テキストヘッダ

ノンアルコール・ビールのほとり

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1VTesmZO45iesgd_mkqBOv6D1bcxfjkoJ

 ビールが好きで好きでしょうがない。愛している。サッポロの冬季限定ビールの500ml缶と妻が海で溺れていたら、僕は――もちろん両方ともちゃんと助けて乾杯する。妻の身体を温めてやった後、冬の海で冷えたビールを小さなグラスに注いで、二人でちびちび飲むのだ。

 そう、頭の中で想像するときはそうやってちびちびお上品に飲める。まっすぐに泳いで行って、彼女を助けてあげることもできるのだ。

 でも現実はそう上手くコントロールできない。僕は500mlの缶ビールを半ダースで買ってきて、それを一日で飲んでしまう。
 僕としてはそんな、下品にがぶ飲みしているつもりはない。妻も言う。
「こんなに美味しそうにビールを飲む人はあなた以外に見たことがないわ」
 僕は一杯一杯をちゃんと味わい、幸せを噛み締めながら――まるで中身を河に流してしまうみたいに飲んでしまうのだ。つまみもいらない。ビールだけあれば十分だった。

「あなたのお腹の中はどうなっているの」と妻は言った。
 まったくその通りだと思う。胃袋がビール専用のブラックホールになっているに違いない。
「僕には、黄金色の液体が渦巻きながら暗闇に吸い込まれて行くのが見えるよ」
 そう言うと妻は、ため息を吐いた。
「あのね、今度のパーティのことだけど」
「ああ」
 それは妻の大学時代の友達が主催のパーティだった。仲良し三人組だか四人組だかが久しぶりに集まろうということになって、みんな所帯を持っていたので、一度旦那や子どもも連れて来てみてはどうかということになったらしい。
「アルコールはなしだから」
「ええ?パーティなのに?」
 わたしも知らなかったんだけど、と妻は言った。妻の友人の旦那のうちの一人が、アル中らしい。その妻としては、とにかく酒に近寄らせたくない。その場はなんとかやりすごせても、目の前でぐいぐい飲む人間がいれば、我慢できなくなってしまうんじゃないかと思っている。何せテレビで流れるビールのCMすら目を背けているのだという。
「信じられないな」僕はビールを一口飲んだ。「アルコールの出ないパーティなんて。高校の文化祭じゃあるまいし」
「そういう場にいても飲まずにいられるように、リハビリさせたいって目的もあるらしいの」
「それってリハビリって言うの?拷問みたいなやりかただね」
「ねえ、付き合いだと思って我慢してね」
「うーん」
 しらふのまま、初対面の人間たちと食事なんてできるだろうか?ましてアル中の人間がそこにいるだなんて。食事を取り分ける皿の上で、震える手に握られたトングがカチカチ鳴るところを想像する。
「ぞっとしないな」
「嫌なのはわかるけど、わたしのところだけ同伴者がいないなんて、あんまりじゃない?」
「そうだね」
 そんなこと言われたら、行かざるを得ないじゃないか。女ってどうしてそんなことを気にするのだろう。そう思いながら、僕はビールを飲み干して、新しい缶に手を伸ばす。
「きっとあなたも、そのうち彼みたいになるんだわ。治療がどんな辛かったかちゃんと聞いておいた方がいい」
 妻はそう言って寝室へと消えていった。

 そのパーティは、妻の友達の一人が所有する別荘で行われるということだった。住所をインターネットで検索したら、山あいにぽつんと存在する小さな湖にピンが立った。さぞ豪勢な別荘なのだろうと思ったが、辺鄙なところとしか思えなかった。何もこんな寒いときに、こんな山の奥まで行かなくても。
 そして妻は運転免許を持っていない。つまり、僕はそもそもアルコールを飲む権利すら与えられていなかったということだ。

 別荘にたどり着くと、妻は友達たちひとりひとりとハグした。糸が絡まりあうように、友達たち同士がそれぞれハグをし合った。
 妻の友達の同伴者たちはみな、僕も含めて、微妙な距離感で苦笑いしながらそれを見ていた。数人の子どもたちも、緊張した面持ちで指を咥えたり、積み木を床の上で滑らせたりしている。大きな犬が黒い豆粒のような黒目を鈍く光らせながら、暖炉の前で佇んでいた。つまり、みんな与えられた立場を守り抜いているということだ。
 アル中の男がどいつなのか、僕にはすぐにわかった。
「よ、ようこそ」
 それは別荘の持ち主である一家の主だった。
「お会いできて、こ、光栄です」
「こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」
 握手すると、彼の手はじっとりと汗ばんでいた。手の平は真っ白なのに、手の甲は赤黒く変色している。
「大変すてきな別荘ですね」
「な、何もないところですが、どうかごゆ、ごゆっくりと」
 彼はそう言いながら僕に細長いグラスを持たせて、かすかに緑がかった粟立つ液体を注いだ。
「乾杯」
 マスカット・ジュースだった。

