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ポーラベアーたちについて想うこと

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 私は夏が大好きで、夏木さんという人と結婚したくらいだ。だから私は配偶者のことを苗字の夏木さんと呼ぶ、下の名前がぱっと出てこないことすらある。
 一方夏木さんは夏が嫌いらしく、いつもはからりとした元気な人なのに、気温が三十度を超える頃になるとじとりとしたオーラをまとい出す。家に帰ってきた瞬間から彼は沼の底から掻き出された粘土の高い泥のようで、「ただいま」の声のトーンも低くなる。
 私は、夏木さんの声のトーンで夏の到来を知る。

「イツカちゃんと結婚するまで、俺は自分が夏が苦手なんて気がつかなかったんだ」

 元来無理をする性格らしく、夏木さんは外では気丈に振舞ってきたのだろう。スーツを脱ぎ、ユニクロのエアリズム上下姿で地面に寝そべる夏木さんの姿は、私にとっては「やられている」と言う他ないわけで、自然と話題は夏のことになる。「夏だから元気ないね」となり、「ごめんね、せめておいしい蕎麦でも食べに行こうか」とか「昨今のアイス業界の商品開発力は目覚しいね」となり、「昨日も首絞められる夢見たんだよね」とか「胃液が上がってくる感じがする」となり、「いやあ家でのんびりしていればいいよ」となる。

「どうしてこんなに暑くてじめじめしていて不快なのに夏が好きなの?」

 そう聞かれると自分でも上手く答えることが出来ない。じりじりする日差しの下に自分の身体を晒すことや、ぬるくなりつつある汗をかいた(これが重要)缶ビールを口に運ぶ瞬間がなんか良いじゃん感覚的に、という感じで私は答える。それから夏木さんには言わない、別に言っても良いけど言わないのは、苗字の変わった自分の名前を書くときに思わずうっとりしてしまうとかそういう感じで私は夏が好きだ。だから仕事から帰ってきた夏木さんがぐったりしていることについて別にもやもやしたりはしない。毎年、しぼむように夏が体温を下げていくのと平行して、夏木さんが「よし、土日に山登ろうよ、今までで一番でかいやつ」とか「ねえねえ、ヨ・ラ・テンゴが日本に来るんだよ、事後報告で申し訳ないけど、メルカリでチケット買ったから行こうね」とか言って少しずつ元気を取り戻していくのを眺めているだけである。ただ、

「イツカちゃんは、いつも平熱だから好きだ」

 と、よく夏場の夏木さんは思い出したように呟く。それはたいがい、夏木さんが遅く帰ってきて泥のように寝そべっているのを背中に私がご飯を作っているときで、きっと何か後ろめたい気持ちを表明しているのだろう、別に冬の元気なときだって私がご飯を作っている最中に読書したりゲームをしたりしているときには言わないくせに、脳みそが痺れて上手く働かないのであろうときだけそういう風に言うのが、私はあんまり好きではない。でも夏木さんは私が働かない分まで頑張って働いてくれているし、私が気づいていない苦労もたくさんしてくれているのだろうから文句を言ったりはしない。キッチンのクリーム色の壁を眺めながらちょっと色々考えているうちに、パスタが茹で上がったりアサリが口を開いたりするので、そこからはもう何も考えなくてよくなる。

