歯型 (「teeth mark」改稿)
※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1JkLC9P0c2C3Vgbh9dN1TlshUnqAjoXBk
朝起きて顔を洗っている時、奇妙なことに気がついた。右頬に、くっきりとした歯型が浮かび上がっているのだ。
指でなぞってみると、それは確かに立体的に窪んでいた。小人たちが、遺跡の発掘調査をしている最中みたいな痕跡だった。
もちろん誰かに噛まれた記憶はない。夜中、知らない間に僕を噛みに来るような知り合いも知り合いの犬もいない。
それは深くくっきりと刻まれていて、しばらくは消える気配がなかった。痛みはない。口の中に無理やり指を突っ込んで、右奥歯から左奥歯までの距離を測ってみる。比べてみると、僕の口よりもひと回りは小さく、歯一つ一つのサイズも小じんまりしているように見えた。
良い大きさのガーゼやマスクはなかった。会社を休むか、開き直ってこのまま会社に向かうか、どちらかの選択肢しかなかった。
「お盛んなことだね」と、喫煙所で同僚の一人がからかってくる。「どんな独占欲の強い女と寝たんだ?」
「心当たりがないんだ」
僕はそう言いながら、また指で歯型をなぞる。それは朝と同じ深さのまま、確かに僕の頬に存在する。
「俺はその手の女が嫌いじゃない。抱きしめている時に、血が出るほどの強さで肩や胸元を噛んできたり、背中に赤い引っかき傷を付けてくるような女が」
彼はにやにや笑いながら続ける。そういう女の方が、泥に誘いこまれるみたいで恍惚とするだろう。
「本当に心当たりがないんだ」
彼はあっという間に煙草を一本灰にしてしまうと、二本目に火を点けた。か弱い煙が立ち上る。
「どっちが怖いだろうな」
気づかぬ間に歯型を付けてくる女が、実際にいるのといないのと。
同僚はふふふ、と声をあげて笑った。お前は優柔不断なところがあるからな。だからそういう泥沼みたいな女に付け込まれるんだろう。
エレベーターの中で、「何かの暗示なんじゃない」と、先輩の女史が言った。
「どんなですか?」
「そうね」
女史はにやつきながら、僕の頬を見つめる。
「セックスへの不安とか?」
「——もしも、僕の顔にドラえもんのタトゥーが浮かんだら?」
「それは間違いない、胎内回帰願望ね。ポケットよ」
僕はため息をついた。
幸い今日は社外に出る用事もなかったので、とりあえず一日をやり過ごそうと思った。しかし予想以上に、歯型について訊いてくる人間が多かった。
「心当たりがないんです」
僕は何か聞かれたり揶揄されるたびにそう答え、自分の指で歯型をなぞった。歯型は深く僕の頬に刻まれており、一向に元に戻る気配はなかった。
もし一生このままだったらどうしよう、と思いながら週報データを作った。どこに行っても誰に会っても、まずは歯型のことを言われるのだ。誰もが僕の眼を見ようとせず、僕の歯型に向かって話をする。
トイレに立ち、誰も来ないのを見計らって、また鏡の中の歯型を見つめた。それはどこか上品な歯型に思えた。どこもリズムが崩れることなく、綺麗な楕円を描いてその歯型は並んでいた。
同僚の言うように、もしこれが本当に未来で僕を待っている女の歯型だったならぞっとしないけれども、顔だけは見てみたいかもしれない、と思った。どこか艶かしい魅力を放つ歯型だった。誰もがそこに焦点を当ててしまうのも、無理ないことかもしれない。
その日、寝付けなかった。
ガールフレンドから「家に泊まりに行ってもいいか」というメールが着たけれど、歯型のことがあったので無視した。二十二時ごろに一度、短い時間携帯のコールが鳴ったけど、それも無視してしまった。歯型を見たら、あらぬ疑いをかけられることは目に見えている。こんなの、何を言っても信じてもらえないだろう。
いっそ会ってしまって、向こうから別れを告げられるような展開も想像したけれど、平和的でないし彼女が怒ってしまってから先のことが想像できなくて止めておくことにした。そんなやり方を選ぶのはスマートではないのだろう。
