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迷子

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「迷子のお知らせをいたします――」


 東京駅は正月の帰省客でごった返している。
「ねえ、今の聞いた?」と、左手の妻が訊いた。湿っているのに冷たい手だった。
 若い駅員が「エスカレーター故障中」と書かれた看板を持って「迂回してください!」と叫んでいた。許しを請うような悲痛な叫び声だった。人々はそれを無視するように流れていく。迂回しようにも、迂回するためのスペースがない。沈む船に水が入ってくるみたいに、空いている場所を目指して流れていくだけだ。
「手を離したら二度と会えなくなるかもね」
「本当に」
 いつもこういう人混みの中にいると、「緩やかな死」という言葉が頭の中に浮かぶ。ここにいる無数の人々のいずれもが、緩やかに死に向かっているのだなと思う。それは別にまばらな人通りの中ですれ違う人々も同じことなのだけど。でもこれだけ多くの人がいると、もしかすると今日とか明日死ぬ人もいるやもしれない、と思うのだ。
「緩やかな死」
「え?」
「なんでもない」
 エスカレーターが壊れているので、僕たちは石棺のように重いスーツケースを抱えて階段でホームに上がらねばならなかった。地下から、光の差す地上に向かって歩いていく。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「さっきの迷子の放送」
「聞いてないよ」
「『横縞のシャツに、横縞のズボン。手には黄色いシャベルを持っている男の子です』だって」
 僕は母親とはぐれて泣き叫ぶ子どもの顔を思い浮かべる。
「まるで囚人みたいだね」
「そう。脱走しようとしてるの」
 はは、と笑い、息を吐きながら階段を登り切る。妻は無表情だった。

 東海道線19番ホームも人の海だった。キオスクの横の細い通路で、行き交う人と肩をこすり合わせながら指定席の車両に向かう。
 こんなにたくさんの人がいるのだから、迷子になるのも仕方ないだろう。ふと、自分がどこにいるのかわからなくなる気持ちがわかるような気がする。僕は妻の手をぎゅっと握る。妻もそれに答えるように握り返してくる。

「ここで待ってて」
「どこかに行くの?」
「あと三十分あるから、コーヒーを買ってくる。南側の改札口にスターバックスがあるから」
 妻は呆れたような目つきで、「わざわざそんなところまで行くの?」と言った。
 僕は答えずに、鞄から財布だけを出しながら、「ここで待っててね」と言って妻の手を離した。一向に温まらない冷たい手。歩きながら、妻の手の中を流れる冷たい血を思う。他人の血。


 南側改札に向かいながら深呼吸をし、頭の中を整理する。
 仙台から東京に向かう新幹線の中では、仕事が全く捗らなかった。
「あのね」と、横から呼びかけてくる妻の声を思い出す。
「父の調子が悪いの」
「知ってるよ」
「だから」
「だから?」
「あんまり心配させたくなくて」
「わかってるよ」
 彼女の父はかつて癌を患い、胃の一部を切除している。そして僕たちは不妊治療を受けている。色々なやり方で、お腹の中や、体液に含まれている成分を調べられている。僕はこうやって自分の身体の知りたくもないことも知って、多少無駄なダメージを受けたりしている気がするけど、君はどう?そんなこと聞かなくてもわかるから聞かないけど、もう立ち止まることはできないのだった。
 新幹線のとても速いスピードで流れていく景色を眺めている妻の頬の輪郭は、反射する光で少しぼやけている。郡山を過ぎるころには雪が消えて、街並みは見慣れた灰色の景色になり始めている。

 僕としても別に、スターバックスのコーヒーじゃないといけない理由はない。
 「そんなにこだわらなくてもいいじゃん」と言う妻の声がまた聞こえる。「本当にスターバックスのコーヒーじゃないと駄目なの?」
 二人分のスーツケースを携えたまま、今も一人ホームに並んでいる妻。南口の改札にスタバがあるからと言った僕を、少し呆れるような目つきで見ていた妻。新幹線の中で、久しぶりに二人で遠出するねとつぶやいた妻。かつては慣れていたはずの東京で、「人混みの瘴気にあてられそう」と言ってまぶたを押さえる妻。何だか似合わなくなったから、と気に入っていたセーターを処分する妻。さっきまで着ていたはずのカーディガンを手に持って診察室から出てくる妻。泣きながらパスタを茹でている妻。
 これから電車に乗って目的地へ向かう身動きの取れない三時間弱のことを思うと、コーヒーくらいは自分の好きなものを飲みたい、と僕は思う。

 「迷子のお知らせをします」と、またアナウンスが聞こえた。僕はさっきの囚人服の子どもが、無事に親と再会出来たか想像する。

 想像していた通り、スターバックスには長蛇の列ができている。
 緩やかな死。
 腕時計を見ると、新幹線の出発時間まであと二十分と少しある。間に合う、はず。仙台から持ってきたマフラーの中で汗が滲んでいた。東京は暖かい。そしてどこも過剰なほど暖房が効いている。毎年思うことではあるのだけど、未だに正解の服装がわからない。
「お待ちの間ご覧ください」と、メニューシートを持って先んじて注文を訊いて回る店員を手で制す。スターバックスでホットコーヒー以外の注文をしたことがない。
 先頭客は根元が黒くなった金髪を後ろでまとめている太った女で、足元にまとわりつく子どもを怒鳴っていた。どうせ手の込んだ甘い飲み物を注文しているのだろう。ラウンジのソファには、人差し指でスマートフォンの画面をつつく惚けた顔の親子が二人並んでいた。後ろから、ゆっくりとした英語で話す声が聞こえる。中国人と思しき男が、たどたどしい英語で店員に何か尋ねていた。何かが溢れた跡を、素早い動きで拭く清掃員の姿があった。
 僕はコートのポケットに手を入れて、細くて長いため息をフロアの上に放つ。スマートフォンは妻に預けてきた鞄の中なので、手持ち無沙汰だった。

