テキストヘッダ

ロスト・バゲージ

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURRHJieEFDazZyUFk

 成田空港の荷物受取所に着くと、僕のスーツケースの横に寄り添うようにして、妻のスーツケースが流れてきた。
 妻のスーツケースは赤い。これ以上ないというくらい恐ろしく赤い。猿の尻より赤い。僕の黒いスーツケースと色違いだ。そして僕とおそろいのバンダナが付いている。新婚旅行でラスベガスに行ったときに買った、バカみたいに派手なネバダ州の地図が書いてあるバンダナだ。そんなだから、誰にも取り違えられたりしたことはない。間違いなく妻のスーツケースだということが一目でわかる。

 問題は、肝心の妻自身がいないということだった。

 妻の携帯電話にかけると、おなじみの機械音声が流れてくる。電話帳を呼び出してスマートフォンを耳に当てた瞬間、その機械音声が流れてくる予感がある。
「お客様のおかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない・・・」
 しばらくの間荷物受取所でとりとめもなく待ってみたが、別の便が到着したらしく、その便の乗客や荷物が流れ込んできた。妻は来ないし、どこにもいなかった。

 僕はとりあえず二つのスーツケースを両手に持って転がしながら、広いターミナルを歩いた。スーツケースを二つも引きずって歩いている人間はいない。陸上競技場で、でたらめにトラックを引いているみたいだ。
 まずは破裂しそうになっている膀胱を宥めるため、トイレに向かう。トイレの狭い入り口に、二つのスーツケースを無理やり引きずり込む。
 放尿しながら、とにかく時差でぼんやりとした頭を目覚めさせることが先決だと思った。コーヒーを飲もう。そういえば空港に着いたらすぐ、ターミナル内のコーヒーショップでコーヒーを飲むと決めていたのだった。

 エチオピアかガテマラをお選びください、と店員に言われる。店員はにこやかに、二つの味の違いを簡単に説明する。機械のように洗練された説明だった。
「コーヒーの名前に、国名を付けるのやめてほしいわよね」と妻はよく言っていた。
「西洋人のために豆を栽培する、黒人奴隷たちのことを思い浮かべてしまうから」
 僕は熱いガテマラコーヒーを飲むと、確かに黒人たちが指先でコーヒー豆を積む姿が浮かぶ。彼らはコーヒーの香りを楽しむ余裕なんてなくて、こうして見知らぬ他国の人間のために機械的に指を動かす。きっとエチオピアでエチオピアコーヒーを摘む奴隷たちは、その香りがブラジルやケニアとどう違うかなんて知る由もないのだろう。目の前の豆を黙々と摘んでいくだけだ。
 そして僕だって、これが本当にガテマラコーヒーなのかなんて全くわからない。仮にさっきの店員が、「大変申し訳ございません、お飲みいただいているコーヒーは、ガテマラではなくエチオピアでした」と言われたところで、気恥ずかしさ以外の何の感情も浮かばないだろう。

 飛行機に乗ったとき、隣に妻がいたかどうかがどうしても思い出せない。「飛行機に妻と一緒に乗ったかどうか思い出せない」だなんて誰が聞いても笑うだろうけど、ヨーロッパからの約十二時間のフライトを経験してから言って欲しい、と約十二時間のフライト直後の僕は思う。人生における飛行機内の時間というのは、僕にとって仮死状態に近い。本も音楽も映画も、まともに楽しめたためしがないのだ。
 ルフトハンザ航空機の中は狭く、息苦しかった。時差のせいなのか、僕がまどろみの間に見やる窓の外はいつも漆黒の闇だった。機内はいつも薄いオレンジの光に満たされていて、ノイズのような埃が舞っていた。空調が効き過ぎているのか、泥の中にいるみたいに蒸し暑い。
 通路を挟んで隣の席に座っていた中年の白人男性も、途切れ途切れに短いうめき声を漏らしていた。僕はそのうめき声があがるたびに目を覚ましていたのだ。あまりに苦しそうなものだから、起きている方が良いのではないかと思うくらいだった。

「収容所の中ってこんな感じだったのかしら」
 妻がそう言っていたのをはっと思い出す。シートの上で毛布にくるまり、薄目を開けた妻がそう言ったのだ。
 僕は妻のその一言がとても軽薄だと思ったのだった。そういう歴史上の重大な過ちに対しての彼女の倫理観に対する違和感というよりは、その軽薄さに呆れた。彼女には、そうして口を滑らせることがままあった。仮にそういうことが想起されたとしても、それは言うべきではないことだ、と。
 と、いうことは、僕は妻と一緒に飛行機に乗っていたことになる。

 もう一度電話をかけてみる。が、また電子音声が流れる予感がよぎり、やはり間も無く電子音声が流れてくる。
「お客様の・・・」

「すみません」
 猿顏の男性空港職員は、座ったままで僕の話に耳を傾ける。その制服は空軍の兵士のように見えないこともない。
「つい30分ほど前に着いた航空機を降りてから、連れ合いとはぐれてしまったのですが。携帯電話も充電が切れてしまっているみたいで」
「それでは、本ターミナル内に放送をおかけいたします」
「いえ、まずは搭乗者の中に自分の妻がいたかどうかが知りたいのですが」
 空港職員は怪訝な顔をした。
「と、言いますと?」
「別の便に乗り違えてしまった可能性があって」
「・・・お名前は?」
 僕が妻の名前をカタカナで書いて渡すと、男性職員はメモを見ながら少々お待ちくださいと言って奥に引っ込んでしまった。
 ターミナルには人が溢れていた。ベンチで仰向けになって眠っている人が、フライトに向かうのであろうキャビンアテンダントが、綺麗とは言えない格好の黒人のバックパッカーが、早口に聞こえる中国語で喋っているアジア人が、抱き合っている白人同士のカップルが、いた。
 これらの人々がみな、どこかからどこかへ点を線で繋ぐようにして移動している、移動しようとしていることに違和感を覚えた。点は線となり、必ずどこかの点に結ばれるのだ。
 でも、妻のように突然どこかに消えてしまうようなことがあったとしても、それは決しておかしなことではないのではないだろうか?むしろ、こんなに多くの人々が洩れなく、とんでもなく長い線を結んでいるということの方が奇跡なのではないか?