 何も考えなくてよくなる。と考えながら、私は風呂に入る。
 湯船に浸かりながらゆっくりと腰をずらして頭を下げていくと、目のすぐ下に水面が来る。水面にかすかに煙る湯気を眺めていたら、湯沸かし器のパネルに表示された時間がちょうど「00 : 00」になっていた。こんな時間に風呂に入っているのは夏木さんが遅くまで働いているからで、私がこうして夏でもガス代を気にせず夏木さんは浸からない湯船に浸かれるのも夏木さんが頑張って働いているからだ。
 専業主婦という肩書きが自分に合っているのかどうか私にはよくわからない、こうして何か書くことによってお金を得ることがあるけれど、かと言ってそれも作家やライターと名がつく仕事である感じがしない。基本的にお金をもらえる書き仕事は、依頼主から言われた通りの文章を作るだけで、私にとって作家やライターというのはもっと「自分らしさ」みたいなものを売る仕事をしている人の肩書きだという感じがしているので、それを名乗ることは恐れ多いというより違うものだという意識がある。
 夏が大好きな私も、湯船に浸かり続けて汗をだくだくかいていると頭が朦朧としてくる。このままずっと風呂に浸かっていたらどうなるのか、それは私が死ぬまでみたいなレベルではなくて、死んでから百年とか千年みたいな単位で時間が過ぎたら、どのタイミングで私は腐って水に溶け出し、更にどのタイミングで私の溶け出した風呂の水が干からびるのだろうか。そもそも人間の身体というのは水に溶けるのだろうか、でも手塚治虫の漫画なんかで水ではないけど地表で死んだ獣の身体が溶けて骨の間から臓物を晒し更に骨だけになるまで分解されていくその時間経過をコマで割っているのを見たことがあるから、多分水にも溶けるのだろう。私は自分の平べったくなった胸やお腹が風呂場のオレンジ色に晒される頼りない肌色を眺めながら、その奥にある赤黒い臓物のことを思った。自分では自分のを見たことがないけど、それはスプラッタ映画なんかで見るみたいに赤黒いのだろうと思った。そんなようなことを考えているうちにやはりのぼせそうになって湯船を出る。のぼせそうになるくらいで湯船を出るということは、どれくらい夏が、暑いのが好きと言えるのだろうかと思いながら。 
 私はいつも、自分を何が生かしているのか、何がコントロールしているのかがわからない。夏が好きな理由もはっきりしないし、自分の身体の中身もわからないし、夏木さんのことはなんとなく好きだけれどどう好きなのかと聞かれると上手く答えることが出来ずいつも「顔」と答えて周りを鼻白ませる、結局それも鼻白ませているような気がするけれど本当にそうなのかわからないところがある、今身体に水滴がどれくらいついているのだろうと思いながらタオルで身体を拭き、意味もなく7辺りからカウントして0になった時に脱衣所から出る。

 風呂を上がると、夏木さんがカーペットに寝そべって、珍しくスマホを横に傾けていた。
「はははは」
 私が髪を乾かしながらかすかに聞こえていた声はやはり夏木さんの笑い声だった。私がコップに汲んだ水を飲んでいる間もずっと夏木さんはにやにやしていた。
「何見てるの」

