テキストヘッダ

幾重奏

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1gdTcS3VfJu9r9P13CNX_BIO9zsknWvPw

 この辺りでも、流石に三月に入ると雪は降らないみたいだった。四年前の二月、確か中旬ごろだったはずだ、家を探しにこちらへ来た頃は、線路の両脇に雪でできた壁が延々と続いていた場所である。泥混じりになった小高い雪の山が、今年もつい最近までその壁があったことを示している。それももうあとは小さくなっていくばかりなのだろう。
 東京への出張が多い営業部が、とにかく止まることの多い新幹線だとこぼしているのを聞いていた。遅延も多い。冬場は特に。しかも米沢から福島間は、電波が繋がらない場所も多い。まさか自分がそれに巻き込まれるとは思っていなかった。
 山形駅では春の嵐が吹いていて、転がる帽子を追う人やスカートを押さえて電車を待つ人の姿を見たが、窓の外は静かに見える。背の高い灰色の林は、揺れもせず静かに佇んでいた。
 窓に寄りかかると、腕が暖かい。あっけらかんとした、昼下がりの春の日だった。

 もうどこかでネクタイを買う時間はないかもしれないなと思った。そういうのって、貸してもらったりできるのだろうか。きっとできるのだろう。自分のような人間が、一日一人くらいはいるだろう。
 電車に乗るまではあんなに焦っていたのに。電車が止まってしまってからの僕は随分楽観的になっていた。
 ワイシャツも、電車に乗ってからよくよく検分してみると皺だらけだった。その上薄いストライプまで入っている。真っ白いのは確か、昨日仕事に着ていったのだ。
 人はあらゆることに備えていなければいけない。想定していないようなことが起きても、簡単に狼狽えてはいけない。

「本当にお前は超人だよな」と、イヤホンからお笑い芸人が話している声が聞こえてくる。

 あんなにトゥースって…アメフトの番組でも毎週やってんじゃん。
 やってるね。
 横にいて、俺は恥ずかしいよ。こんなダサイ芸人とコンビ組んでるんだと思うと。
 そんな風に思ってんのか、毎週!だったらいっそ、ずっとやり続けてやるよ。

 隣の車両に移る扉の上で、電光掲示板が中東の街のテロのニュースを伝えていた。死者七十六・・・

 まさか同じギャグを10年間ずっとやり続ける相方と組むって、お笑い好きな高校生の時は思ってなかったからさ。
 ああ、そうだろうね。分かる、『変えろや』って思うよね。

 大学生の頃からずっと聴き続けている深夜のラジオ番組だ。下手したら本当に付き合いのある誰と比べても、圧倒的にこのコンビの声を聞いている時間の方が長いかもしれない。この話だって、何だか以前も同じように話しているのを聞いたことがあるような気すらする。二人はゲラゲラ笑いながら、次の話題へと移っていった。
 イヤホンの隙間から、車内アナウンスが流れてる声が聞こえていた。イヤホンを外すのすら面倒で、目を瞑った。動くなら動くし、動かないのなら動かないのだろう。
 春の番組改編の時期は、少しざわざわする。もしこの番組が終わってしまったら、自分は何を楽しみに生きていけば良いのだろう。
 別に生きていけるだろう。他にもずっと聴き続けていたのに終わった番組がたくさんある。二週間くらい、あ、そういえば終わっちゃったんだ、と思うだけだ。
 そんなことを考えていると、不思議なものが見えた。林の先に、小さな家が建っているのが浮かんできた。さっきまではなかった、はずだ。えんじ色の屋根の木造家屋。ガラスがモニタになったみたいに見えた。
 電波の届かないこんな場所でも、住んでいる人がいるのだ。どんな暮らしをしているのだろう、と思いながら目を瞑った。

