テキストヘッダ

OUR ONE WEEK/水曜日

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水曜日

■エリコ
 朝から電話が鳴り止みませんでした。
「もう少し早く告知出さないと全然意味ないと思うんですけど。今さら授業あるって言われたって、完全に遅刻じゃないですか」
 すみませんとわたしが謝ると、彼女はいやそこは申し訳ございませんでしょ、と。
「キャリア指導部からダメ出しくらいますよ、そんなんだと」
 わたしは言われた通りちゃんと、申し訳ございません、欠席の扱い等は後日こちらから一斉周知致します、と言ってから電話を切りました。

 それは学生からの電話でした。学生は名前を名乗りませんでしたが、ディスプレイに携帯の番号が表示されていたので、簡単に誰なのか調べられるな、と思いました。教学事務の人間は、顔写真付きの学生プロフィール一覧へのアクセス権がありますから。
 まあ、そんなの調べれば余計気持ちが沈むので、調べませんけど。

 爆弾騒ぎのせいで、その日はずっとこういう電話が鳴り止みませんでした。授業はあるんですか?欠席の扱いはどうなるんですか?補講期間はいつになりますか?
 その日はいつも以上にどの声も、偏平で同じに聞こえました。

 昨日来た警察の方も、犯人がどんな学生だったか聞いてきましたが、そんなのわたしたちにわかるわけないじゃないですか。あの人たちが捕まえる犯人の数よりも遥かに、わたしたちが扱っている学生たちの数は多くて、いずれも犯罪者ほどの特徴はないんですから。こっちが犯人がどんな子なのか聞きたいくらいでしたよ。
 本当に警察って何も考えていないんだなと、その淀んだ目をした警察官の目を見て思いました。学生と同じ、異様に丸くて黒い、わたしたち職員を舐めている目に見えました。あの目は、全然対話相手のことを想像しようとしていない目です。わたしは知っています。

 午後になってようやく落ち着いたかなと思った頃、日本画の女子学生が泣きながら電話をかけてきました。
「オオヤマくんが犯人なんですよね?オオヤマくん、いつかこんな場所めちゃくちゃにしてやるって言ってたんです。ずっと前のことですけど」
 知らねえよ。
「申し訳ないですが、お答えできかねます。今回の騒動に関しては、今は各種報道と学生に配信されているメール及びインターネット上での発表をご覧ください」
「でも、オオヤマくんは本気だったと思うんです。少なくともあの時は、本当に誰でも良いから殺してやるって思ってたと思います。だから、きっと本当に爆弾がどこかにあるんじゃないかって思って、それで大学に行けなくて」
「爆弾は、警察の方々が存在しないと断言しています」
 ヒッヒッと、女子学生はわざとらしい声を上げて泣きました。
「欠席の扱い等は、後日こちらから一斉周知致します」と伝えると、彼女は素直に電話を切りました。

 噂によると、犯人である学生は、まだ爆弾がどこかにあると嘘をついているそうです。でも、警察のプロフェッショナルたちがちゃんと大学を隅から隅まで探して、安全を確認したということでした。
 当然、一向に爆弾は爆発せず、わたしの机の上の大量の資料は山積みにされたままでした。その日は晴れていて、窓から入る光がちりちりとわたしのデスクを焦がしていたのを覚えています。火柱が上がってわたしの資料や学生生活ガイドブックが舞い上がるイメージは、やはり夢だったんです。
 わたしのデスクの引き出しには、古くなったアトリエ棟の改修計画のための見積もりが置かれています。解体工事だけでも信じられないくらいのお金がかかりました。わたしが数年かかってようやく稼げるお金で、やっとアトリエ棟を壊すことが出来るのです。
 どうせなら、爆破してもらった方がいろいろと話が早くてよかったのではないかと思っていました。

 向かいのアツミちゃんのデスクは、椅子に薄手のカーディガンがかけられたまま空っぽでした。昨日から無断欠勤しているんです。正確には、月曜日からいなくなって、恋人も連絡が取れないのだと聞きました。
 デスクの上は、わたしと違ってとてもすっきりしています。資料の束は一つしか置かれていないファイリングボックスにまとまっていて、パソコンのケーブルもちゃんと束ねられています。
 逆さまになった透明のグラスが、籐のコースターの上に逆さまになって置かれていました。その横に、半分くらい残ったミネラルウォーターのボトルが置かれていて、わたしがキーボードを打つたび、その中の水がわずかにたゆたいました。
 そんなものを置くスペースは、わたしの机には全くありません。同じ仕事をしているのになんで?とよく笑ったものです。
 わたしがぼんやりとアツミちゃんのデスクを眺めていると、近くを通った上司が「いろんなことが重なって困るよね」と言いました。