 それはどこかの動物園の白くまの親子を捉えた動画だった。
 ごつごつとした岩場の上で、白くまたちは寝そべっている。白い毛むくじゃらの塊は三頭の白くまが寄り添ったもので、身体の小さな白くまのうちの一頭が大きな白くまにじゃれていた。画面の手前には低い策がめぐらされていて、更に手前は谷のように落ち込んでいた。落ちたりすることはないのだろうか。
 私が夏木さんの横に寝そべって画面を覗き込むと、夏木さんは「これは動きがなくてマニアックだから」と言って別の動画を見せてくれた。
 今度は大小二頭の白くまが浅いプールの波打ち際に佇んでいる。夏木さんはこの後何が起きるのか知っているらしく、ぷくくくと妙な音で喉を鳴らして笑った。大きい方の白くまが水しぶきを上げながらプールの中に入っていき、立ち上がって水面に身を投げた。更に大きな水しぶきが上がり、小さい方の白くまが水際を行ったり来たりした。
「お母さんが子どもに泳ぎ方を教えようとしてるんだよ」
 私の反応が薄いから夏木さんは解説を入れたのだろうか。確かに大きいほうの白くまはお腹を水面に晒して浮かぶか水底に背中を付けるかしていて、それは子どもの白くまを誘っているように見えなくもなかった。
「人間みたい」
「そう、人間みたいなの」
 夏木さんに誘われるように言った自分の言葉がイマイチ自分にも疑問だった、本当にこれは「人間みたい」なのだろうか?子ども白くまはせわしなくプールのへりを走り回り、それはつまり母親を中心とした円の周辺を回っているのだった。母親がプールを上がってくると子どもは巨大な身体に縋り付いた。それで母親の身体がやや茶色がかっていて、子どもの方は真っ白であることに気が付く。母親の身体は汚れている、と一瞬思い、成長するにつれて体毛の色が少し変わるのかもしれないと思いなおす。
「ほら、あくびしてる」
 ほんと人間みたいで面白くない?と夏木さんは言った。ほらイツカちゃんみたい。
 私は首の右の骨のうちの一本が生まれつき短く、慢性的な肩凝りを患っている。肩凝りというよりは肩から頬骨にかけてがすごく凝って、時々口を大きく開けて顎の凝りをほぐす。それでほぐれているのかどうかよくわからないのだけど、とにかくそうせずにはいられなくなるのだ。夏木さんはそれが面白いらしく、私がぼんやりテレビなんかを眺めながら口を開けていると、突然視界にフレームインしてきたり、口の中に指を突っ込んでにやにやしたりする。
「不思議だね」
 画面の中の母親の白くまはやはり子どもを誘い続けている。さっきまでの行動が泳ぎ方を教えるために子どもをプールに誘おうとしているということであれば、だが。
 私は夏木さんの太ももに手を這わせた。
「ねえ」
 うん、と言いながら夏木さんは少しだけ首を動かして、私に口付けした。生きている者同士でしか奏でられない音としか言いようのない音が短く聞こえた後、また夏木さんは画面の中に視線を戻した。夏木さんの顔を眺めていると夏木さんの表情はにやにやした笑顔と夏の泥をまとった顔のアイノコみたいな表情になっていて、それは、笑顔から泥に戻ったのか、泥から笑顔になりつつあるのか、そのどちらなのかが問題だという気がした。あの人は疲れているんだ、もっと早く気づくべきだったのか、それとももっと別の形で夏木さんが私に疲れていると教えてくれても良かったんじゃないか、その両方を行ったり来たりしている間に私は眠った。


北極海のノルウェー領の島に上陸したドイツのクルーズ客船の乗員1人が28日、ホッキョクグマに襲われ、クマはその場で射殺された。当局が翌29日、明らかにした。
ホッキョクグマに襲われたのは、ハパックロイド・クルーズ(Hapag-Lloyd Cruises)のブレーメン(MS Bremen)号で、観光ツアーに同行しスバルバル(Svalbard)諸島のスピッツベルゲン(Spitzbergen)島を訪れた40代の乗員。

男性は上陸直後にこのクマに襲われて頭部を負傷。搬送先のトロムソ(Tromso)病院によると、男性の命に別条はなく、容体は安定しているという。
警察幹部はAFPに対し、「ホッキョクグマは別の乗員によって射殺された」と明かした。

ハパックロイド・クルーズは、「正当防衛」だったと説明。同社は地元当局から停泊許可を得ているとしている。
また同社広報の話では、通常は「動物が接近すれば、直ちに上陸を中止している」として、「今回の出来事は誠に遺憾だ」と述べた。
ノルウェーでは1973年からホッキョクグマを保護。2015年の個体数調査によると、スバルバル諸島における生息数は約1000頭だという。

(翻訳編集: AFPBB News )


 嵐が雲を巻き込みながら東ではなく西の方へ去っていった日、私の住む街の空に再び夏の青が戻ってきた。それは天気予報を見て確認するまでもなく、今年一番暑い、少なくとも私が一番暑いと感じる夏だった。
 そして私と夏木さんは夕べから冷戦状態だった。夏木さんはあの日以来毎日のように白くまの動画をにやにやしながら眺めて、以前だったら映画や読書に割いていた時間を埋めていた。いつの間にかやたらと生態にも詳しくなっていて、どこどこ動物園のロロがどうとか、双子のミミとキキがどうみたいな話ばかりをしていた。
 冷戦の発端となったのはとてもくだらないことで書くのもためらわれる。でも一方で必要なことのようにも思える。深読みされたくないと敢えて断った上で書くと、夏木さんが「ホッキョクグマの父親は子育てをしないんだよ、親子でいるのは絶対に母子なんだ」と言ったことに対して私が「無責任だね」と返したことだ。それから夏木さんは「どうして人間の尺度を白くまに当てはめるんだよ」と鼻で笑い、私はそれに返す刀で「だって無責任じゃん」と言い返して、夏木さんは眉間に深い溝を作って押し黙った。
 いや、そうではないかもしれない。私と夏木さんの間にはやはり大きな隔たりがあって、それが白くまの話をきっかけに顕在化しただけなのかもしれなかった。それから幾つか不毛な議論と言っても仕方がない罵り合いをお互いにして、それから、

