テキストヘッダ

トリップ

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURQ0RPUDFKNENSTUE

「予約したホテル、なんだかちょっと変わってるみたい」
 思い出したように彼女が言った。普段慎ましく暮らしているからいいよねと、旅行の計画を練る彼女が言っていたのを思い出す。
「まあ多少高くても良いよ」
「そういうことじゃなくて」
 窓の外で風が強く吹いている。モニタの右上のアラートには「○○地方が暴風域に」「○○地域に避難勧告」などと、ここから少し離れたところにある海沿いの街々の災害情報が流れ続けていた。明日にはこの嵐は過ぎ去るらしい。

 旅行の計画を立てていた。彼女と二人で行く、初めての旅行。僕たち二人が長期の仕事休みを合わせるということは、奇跡でも起こらない限り不可能なはずだった。しかし奇跡は起きた。彼女のささやかな夏休みに、僕の休暇を合わせることができたのだ。開いたノートパソコンには、青空に寄り添うように、白く四角いホテルが建っている写真が映し出されている。抽象画のようにも見えた。
「時計の持ち込みは禁止なんだって」
「時計?」
「時間が流れるのを忘れてくださいって。帰る日をあらかじめ伝えておけば、ちゃんとホテルの人が声をかけてくれて、船も出してくれるって」
「ふうん」
「まあこういう時代だから、こういうのが流行るのかも。みんな現実逃避したいから」
「東京にあるテーマパークも、高速道路とか駐車場とか、絶対に見えないようにしてるとかって言うからね。夢の国だから、現実のものは目に入らないようにって」
「飛行機も上を飛ばないようになっているらしいわ」
 僕は夢の国のお城から砲弾が発射されて、遠くを飛んでいる飛行機が撃墜される風景を思い浮かべた。
「船に乗る前に、主に時計や携帯電話、それからラップトップのパソコン、ゲーム機なんかも全部預けなきゃいけないんだって。本当にそんなことが可能なのかしら?」
 確かに、と僕も思う。どんなくだらない機器でさえ、時計機能がついていることがある。相当厳重なチェックをするに違いない。
「もし持ち込んだら?」
 二人で並んだ長いコーヒーテーブルの上で、パソコンのモニタが暗くなった。しばらく何の操作もしないままでいると、モニタの電源が勝手に切れてしまう。暗くなったモニタに、下から覗き込むアングルで、ひじをついてにやりと笑っている彼女が映っていた。
「拘束される。島に時間の概念を持ち込んだかどで」
「そして?」
「永遠に、孤立した島の凍り付いた時間の中に閉じ込められる。ピーターパンみたいに」
「悪くないかもしれない」少し想像してみた後で、僕はそう言った。