 彼の妻の手料理は美味しかった――そう、ここにビールがないことを膝を付いて悔しがりたくなるほどに。柔らかい牛肉はほどよくレアだし、大葉やえりんぎなどの野菜を中心としたてんぷらは、あっさりとして上品だった。子どもたち用に作られたから揚げやポテトも、カレー塩やタルタルソースに和えられていて、まるでビールのために作られているようにしか思えなかった。
「実に美味しいですね」
「良い奥様ですね」
 男衆が彼の妻を褒めちぎると、彼は首を傾けながら謙遜した。
「そ、そんなことよりも、みなさん、わたしのせいで、お、お酒が用意できなくてすみません」
 彼は震える手を突き出しながらそう言った。
「もう随分、な、長い間飲んでいないのですが、ま、まだ医者にも妻にもストップされていて」
「お気になさらないでください」
 子どもを連れてきた男が、オレンジジュースのグラスを掲げながら言った。
「わたしも今日は休肝日にします」
「いやはや、も、申し訳ない」
 我々は大いに食べた。初対面にしては打ち解けたのだと思う。別荘は豪奢で解放的。子どもたちも案外大人しく遊んでいるし、何より普段うるさい妻たちがにこにこしていることを、みんな喜んでいるようだった。
「あ、あんなに楽しそうな妻は、はじめてです」
「うちもです」
「うちも」
 僕たちはそう言い合って笑う。
「そ、そうだ。ひ、ひとつどうです」
 主人はそう言って奥に引っ込むと、女たちに見えないように大きな瓶を携えて帰ってきた。すぐに手で押さえながら栓を抜く。
「ビールじゃないですか」
「止められているんでしょう?」
「い、いや、ここを見てください」
 主人の指差したところには、「ALC.0.00%」という文字があった。
「なんだ」
「じ、じつは、これも止められているんです。ビールの味が恋しくなるからって。でも今日くらいは良いでしょう」
 彼はそう言いながら瓶を傾けて、グラスに黄金色を満たしていった。
「男たちの秘密に、乾杯」
 僕は――そう、たまらなくうれしかった。こんなものでも、ビールはビールだから。
「はあ、初めて飲みましたが、なかなかのものですね」と、僕はグラスを空にして言った。「アルコールが入っていないだなんて信じられません」
「飲料メーカーのたゆまぬ努力の結晶ですな」
 男たちは口々にそう言いながら、ちびちびとノンアルコール・ビールを舐める。
「じ、じつに、良い飲みっぷりですね」
「はあ、すみません」
 僕の胃袋はやはり、ノンアルコール・ビールも黒い渦に引きずり込んでしまうみたいだった。主人は僕のグラスに二杯目のビールを注ぐ。
「ああ、な、懐かしい」
 彼はそう言いながら、遠い故郷の美しい思い出に浸るように、目を閉じながらビールを口に運んだ。
「う、うるさい犬だな」
 大きな犬が、主人に向かって小さく唸っていた。主人はビールを持っていないほうの手で犬をソファから遠ざけるように押しやっていたけれど、やがて犬は吠え始めた。女たちがこちらを見る。
「こ、こんなときだけ忠犬ぶりやがって」
 彼はそう言いながら、瓶を持ったまま庭に出て行く。犬が追いかけて行った。
「誰か見に行ったほうが良いかもしれませんね」
「そうですね。では、わたしが行きます」
 僕はそう言って――無意識のままグラスを携えて――彼のことを追いかけて行った。