 私は寝室に閉じこもった。エアコンをかけず、嵐が通りすぎていくのをベッドの上で聞いていた。リビングの冷蔵庫に行くのが嫌で、ぬるくなったペットボトルの水を納屋から出して飲んで、冷たいのが飲みたいと思った。いつの間にか眠っていて、目を醒ますと嵐はもう止んでいて、シーツの左側に私の形の染みが出来ていた。私の形の染みはよく見るとただの一体的で平面的な染みではなく、島のように離れ離れになっていたり、標高線ごとに濃度が色分けされた染みだった。朝なのに暑く、嵐の後なのにセミの声がやかましく聞こえていた。

 リビングの扉を開けると、冷気が蒸し暑い廊下に流れ込んだ。廊下も暑すぎるし、部屋も涼しすぎた。
 夏木さんはリビングのソファの上で、お腹の上にスマホを置いたまま寝そべっていた。私はやはりまだ無性に腹が立っていて、敢えて大きな音を立てて冷蔵庫を開けて飲み物を出し、氷を荒っぽくコップにぶち込んでテレビのニュースをつけた。死刑囚が刑に処され、 台風は西へ去り、 汚職に手を染めた官僚が糾弾され、アメリカで火山が噴火していた。コップに口をつけてから、それが炭酸水であることに気づく。
 夏木さんは身じろぎひとつせず、じっと眠り続けていた。私の方がテレビがやかましく感じてしまって電源を消すと、窓の向こうからうっすらとしたセミの鳴き声が聞こえた後、エアコンのモーターの音だけが耳につくようになった。
「ねえ」
 声をかけても夏木さんは眠ったままだった。ソファの横に立って上から夏木さんを見下ろす。
「ねえ」
 言いたいことがあるならなんか言ってよ。そう言いながら夏木さんの身体に触れると、それは、びっくりするほど冷たかった。
 それは本当に氷を思わせるような冷たさで、私の身が縮こまると同時にその一瞬に私のこれから先の人生が全部凝縮される、それはつまり死も含めてということで、やはり夏木さんの死もそこには含まれており、そしてその冷たさは私たちの体温の差だった。ただの体温の差であると同時に、絶対的に私たちの間に横たわる距離のようなものだった。
 エアコンを止めて夏木さんに毛布をかける。頭までかけた。毛布は緩やかに夏木さんを形作り、部屋はやけに静かになった。

 私たちは多分すぐに仲直りをするだろう。今年三十二歳になる夏木さんはそのうち白くまに飽き、少なくとも日常的に動画を漁ったりすることはやめるだろう。夏はこれからどんどん暑くなり、百年後には四十度を超える地域が当たり前になるらしい。動物園の白くまは年をとり、子どもの白くまは成長して身体が大きくなるにつれて薄茶けていく。
 ふと、手の中の炭酸水に浮かぶ氷が、ぱきんと音を立てた。

 面倒な人間だと、わがままな人間だとわかっているけど、夏木さんにはどうしてもそんな簡単に動物園の白くまをかわいいとか人間みたいだなんて思ってほしくないんだ、と言って私は、自分でも思ってもないくらい大きな声で泣いた。夏木さんはわかった、ごめんねと言いながら私の頭を撫でた。その手のひらが熱くてそれが余計に悲しくて、私はさらに大きな声で泣いた。

 二人で汗をかいて眠った。ベッドの上にはやはり二つの染みが残っていて、どこか遠くの海に浮かぶ氷の島のようだと思った。

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