「お連れ様のお名前は、搭乗者リストの中にはございませんでした」
 職員は怪訝そうな顔を押し殺し、無表情を装っている。妻の名前が書かれたメモを、僕に返した。
「お手数をおかけいたしました」
 背中に視線を感じながら、二つのスーツケースを引きずって、足早に去る。手の中でメモがくしゃくしゃになるのを感じる。

 カタカナで書かれた、妻の名前を見ながらまた思い出す。
「飛行機はこれから、不安定な気流の中を通過いたします。機体が大きく揺れることがございますが、ご安心ください」
 キャビンアテンダントがそう言った瞬間に、機体が大きく跳ね上がった。
 近くにいた乗客が驚いた声を上げたその時に、僕も思わず妻の手を握りしめた。妻は眠っているのか眠っていないのか判然としない様子だった。握りしめた手に、力はこもっていなかった。
 バスターミナル近くのベンチに座って風を浴びていると、ようやく頭の中がクリアになってくる。
 妻があの便に乗っていなかったとしたら、あの時手を握りしめたのは、誰の手だったのだろうか?
 自分が驚いたが故に握りしめた手だったのか、妻が不安がるだろうと思って握りしめた手だったのか、それが思い出せない。
 寝苦しそうな隣席の男性が目覚めることはなかった。相変わらず寝苦しそうにしているだけだ。

 夜は冷えていく。
 妻が突然消えてしまったのだとしたら、それは僕のせいだろうな、と思う。
「結婚は思い切りだよ」と、自分がまだ結婚していない友達に向かって話す声が思い出される。
「この人を愛する、と決めることがいちばん大事」
 それが正しいことのように真剣に思っていたのだけど、妻はそんな風に愛されることを願っていなかったかもしれない。もっと自然で、純粋な愛を求めていたのかもしれない。そして自分自身も、そうあるべきだと、そういう風に誰かを愛したいと気づいてしまっていたのかもしれない。
 僕の胸の中には喪失感も悲しみもなくて、ただ突然妻が消えてしまったことに対する違和感みたいなものしかなかった。はっきり言って、それは今まで妻がいたことに対する違和感と言い換えてしまってもおかしくないものだった。
 僕は二つのスーツケースを並べて眺めた。
 黒い僕のスーツケースの中には、僕の服や下着が入っている。ホテルで読むために買っていった分厚い本と眼鏡、それからタブレット型のパソコン。あとは旅先で買った土産。
 赤いスーツケースの中に入っているものを思い浮かべようとしたけど、だめだった。どんなものが入っているのか、予想はできてもイメージができない。
 僕は妻がどんな服を着ていたのか、どんな下着をつけて夜どんな格好で寝てどんな風に空いた時間を潰していたのか全く知らないのだった。

 僕はシャトルバスに乗って、東京駅へと向かう。
 窓の外はまだ夜だったけど、飛行中のジェット機の中とは違って、明るい光が流れていった。高速道路の、強い光だった。
 バスに乗り込む前に、二つのスーツケースをバスのトランクに預けてしまうと、少し心が軽くなった。
 バスを降りると、僕は決めていた通り、自分のスーツケースだけを引き取って、足早に去った。足取りは軽く、誰にも気付かれることはなかった。駅の構内から振り返った時に、馬鹿みたいな色のバンダナが把手についた赤いスーツケースが、アスファルトの地面の上にぽつんと置かれているのが見えた。

 山手線に乗り込む瞬間に、自分の手元にあるスーツケースが自分のものではないことに気がついた。バンダナがついてはいるけど、それは阿呆みたいな幼児向けのキャラクターが描かれているもので、僕のものではなかった。自分でもどうして気がつかなかったのだろうと思うくらい明らかに違うスーツケースで、持ち手の感触も重さも違った。なんなら黒ではなく濃紺のスーツケースだった。
 途中、僕のスーツケースとよく似たスーツケースを引きずって歩く人々をたくさん見た。
 スーツケースなんて、どれも同じようなものだ。見た目や機能が同じなのは当然で、中身だって大体のものは同じだ。着替えと歯ブラシと眼鏡ケースと充電器と・・・。
 全てのスーツケースはニアリーイコールだ。全てのスーツケースは中身とともに代替可能で、ほんのちょっとした光の角度と、僕の心持ちひとつで、それが自分のものだったり他人のものだったりに見えるだけだ。

 馬鹿らしい。

 バスターミナルに戻ると、ぽつんと一つ、黒いスーツケースが残されていた。
 夜の闇の中で、光に照らされているそれに近づく。妻のスーツケースはどこに消えたのだろう?
 ゆっくりと近づいていくと、光に反射するそのスーツケースの色が、黒から鈍い赤に変わっていった。

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