 芸術大学というのは、わたしが通っていた一般大学とは、ちょっと違う感じの人たちが集まっています。いや、すみません、かなり違う人たちが。
 彼らは自分の意思で、自分のやりたいことを選んでいる。わたしみたいに、「潰しが利きそうだから」みたいな理由で教育学部を選んだりする人はいません。どうやって生きたら、高校生の時から「ずっと絵を描いて暮らしていこう」と思えるのだろう、とわたしは思います。
 それが、やたらと眩しく感じます。羨ましく感じます。疎ましく感じます。わたしとは違うのだ、と強く思います。
 抜け目のない学生が、にやにやしながら「先週忌引きだったんで」と言って欠席届を提出しに来ても、わたしは「たくましいなあ」とか「生きるのが上手だなあ」と思ってしまいます。
 こんな卑小なわたしなんかが、彼らの輝かしい未来やこの日々をくすませてしまってはいけないのだ。懸命に自分なりの生き方を選び、サバイバルを続けている彼らを邪魔してはいけないのだ。
 そう思いませんか?すごいな、と思いませんか?
 クレームの電話を切ってからも、自分が驚くほどあっさりと日々のルーチンワークに戻れるのは、そういう眩しさに堂々と目を瞑ってしまえるが故だと思います。
 わたしは、彼らに食われる草食動物でもありません。ただの環境の一部でしかないのです。ただ背景に徹して、息を殺すべきなのだと思っています。

 アツミちゃんとは、素直にそういう話ができる友達同士だったと思っています。同僚というよりは。
 なんかなんでも喋っちゃうんですよね。薄い皮一枚向こうからこっちを見てる感じがするんで、どうも正直に喋れちゃうというか。

 まあなんていうか、虚しい仕事ですよね。はっきり言って。卑屈な人間はやるべきではないと思います。
 大学の仕事って、繰り返しなんですよ。基本的には、毎年同じことを同じように回していく。年によって教育の質や内容が極端に変わってしまうのはまずいというのもありますし、きちんと計画を立てて、それを遂行していく必要がある。カリキュラムというのは入学時に決まっているので、最低でも四年間は簡単に変えることができません。
 学生の顔だけが激しく挿げ変わっていくんです。輝かしい未来へと、彼らは飛び立っていきます。建物と仕事の中身、そしてわたしたちのような職員たちだけが緩やかな時間の中に取り残されたままです。

「わかるわかる、エリちゃんの気持ち」
 アツミちゃんはそう言っていました。
「わたしなんてもうこの大学に八年もいるから、いつまでここにいるんだよって思うんだよね」
 もしかするとそういうサイクルから抜け出すことにしたのかもしれませんね。アツミちゃんは。

 アツミちゃんの机の端に置かれたグラスから、光が反射していました。更に、斜めに差した光が、ボトルの水がたゆたう光を、アツミちゃんの何もないデスクの上に映し出していました。
 わたしは、やっぱりなと思ったんです。
 アツミちゃんはわたしとは違う。あの人は、結局ちゃんと自分でこの大学を選んで卒業した人なんです。一時的にここで働いていただけで。ここで働くと決めたのも、きっとわたしなんかよりもずっと強い意志です。
 その日は、そんなモヤモヤした気持ちがまとわりついて、仕事に集中できませんでした。

 それで図書館に行って、こっそりアツミちゃんが卒業した年の卒業制作展の図録を見てみたんです。ずっと気になっていたけど、怖くて見ないようにしていたんです。
 アツミちゃんの作品は、巨大な水色の絵でした。
 安寧の海、と名付けられているその作品は、優秀賞を取っていました。

 何が安寧の海だよ。バカじゃねえの。ただ水色に塗っただけの絵じゃねえか。

 わたしの安寧は、このサイクルをひたすら回しながら生きて行くことなんです。こんな画面の中に安寧を作られてしまったら、わたしはずっとたどり着けないままだと思いました。
 わたしと同じように平然とした顔をして働いているあの顔の裏に、アツミちゃんがこんなに広い海を隠していただなんて、と思いました。
 アツミちゃんはこの海で泳ぐのでしょう。自分で作り出した海に出て、自由に泳ぎまわるのだと思います。
 勝手にやってろよ、バーカ。

 夕方アツミちゃんのデスクの脇を通った時、わざと三〇パーセント、わざとじゃない七〇パーセント、つまりほんの少しの祈りを込めてわざと手をグラスにぶつけました。
 グラスは、ごとりという音を立てて、広いデスクの上を転がっただけでした。
 再び席に戻ると、グラスの位置が変わったのか太陽が傾いたのか、机の上にたゆたっていた丸い光の海はなくなり、事務机の鈍い色があるだけでした。

 ふと日本画の女子学生の電話を思い出して、日本画の学生リストにアクセスして、「オオヤマ」という名前で検索してみました。「オオヤマ」という名前の日本画の学生は、一人しかいませんでした。オオヤマシンジ。
 見たこともない学生でした。色が白く、線の細い明らかに暗い感じの学生でした。
 確かに、爆弾作って誰にも見つからない場所に隠すような根性はなさそうだな。つまんねえガキだな。
 そう思ってまた、ルーチンワークに戻りました。
 アツミちゃんがいなくても、日々は続いていきます。

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