昨日から読みかけになっているSF小説を開いてみたりしたけど、難解すぎて頭に入ってこなかった。昨日の間に半ばまで読んだが、一向に専門用語が頭に入ってこないのだ。しかも小説の中の世界は、いくつものレイヤーで出来ていて、同じ魂を持った登場人物が色々な世界にいるため、どれがどの話なのかわからなくなった。
諦めてビールの缶を開けて窓辺に立つと、丸い月にくっきりとした歯型が付いていた。僕と同じ、右頬だった。
月ではなく、月に刻まれた歯型が話しかけてきた。
「どうして歯型が浮かんできたのか、あなたにはわからないのね」
月、ではなく月の歯型が、はあ、とため息をついた。最低ね。そう言う歯型は、確かに歯型であると同時に誰かの表情であるのだった。
「呪いとか、そういった類の何かでしょうか」
「そう言うってことは、何かあなたの中に疚しい記憶や心当たりがあるの?」
僕は腕を組んで、真面目に考えてみる。ガール・フレンドといささかうまくいっておらず、別れの気配を感じているというのはあるけど、別に不貞を働いているわけではない。メールを無視するくらいで歯型が付くのなら、道行く人みんなの頬に歯型が顕れてしまう。それに今までだって、僕は僕なりの誠実さで交際相手と付き合ってきたつもりだった。
「何だって、何かに結びつけようと思えば、結び付けられそうなものですが」
「どんな?」
「寝起きにキスしなかった、とか?」
歯型は、その顔の縁を震わせる。何か心外なことを言ってしまったのだろうか。
「そんな、下らないものでは、ないわ」
何がそんな声を震わせるほどくだらないのか、僕にはよくわからなかった。手に持っているビールの缶の冷たさの方が非現実的な感覚に思える。
「ダメね。きちんと自分のことを顧みない罰だと思いなさい」
「それはつまり、先輩の女史が言っていたようなことが原因で、僕の頬に歯型が浮かび上がっているってこと?」
「自分で考えなさい」
「やっぱり先輩と話したこともまで知っているんですね。じゃあつまり、深層心理的な、セックスへの不安?」
歯型はまた、呆れたように大きなため息をついた。
「ああ、直接それを言ってしまえるのなら、こんな風に顕れたりしないわ。自分の胸に聞いてみなさい、というのは正にこのことね」
「あの」
僕はビールを飲んだ。砂に染み込ませていくみたいに、ビールの缶はあっという間に空になった。
「僕だって、それなりに迷惑を被っています。あることないことを色んな人に言われたりして。こんな下品な徴を目立つところに付けられて、それが自分のせいだと言われても、僕は戸惑うほかありません」
僕は、できるだけ怒りを抑えながら言う。
「このまま僕の頬に張り付いているというのなら、それもまた仕方のないことでしょう。ただし、僕はこの歯型が示唆する何かを克服するために生きていく気はありません」
歯型は呆れてものも言えないようだった。大きく口を開いたまま、わなわなと震えている。
「いいわ」歯型は言った。「あなたがそう言うなら、それまでよ」
ビールの空き缶を持ったまま、しばらくの間静止した月の歯型を見ていた。歯型はそこに確かにあったが、二度と動くことはなかった。
不思議なことに、月に歯型が付いているにも関わらず、テレビのニュースはおろか、誰も何も言わなかった。僕にしか歯型は見えていないのか?と思ったが、NASAのホームページで見る月にも、アームストロング時代の白黒写真に写る月にも、ちゃんと歯型がついていた。まるで最初からそこにあったかのように。僕の勘違いだとしても、歯型が着く前の月の写真はどこにもないのだった。恋人に見てもらっても、「歯型に見えるといえばそうね」としか言わなかった。
一方僕の方の歯型はいつの間にか消えた。鏡を見ながら指でなぞってみても、髭を剃った跡の感触があるだけだ。当然誰も何も言わなくなった。
今も確かに、月に歯型が付いている。多分あなたも、「そう言われれば歯型に見えないことはないね」と言うだろう。
僕の個人的な深層心理が作用したせいでこの世界の月に確かな歯型がついたとして、それは何かの徴なのだろうか?
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