「もしもし」という声で目が覚めた。
 目を開けると、さっきまであったえんじ色の家がなくなっているのがわかった。でも風景は特に変わっていない。まだ電車は動いていないのだ。
 肩を叩いたのは、にやけ顏の老父だった。唇の隙間から濡れた歯が見えたが、ところどころ黒く欠けているのがわかった。
「あの、お願いがあって」
 開けてほしくて。
 彼は僕にサッポロビールを渡した。言われるがままにビールを受け取ってプルタブを上げて返すと、老父はにやけ顔のまま隣の席に座った。
「助かります」
 ほら。男は黒い手を、こちらに甲を見せながら広げた。
「爪がなくて」
 ひ、と声を漏らした後で、男はビールを一口飲んだ。ああ。美味しい。電車の中で飲むのって最高ですよね。
「動かないですねえ、電車。参っちゃうよ、本当に」
 ねえ、ひ、ひ、ひと男は笑った。サッポロビールの白い缶の上を覆う、指の黒さが際立っていた。爪の間に垢が溜まっている。
「どちらまで?」
「京都です」
 男は感心したように、ははあ、と言った。それはそれは。それって東京駅で乗り換えですか?
「そうですね」
「じゃあ乗り換えの予定もめちゃくちゃだ」
 災難でしたね言いながら、男はビールをあおった。ぴちゃぴちゃと大げさな音がした。窓の方に目を逸らしても、汚い音とガラスに薄く反射する姿が気に触った。
 早くどこかに消えてほしいな、と思う。
「困りますよね。俺たちにだってね、予定あるのに。田舎の新幹線の昼の便だから、誰も何も文句言わないと思いやがって。弁当のひとつも出ない。あなたは出張か何かですか?」
「葬式です」
 男は飲みかけたビールを一旦口から離す。
「葬式。ははあ、これは失礼しました。ご冥福をお祈りします。そうでしたか」
 缶の中の空洞で、ビールがたゆたう音が聞こえた。
「そうでしたか。それは弱りましたね」
 男が一応にやけ顏をやめているのが、窓ガラスの反射でわかった。灰色の鳥が、木々の間を横切る。やはり、林の向こうにえんじ色の屋根が見えた。
 男はあらぬ方を見ながらビールを一口飲んで、そうか、それなら早く動いてもらわないと困りますねと言った。どうせまたイノシシか熊でも轢いただけなんでしょう。ここらはそういうのがよくあるから。
「なので、すみません。出来れば一人にしてほしくて」
「亡くなったのはいつなんですか?」
 僕の声は、男には届いていないようだった。
「…朝。今日の朝です」
「悪かったので?」
「ええ。前々から入院していたのでわかってはいたんです。実家に残っている弟夫婦が看取りました」
 はあ、とため息が出た。もうそろそろどこかに行ってくれよという気持ちを込めたつもりだけど、頭の中では、自分が不在の病室でベッドの脇に立つ弟夫婦の背中が浮かんだ。
 老父は、そうか、そうでしたかと自分に言い聞かせるみたいに呟いていた。
「あたしの母が死んだのも、あなたくらいの年の頃でしたね」と男は言った。

 あたしの母は肺がんで。悪くなってからはあっという間でしたけど、そうやって悪くなってからつきっきりだったもので、ずいぶん面倒見たもんですな。最初の頃はお互いちゃんと話も出来て、いやーあたしも親孝行できるななんて思ってたけど、ほら、やっぱり死に際は大変で。働き盛りでもありましたから。死ぬの死なないのってよく病院にも呼び出されたりして。
 でも死ぬときはあっさりでしたな。何も言い残すこともなく、本当に眠るみたいにゆっくり死にました。自分の母親なのに、不思議と子どもみたいな寝顔だったのを覚えてます。

 ぐ、と身体が後ろへ引っ張られるのを感じた。窓の外の風景が、ゆっくりと動き出す。
 線路の脇に赤黒い塊が転がっていて、白いマスクをした男性数人が、それを取り囲んでいるのが見えた。その内の一人が電車から離れていくその先を見ると、そちらにも赤黒いものがサークル状に広がっているところがあった。何かの儀式の跡みたいだ。

 そういえば、そうか、もうあたしの母親はいないんだな、と思いながらぼんやり車運転して帰る最中、野良犬を轢いちまったんですよ。まだその街中にそういうのがうろうろしている時代だったから。何だろう。今まですっかり忘れてたのに。何か、急に思い出しちゃったなあ。

 余計な話ですね、と男はようやく立ち上がった。すみません。気が紛れたらと思ったんですが。邪魔しちまいましたね。
「その犬って、どうしたんですか?」
「犬?」
「轢いた犬です」
「ははあ。どうしたっけな。道路の端に除けたか、その辺に埋めてやったんじゃないでしたかねえ」

 老父にどこに行くのか聞いたところ、東京にパーティに呼ばれているのだという。結婚パーティということだ。誰のものかわからないけれど。男は景気よくビールを飲みながら、席を移動して行った。

 手を合わせながら、これからの人生のことを思った。明日のことを思い、十年後か二十年後ぐらいのことを思った。昔のことは一つも思い出さないようにしたつもりだけど、いくつかの思い出が、スチール写真のように浮かんだ。
 机の上に残された冷めた仕出し弁当はまずそうに見えたが、昼間から何も食べていなかったので見ただけでお腹が鳴った。

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