 彼は、犬にまとわりつかれながら、ノンアルコール・ビールを飲んでいた。瓶の首をしっかりと握り締めるその様は、まさにアルコールに取り憑かれた人間の姿だった。
「大丈夫ですか」
「こいつは、ま、前からこうやって、僕の邪魔ばかりするんです」
 犬は黒目だけで、狂ったように彼に向かって吠えている。白くねばねばしたよだれを口の端からよだれを垂らしている。彼のことを気遣って咎めているうちに、我を失ってしまっているのだろうか。
「あ、あっちへ行け!」
 犬が牙を剥いたので、思わず僕は後じさる。
 犬は短く小さく吠えたあと、彼に飛びかかった。
「こ、この」
 男の手から瓶が滑り落ちて、硬い地面にぶつかって割れた。ああ、と嘆く聞こえたが、それは僕の声だったのかもしれない。犬は、地面の上で水溜りになったノンアルコール・ビールを舐めていた。
「こいつめ」
 彼は目を血走らせていた。中毒症状が出たときはこんなだったかもしれない。庭の脇にあったスコップを振りかざすと、思い切り犬の頭に振り下ろした。僕は思わず目をつむったが、何かがつぶれる鈍い音が聞こえた。犬は、「おえ」という獣とは思えない野太い声を喉から絞り出して息絶えた。
「前から目障りだったんだ」
 彼はそう言うと、スリッパを履いた足で犬の腹を蹴り、まだグラスの底に残っていたノンアルコール・ビールを飲み干した。
「ほら、何ぼけっとしてるんですか。手伝ってください」

 僕たちは犬を、すぐそばの湖まで運んだ。仰向けにした犬の手を彼が、脚を僕が持った。人間を運んでいるみたいだ。
「犬のくせに、わたしを見下していたんです。わたしがこっそり酒を飲もうとすると、咎めるように吠えてかかってきた」
 犬の股の周りは湿っていた。黄色がかった液体が、背中の毛から伝っていた。アンモニアの臭いがするような気がしたが、ノンアルコール・ビールかもしれない。
「犬のくせに」
 湖に着くと、我々は桟橋の先から犬をせーので放り投げた。一度犬が浮かび上がって、こちらに向かって流れてきたけど、彼がスコップでつついて遠ざけると、やがてわずかに泡立ちながら沈んでいった。
「こいつといると、情けない気持ちになったんです。わかるでしょう?」
 わかりますよね、と彼が僕に大きな声でもう一度尋ねたので、僕はわかるような気がします、と答えた。
「湖に落ちたボールを追いかけていって見えなくなったということにしましょう。良いですね?」
 彼の目は、さっきまでの泥団子のような色ではなく、綺麗な白だった。ただ、それを覆うように赤い脈が血走っていた。げっぷをすると、ビールの臭いが鼻をかすめた。
「案外美味いもんですね」
「え?」
「ノンアルコール・ビールですよ。そう思いませんでしたか?」
「ああ」
「あなたもビールに目がありませんよね。いつまでグラスを持ってるんですか?」
 僕のジャケットのポケットからは、泡のこびりついたグラスが飛び出していた。彼はそれを取り上げると、指で泡をかき集めて舐めた。
「酔えるものですね」
 湖は霧がかって、水面が果てしなく向こうまで続いているように見えた。犬の沈んでいったあたりにあったはずの泡はもう消えていて、波は鈍色にたゆたっていた。何の音もしなかった。
「あなたは?」
「ええ?」
「酔ってますか?」
「ええと」
「どっちですか?」
 彼はグラスを湖に向かって放り投げた。とぷん、と鈍い音がして、グラスは沈んでいった。泡は立たない。
「酔ってるんでしょう?顔がゆるんでますよ」
 僕が言いよどんでいると、彼は大きな声で、「酔っていると言え!」と叫んだ。木々がざわめき、僕の全身の毛が逆立つのがわかった。短い風が吹いたみたいだった。

「何を話してたの?」と、帰りの車の中で妻が僕に尋ねた。
「妻の悪口だよ」
「そうじゃなくて」
 犬を連れて湖に行ってたんでしょう?犬がいないんだけど、ってメールが着てるの。
「知らないよ」
 あんまり覚えてないんだと言うと、変ね、と妻は言った。
「そんなことより、運転を代わってくれないか。頭が痛くて変になりそうなんだ」
 僕は吐きそうだった。車は停まっていて、外の風景の方が動いている。僕と妻は車ごとどんどん後ろに追いやられていって、逆巻く暗い渦の中心に向かって吸い込まれていく。
「何言ってるのよ、わたしは免許を持って――」
 急ブレーキの音が遠くから聞こえた後、我が家のゴルフは道路の脇の電柱にぶつかって止まった。エアバッグにアッパーカットを食らって脳震盪を起こしたのか、僕はすぐにゲロまみれになっていた。まだぶつかった瞬間の衝撃で身体が浮いている最中に、今までに食べた料理や飲み物が逆流するのがわかった。

 ふと目を醒ますと、そこに妻はいなかった。
 最初から妻なんていなかったみたいだと思いながら、車の外に這い出すと、げっぷが出た。ビールの臭いがする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?