テキストヘッダ

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「…渚でしたね」
「はい?」
 ほんの三十分前くらいに聞いたメロディのことだ。何を喋るかプレイ中もずっと考えていて、ようやく切り出した話題だった。吸い込まれるような沈黙だった。沈黙とはこういうものだったな、と思い出すような感じだった。彼女のiPhoneからBluetoothのスピーカーでオルゴールの曲を流す直前のほんの一瞬、ドラムとギターのリフの音が聞こえたのだ。
「ああ」
 好きなんです、スピッツ。そう言いながら、女の子は躊躇なくスカートを脱いでパンツ一丁になった後、シャワーどうぞ、と言った。あ、女の子は入らないんだ、そういうものなんだ。自分がこの三十分の間に取った行動を一つずつ振り返って、なんとも言えない気分になった。

 ファミレスに着くともうそこにはサカイが座っていて、スマホを眺めながら一人でメロンソーダを飲んでいた。なんとなく、道端で顔を合わせることはないように、ほんの少し早めに出てきたつもりだった。サカイは太陽の光がもろに当たる席に座っていた。毛量の多さで、逆光の中でもサカイだとわかった。
 席に座ると、サカイがストローを口から離した。
「どうだった」
 まあまあ、と言いながらベルを鳴らして店員を呼ぶ。ドリンクバー一つ。え?何?ああ、単品で良いです。
 サカイと二人きりになると、あんまり予想していなかったのは何でだろう。りんごジュースのボタンを押しっぱなしにしながら考えていた。コップの六分目くらいで液体が止まっていることに、少し遅れて気づく。一度ボタンを押せば、一定量が注がれるタイプのドリンクバーだった。多分いろんなジュース混ぜ合わせて遊ぶ客がいるからだろう。りんごジュースは思ったよりも濁った汚い色で、機械についたラベルを見ると、青森県産100パーセントりんごジュース、オリジナル、と書かれていて、その辺のやすっぽいりんごジュースではないようだった。
「サカイ、早かったね」
「うん」
 ふふふ、と何故か僕の方が照れ笑いをしてしまう。オオノ遅くない?あいつ延長したんじゃないの。なんか俺の相手、スピッツ聴いてるすっごい普通の子で・・・
「オシイくん」と、サカイが唇をストローから離して僕の名前を呼んだ。
 メロンソーダは全く減っていないように見えた。サカイから、柔らかい石鹸の匂いがした。

 オオノは誰がどう見てもツヤツヤした顔でファミレスに入ってきた。うなじがわずかに湿っているのもすぐわかった。新しい顔のアンパンマンみたいだな、と思う。
「いやいや」
 オオノはサカイの隣に割り込むように座ると、僕と同じように話し始める前にベルを鳴らして店員を呼んだ。
「延長してしまいました」
 ドリンクバー一つ追加で。はい?あーはい、単品で大丈夫です、何も食べないっす。あ、でもなんか、ポテトとか。ポテトってセットになるんでしたっけ?あ、それならどっちも単品で大丈夫です。
「いやいや。ははは」
 オオノがアホでよかったのか悪かったのかわからなかった。
「どう、だった?」と、にやけ顔のオオノは僕に向かって言った。
 と、割って入るようにサカイが言う。
「とりあえず何かジュース汲んで来なよ」

 喋っただけだったんだ。どうしてもできなくて。怖くなっちゃった。
 パネルは二十一って書いてたけど、甘く見積もってギリギリ三十いってないくらいだと思うな。どうして良いかわかんなくて座ってたら、お兄さん若いね、どうせやる気ないんでしょってすぐ見抜かれちゃった。女の人ってそういうのわかるんだね。

 サカイは淀みなく、さっき僕に話したのとは違う話し方で、オオノに向かって話した。
 コップの中のメロンソーダはいつの間にかほとんど空になって、ゆるくなって丸まった氷だけになっていた。綺麗な、人工的な、緑色がコップの底を三日月型に縁取っているのが、外側からわかる。

 どうしてここで働いてるか聞いていいですか、って聞いたら、それ基本タブーだから聞いちゃダメだよ、って言ってたんだけど、お金もらっといてサービスせずに帰るのもなんだから特別ねって教えてくれた。でも別に深い理由なかった。シンプルに言ったらお金がほしいだけじゃん、みたいな。
 十代の頃から働いてて、その時から二十一歳で通してて、今もツタヤのカード更新する時とか、二十一って書きかけちゃうんだよねって言ってた。

 煙草吸うひと?
 吸わないけど、吸っても良いですよ。
 いや、でも匂いついちゃうよ?換気扇回らないんだよね、このホテル。
 別に大丈夫です。
 じゃあ、いっそ一本ぐらい吸ってみる?
 良いです。
 だよね。

