がする。
私は、ソシガヤの車の中で見た夢の触り心地だけをを思い出した。何か間違ったことが持ち上がっているのに、その正体が何かわからないというような夢だった。
山の形に切り取られた暗い闇を見ていると、私はとても不安な気持ちになってきた。
自分が簡単に蛍の禍福なんてどうでもいいと思ってしまったことを、私は後悔した。
「どうしようソシガヤ、本当に蛍が絶滅していたら」
それって私たちのせいなんじゃないかな、と私が言うと、ソシガヤもそうかもね、と言った。
蛍が死ぬ農薬を誰かが撒いて、それで私たちが美味しい野菜を食べていることなんかよりも、蛍が生きてようがいまいがどうでもよくて、ただなんとなく面白半分でチチブまで来て、いないね、帰ろっか、となってしまうことの方が、よっぽど蛍たちの命運を悪いほうに導いていく。そんな気がした。
ぽつぽつと雨が降ってきた。いつの間にか雨雲が、月の光を遮っている。暗闇が満ちていて、頬だけが雨に濡れて冷たかった。
私がめそめそし出すと、ソシガヤは力強く「じゃあ、やっぱり生きてるって信じようよ」と言った。「蛍たちは今も、力強く生きている。頼りなく見えるその光は、我々を照らすためにあるわけではないのだ」
ソシガヤはそう言った。優しいな、と思った。川が流れ続けていた。
ひとつ、迷うようにこちらに向かって飛んできた光の玉を、私はゆっくりと手のひらで包んだ。思ったよりもあっさりと捕まえることができてしまって、自分でも驚いた。
私はしばらく、暗闇の中の手の甲を見つめた。指の隙間から漏れ出るほど強い明かりではないから、あるのは手のひらの上に何かがいるというぼやんとした感覚だけだ。
「ソシガヤ」
捕まえちゃった気がする、というと、ソシガヤは「ええ」と言って驚いた。
「どうするの?」
「どうしよう」
もしもこの雨雲が、私たちが街から連れてきた汚れた雨雲だったとしたら、この雨を浴びた蛍はまた絶滅してしまうかもしれない。
「見たいよね」
「見たい、けど」
私たちは手のひらの中にあるかもしれない光を想像して、人生で初めて祈りに似た気持ちを抱いた。暗闇と川べりの低い地面の上で、私たちは雨に濡れながらは祈り続けた。
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