 ここのところ僕は、流れるように過ぎて行く日々に嫌気がさしていた。ただ会社に行って、パソコンを立ち上げて、夜十時くらいになったらパソコンの電源を切って帰る。一日中モニタを見ていた僕の目は、脳にめり込みそうな程頭の奥へ奥へ引っ込もうとしている。それを包み込むように、僕は何も考えられないまま眠りにつく。毎日毎日、とにかくただその繰り返しだった。
 だから、そんな風に「時間が凍り付いた島に閉じ込められてしまう」ことは、今の自分の生活に比べれば幾らかましに感じられた。いやそれどころか、今のとろとろにとろけてしまいそうな僕の脳では、それこそが本当の幸福なのではないかとすら思えた。
 彼女と二人、凍結した島の中。
 彼女が見せてくれたパソコンの画面には、まるで何かの標本のように白いホテルが立っていた。その白い壁を見つめていると、壁の向こうが透けて見えてきそうだ。博物館のアクリルケースのように。パソコンの低いモーター音が、そのホテルのくぐもった唸り声のように聞こえる。
「まあ、たまにはいいじゃない。こういうところでのんびりするのも。私たち、普段あくせく働いているんだから。お金だってずいぶん貯まったわ」
 彼女は、僕たちがこつこつ積み立ててきた預金通帳を開いてみせる。毎月同じ金額が刻まれ、一番下にはまとまった額が表示されている。
 彼女は銀行で働いている。小都市にある小さな地銀の小さな支店。僕たちはあくせく働き、汗にまみれた札束を、彼女が働く銀行の、おそらく地下にある冷たい金庫に丁寧にしまっておく。僕は札束なんて見たこともなかった。自分たちが貯めた貯金も、ちょっとした専業作家のハードカバー長編くらいの厚さにはなるだろう。冷たい地下室で、僕たちのお金が折り重なって静かに寝息を立てているところを、僕は想像する。
 僕は彼女が銀行の中でどんな仕事をしているのか具体的に良く知らない。きっと銀行というところは、窓口を閉めた後にも色々とやることがあるのだろう。どこの銀行も、あんな規則正しく早い時間に閉まってしまうのだから。何の意味もなくそんな風になっている訳がないだろう、と僕は思う。きっかりと9時に開き17時に閉まるその静と動のサイクルに。眠っている札束を囲み、銀行員たちが呪術的な儀式を執り行う。
 旅行に行きたいと言い出したのは彼女だった。彼女がそんなことを言い出すのは、とても珍しいことだった。どちらかと言えば休みの日は一日中家にいて、積まれた本を読んだり手の込んだ料理をする方が好きなタイプだ。きっと彼女も無表情を装いながら、実は繰り返しの日常にうんざりしていたに違いない。そうでなければ、わざわざ休みを取るようなこともなかっただろう。彼女もまた、この繰り返しの日常から脱出したいと考えていたのかもしれない。

 旅行に行きたいと言い出したのは彼女だったけど、目的地を決めたのは僕だった。銀行で配られていた旅行パンフレット。白い砂浜に聳え立つ白いホテルの写真。印象に残る写真だった。ある日の遅い夕食の後、彼女は僕にコーヒーを淹れてくれた。彼女の「どこか行きたいところはある?」という問いに対して、僕はパンフレットを以て答えた。
 彼女はパラパラとパンフレットをめくりながら、「こういう静かなところがいいんだ」とつぶやいた。
「そうだね」人ごみでざわざわしているところよりは。
「そう」

 そしてつつがなく旅行の日は近づく。僕も彼女も、出発の前日までいつも通り働き、家に帰っていつも通り料理や洗濯物を手分けして行い、鉛の様に冷たく重くなった眼球を包み込んで眠った。規則正しく勤労日と休息日を繰り返し、やがて僕たちの長期休暇はやってきた。ただ敵の陣地に向かってまっすぐに駒を進めていくだけのゲームのようだった。
 二人とも、あの嵐の夜以降一度もこの旅行のことを話題にしていない。毎日何時に帰れるかわからない僕に変わって、旅行の手続きはすべて妻が引き受けてくれていたのだ。ふと、僕たちは本当に旅行に行くのだろうかと思いながらまどろむ夜が何度かあった。あのパソコンの画面に映し出されていたあの白いホテルは、夢の中で見た抽象画だったのではないだろうか。
 出発の前日の深夜、僕が仕事から遅く帰ると、玄関には既に僕のスーツケースが用意されていた。
「下着も洋服も、全部ちゃんと足りるように入れておいたわ」と彼女が言った。
「あなた、ぎりぎりまで準備しないんだもの。これから準備したら、あなたはきっと眠らないで出発する。船に乗っている間の話し相手がいなくなってしまうわ」
 僕は苦笑いをした。僕のまぶたは、既に僕の眼球のほぼ全身を包み込んでいた。熱いシャワーを浴びた後、倒れるように眠った。黒いスーツケースは、ひやりとした玄関の闇の中で佇んでいた。僕たちの出発を待ち構えているようにも見えたし、中に爆発物が仕掛けられていて、僕たちが夜眠っている間に爆発してしまうようにも見えた。
 今年に入って何度目かの台風が、僕たちの住む土地の頭上を過ぎていった。僕たちの旅行には影響ない。