「迷子のお知らせをいたします」と、またアナウンスが聞こえた。それにしても世間の親というのは、こんなにも子どもの手を離してしまうものなのだろうか?
 時間の流れの感覚がおかしくて、どれくらい時間が経ったのかよくわからない。
 僕は目をつむる。


「僕と結婚して良かった?」と問いかけると、暗闇の中から妻の声が聞こえる。
「良かったよ、楽しいよ」
 こういうときに「この時間が永遠に続けばいいのに」と思うのだな、と僕は思う。勃たなかった僕の股間に手を置いたまま、妻は思っていたよりもあっさりと眠りにつく。
 二人だけの生活は楽しかった。結婚してからもう七年も経つのに、僕たちは恋人同士のままだった。昼間二人とも一生懸命働いて、夜はお酒を飲んだ。レイトショーを見に行った。ラブホテルに行ったりなんかもした。週末には遠くまで美味しいものを食べに行ったり、山登りをした。長期の休みには、必ずどこか旅行に出かけた。
 ふにゃふにゃのままの股間は、時刻を指す気を失ってしまった時計の針みたいだと思った。時計が動かないからと言って、時の流れは止まっていない。こうして針の動きが止まってしまって初めて、この時間が永遠に続くわけではないのだということに気づいた。
 だから僕たちは子どもをつくるのだろうか。永遠に続くわけがないから、出来るだけ長く続くための装置が欲しい。破綻してしまっても、その間を繋ぎ止めてくれる糸が欲しい。僕たちだけでは徐々に摩耗していくだけだから、もっと強く時間の流れを感じさせてくれる存在が欲しい。

「僕と結婚なんてしないほうが良かった?」と問いかけると、赤い目で僕を睨みつける妻の姿が目に入った。
 こういうときに「この時間は永遠には続かない」と思うのだな、と僕は思う。多分僕たちは仲直りして、また抱き合うのだろう。そういう風に思いながら喧嘩する。それでも僕は主張を弛めない。
「なんとか言いなよ」
 僕はそうやって妻を壁際に追いやって、何か結論を言わせようとする。大人しい草食動物のような妻は、いつもそれに耐えている。
 僕は妻に何かを言わせたいのだ。そして何を言ったとしても、それを袈裟斬りにしてしまうことで、自分が優位に立てるように仕向けているのだ。そしてその優位な立場から、このチーズの塊がグレーターによって削れていくみたいな時間を自分のものにしてコントロールしてしまいたいのだ。
「そんなこと、ないよ」
「なに?」
「そんなことないよ」
「じゃあどうして、こんなことになるんだろうね」
 妻はついに目尻から涙を流す。肩を震わせて泣いている妻を見て、僕の股間は何故かがちがちに勃起している。
 僕たちは恋人同士のままだった。


 はっと目を覚ますと、まだスターバックスだった。
 緩やかな死は今も続いている。蔓延している。漂うようにそこにある。足に縋り付いて離れない。こんなにたくさん人がいる中で、どうして自我を失わずになんていられるのだろう。
 コーヒーなんて、本当に飲みたいのだろうか?
 太った母親の足元に縋り付く子どもを見ながら、枷、と僕は思った。
 枷。絡み合う僕と妻の枷。あらゆるところから集まってくる枷。東京駅で行き交う人々が絡ませ合う枷。大きなひとかたまりになる枷。
 にやにやした表情でスマートフォンの画面を眺める若者の枷。正月も働かねばならないスターバックスの店員の枷。新幹線の中で仕事をしなければならない僕の枷。その横に座っていなければならない妻の枷。突然病気になった妻の父親の枷。
「あなたは結婚して良かった?」という妻の声が聞こえた。「本当に子どもが欲しいと、あなたは思っているの?」
 暖かい飲み物を買い求める列は進むのに、足の甲に杭を打たれたみたいに動けない。
 そしてアナウンスが聞こえる。

「迷子のお知らせをいたします。赤いキャミソールに、ベージュのロングスカートを履いた女の子です。唇の脇と鎖骨に、小さなほくろがあります――」
「迷子のお知らせをいたします。相手のことを思いやることのできる、優しい男の子です」
「迷子のお知らせをいたします。ピンク色の肉塊です」


 若い店員が困った顔で僕を見ていた。
「ソイラテとコーヒーをホットで」と僕は注文する。

 るるるる、と新幹線の発車を告げるサイレンが鳴っていた。
 僕は舌打ちをしながら、指定席からだいぶ離れた車両に乗り込む。
 緩やかな死が、どこか遠くに向かって運ばれようとしている。すぐに指定席まで向かうのを諦める。頼む、お願いだから。

 ソイラテとコーヒーを両手に持ったまま窓の外の流れる景色を眺めていると、スーツケースを携えた妻の驚いた顔と目が合った。
 一度フェードアウトした妻を、窓に張り付いて探す。
 妻は笑っていた。呆れながら笑っているようにも、心の底からおかしがっているようにも見えた。やがて妻は小さな点になり、灰色の景色だけがそこに残った。それでも、しばらく緩やかな死がそこに見えた。

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