 僕はつま先がむずむずしていた。ラブホのシャワールームが湿っていたのを思い出していた。僕が選んだのはその辺で一番安いラブホで、もうどうやっても取れない黄ばみというか、時間の残した染みみたいなものが、部屋のところどころに残っていた。毎日少しずつ、掃除しても取れない汚れや、掃除しきれなかった汚れが溜まっていって、それでもずっと誰かが代わる代わる初めて汚すみたいに汚し続けた結果、こうなっているのだ。
 あ、違った。サカイの話を聞きながら思い出した。シャワールームが湿っていたのは、ホテルに着いてすぐ、僕がシャワーを浴びたからだ。あれは誰かの残した水滴ではなくて、僕が残した水滴だ。
 そうやってちゃんと思い出してみたら、初めて入った時に、薄汚れてはいるけれど曇ったりはしていない鏡で自分の顔を眺めたことを思い出した。
 不思議なことに、記憶の中でそこに映っていたのはサカイだった。

 例えばこんな仕事してなかったとしても、私は全然違う風に何かに手を汚してたと思う。誰かいじめるとか、小さい額の万引きバレないようにし続けてるとか。そんな気がするんだよね。だからこれは最悪でもなんでもないよ。
 生まれた時に運の量、っていうか幸福というか、善いことというか、そういうのって決まってると思ってるんだよね。だからこういう仕事しようがしまいが私はこうなんだよ。多分だけど。

 さっきから丁寧な接客とは言えない店員がテーブルの上にポテトを置いた。ハインツのケチャップの小袋がついていた。オオノの前に置かれたそれを、サカイが取ってポテトの載った皿の端に出した。一番端に寄っていたポテトに少しだけ赤色がついて、それをサカイがつまんで食べた。

 めちゃめちゃ開き直ってるな、と思ったんだよね。
 お店に行って、パネルを指差してその人を選んで、二人きりでホテルに入った僕が言うことでもないかもしれないけど、めちゃめちゃ開き直ってるな、と思ったんだよ。
 僕も同じだな、と思った。めちゃめちゃ開き直ってるなって。

「オオノ、ポテト食べなよ」
 サカイが小さく言った。
 食べてよ、オオノ。サカイは泣いていた。

 オシイくんごめんね、とサカイが謝ったのを、自分のアパートでシャワーを浴びながら思い出した。ひたひたひたと、自分の身体の形を伝って水滴が床に落ちていく。
 もう随分日が長くなっていて、スリット窓から夕焼けの光が差していたので、電気をつけなかった。高校生の頃、土曜日に部活を終えた後、電気をつけずに風呂に入るのが好きだったことを思い出した。
 腿の付け根が、まだローションでわずかにぬめっていた。上の空だったのか、シャンプーをした後、リンスではなくもう一度シャンプーを手のひらの上に出してしまっていた。眼鏡を外していたので、手のひらを目のすぐ側に近づけて確認すると、光沢のある白い液体が手のくぼみに沿って柔らかく形を変えていたので、シャンプーとわかった。

 オシイくん、ごめんね。本当にごめんね。
 謝ることじゃないよ。
 オオノ、嫌かな?
 嫌とか、そういうことじゃないでしょ。
 気持ち悪いかな。
 
 気持ち悪くなんかないでしょ。そういうの、今時、別に珍しくもなんともないじゃん。
 あ、言わなければ良かったな、と思った時にはもう言葉が全部出切った後だった。
 サカイのメロンソーダが少しずつ水位を下げていくのを眺めながら、サカイの話を聞いた。

 恋人、いるんですか。
 いるよ。
 こういう仕事してるって、知ってるんですか。
 知らないよ。
 知らないんだ。
 言えるわけないじゃん。
 そうですよね。
 言っちゃおうかなと思うこと、あるけどね。

 ディズニーランド行った後とか、めちゃめちゃ高い焼肉食べた後とか、そういう時に、言っちゃおうかな、って思うんだって。写真見せてもらったんだけど、ほら、あの人、何だっけ、ルーキーズで先生役やってた…

「佐藤隆太?」

 そうそう、佐藤隆太、を優しくした感じの人だった。

 佐藤隆太は元から超優しそうじゃん、と僕は笑った。あれ以上に優しそうな人いるの?

「いるんだよ」

 確かに、こういう仕事やってるんだ、って言っても許してくれたりするかもな、って、僕も思ったんだよ。

 これまでと同じように二人と接することが出来るのかどうか、そしてそれが正しいことなのかわからなかった。三人で雑魚寝したこととか、海に行って泳いだこととか、色々、思い出した。手のひらが西日に照らされて光っていた。オオノもサカイも、多分今頃こうやってシャワーを頭から浴びてるんじゃないだろうか、と滴り落ちていく水滴を見て思った。
 曇りガラスを腕で拭いて顔を見たら、ちゃんと自分の顔が映っていた。

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