 僕は港に着いてから船が出るまでの間、携帯電話で何人かの人に連絡をする。
「しばらくの間連絡が取れないけど、心配しなくて良い。旅行に行っているだけだから」
 少し迷った後、自分の上司にも念のため連絡をすることにする。休暇のことはちゃんと伝えてあるけど、万が一何かあったときに、確実に数日間連絡が取れない状態にあることを言わないままにしておくのは、問題があるかもしれない。休暇を取得した時点で、伝えておけば良かった。こういうことに対して後ろめたさを感じるのは、本当に日本人だけなのだろうか?
「ちょうど電話しようと思っていたところなんだ」
 休暇中に申し訳ないな、と上司は言った。
「例の企業の御家騒動が決着した。我々が想定していたよりも早く代替わりがあるらしい。それに伴って、先方は幾つかの事業創設に動き出す見通しだ」
 その廃止する事業のうちの一つに、僕がメインで進めている仕事が関係している。
「前も話をしていた通り、チャンスだ。息子の代との繋がりは、時間をかけて作ってきた」
 僕はぼんやりとした頭で上司の話を聞いていた。ガラス張りの窓の向こうで、海は音も立てずにたゆたっている。
「すぐに話が動き出すかもしれない。どういう流れになってもおかしくないような気がする。君に動いてもらう予定だ」
 ぽーん、という間抜けな音がして、荷物チェックの呼び出しがかかった。
「ラップトップのパソコン、ゲーム機、携帯電話、腕時計、その他時計の機能のついた機器類は一切お持込できません」と書かれた電光掲示板が、荷物検査ゲートの前にでかでかと掲げられている。

 休暇を取るなとかそういうことは一切言われなかった。
 僕たちは荷物を預け、船着場に立つ。白く塗られたボーディングブリッジが下ろされていた。

 この島に時間の概念はありません。時計は持ち込みを禁止しております。ただ、青い空と黒い空が交互に入れ替わるだけ。雨は滅多に降りません。まったく降らないと言っても過言ではありません。時間の概念はありません。

 水兵のような格好をした乗組員が、にこにこしながらそう言って、我々を誘導していた。
 隣を歩いていた中年夫婦が、「素敵だわ」と言った。「全く違う世界に行くみたい」
「綺麗ね」と、黒いサングラスをかけた妻が海を見ながら言った。
 その時、甲板の手すりに結び付けられていた風船のうちひとつが、空に向かって舞い上がっていった。赤い風船だった。風船がゆらゆら揺れながら、雲ひとつない空に飲み込まれていく。嵐が雲を連れ去っていったのだ。静かな海と空は、遠くでその境界を失くしている。
「良いね」と僕も返す。
 左胸が脈打っているのが聞こえる。ジャケットの内ポケットが脈打っているみたいに感じる。僕の身体の中の水が、僕の左胸の脈動を伝えているのだ。その脈音を聞きながら、島に時間を持ち込んだら?という自分の問いを思い出す。

 小さな国の小さなお城が鳴らすみたいな、ささやかなファンファーレとともに船は出発した。一斉に風船が飛んでいく。切り離された細胞が、さらに無数に分裂していくみたいに見えた。そうして風船が飛んでいくところや、風船が見えなくなって何もなくなった真っ青な空を眺めているうちに、いつの間にか陸が見えなくなった。
「船って好きよ」と妻が言った。
「いっそホテルに着かなくても良いわ。ずっと船に乗っていても」
 美しい船だった。くつろげる広いデッキに、ラタンの椅子が置かれていた。よく冷えたビールを出してくれるバーが付いていて、バーテンは無言ながら手際よく飲み物を出してくれた。冷たい海風が僕らの間をすり抜けていく。海も空も、ずっと見ていても飽きなさそうな気がした。
「確かに案外、ホテルよりも落ち着くかもしれないな」
 デッキの端に、腰に手を回して見詰め合う一組カップルがいた。
「飽きないのかしらね」
 僕は冷えたビールを喉に流し込むのに夢中だった。みっともないねと言おうとしたが、それも野暮だなと思った。こんなに空は晴れているし、船は澄んだ海を進んでいるのだ。ビールの泡と一緒に、言おうとしていたことは消えて行った。

 こうしている間にも、島の外ではどんどん時が流れているのだろうか。
 左の胸が震え続けていた。波は静かだ。

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