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Boat

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=0B7K8Qm2WWAURdWJjOGgwREtVclk

「ボートに乗りたいと言ったから」
「想像してたのと違う」
 湖は鈍い色にぬらりと光っている。泥の中を進んでいるみたいだ。彼女は泣いていた。僕は額に汗をかいていた。漕ぐのを止める。
「こんな、アホみたいな足漕ぎボートじゃなくて」
 彼女は天井を指差した。天井の上にはアヒルの頭があるのだ。微かに見える向こう岸にも、僕たちみたいなカップルがアヒルを漕いでいるのが見える。
「オールで漕ぐやつがよかったの」
 どうして機嫌を損ねてしまったのかがわからない。普段はこんなことで怒る女の子じゃないのだ。
「そんな、子どもみたいなこと言わないでくれよ」
 彼女は嗚咽を漏らした。もう限界なの、という主旨のことを彼女は言った。私と、あなたの私に対する認識の間には、大きなズレがある。それが日々少しずつ開いていく。それがたまたま、こうして楽しみにしていたボートデートに対する認識のズレで爆発しただけ。私はオールが漕ぎたかったの。なかなかまっすぐ進まないボートを二人で漕ぎながら、あははって笑いたかっただけなの。
 沈黙。たゆたう湖の音が聞こえる。変わった趣向だね、と言ったら皮肉に聞こえるだろうか。
 アホみたいな顔をして笑っているアヒルの上で喧嘩している自分たちの姿を想像したら、ちょっと笑いそうになった。

 と、突然そこに突風が吹いた。
「あ」
 アヒルがバランスを崩し、横倒しになる。気づいたら水の中だった。
 自分の吐いた泡で、水面がどちらかわからなくなった。湖とはいえ深い。彼女はどこだろう。
 目を凝らすと僕を導くような光の筋が見えた。そちらに向かって水を蹴る。

 水面に顔を出すと、夜だった。
 ぐるりと見渡すと、ちょうど真後ろにアヒルがいた。アヒルの上に彼女はいない。
 静かだった。水面が煙っている。

 アヒルが言った。
「時々、よくわからなくなるんです。水の上が現実なのか、水の下が現実なのか。我々は、常に境界の上にいるわけですから」
 そんなのどちらも現実なのではないですか、と言いかけて止める。何せ自分自身が、さっきとは違う水面にいるのだ。
「あなたは驚いているようですが、私からすれば、どうしてそんな無闇に、水面に上がればまた同じ風景がそこにあると信じられるのかがわからない」
 水は凍るように冷たかった。いつからこんなに冷たくなったのだろう。さっきまで汗ばむような気候だったのに。
「あなたと、あなたの恋人の話を聞いていましたが、同じことですよ。あなたは、あなた自身しか見えていないのではないでしょうか。あなたには、自分自身の認識がそのまま、この世界の実存と結びついていると思っている節がありませんか?」
 そうなのだろうか。そうだとしたら、僕は何を信じれば良いのだろう。
「おせっかいかもしれませんが、これは私からの助言のようなものです。今回あなたは、あのつまらない笹舟みたいなボートではなくて、私を選んでくれたわけですから、その御礼です。それと、よく言われるんですよ。カップルでこのボートに乗ると別れるとか。私のせいにされても困るんです。私には、私みたいなボートに乗りに来るカップルには、もっと別の共通項があるように思いますね」
 暗い水面に目を凝らすと、空が映りこんでいるのがわかった。その奥に、自分の脚が見えた。そうか。
「わかったら、おかえりなさい」
 息を吸い込んで境界をまたいだ。

 彼女には、ごめんねと素直に謝った。ううーんと、なんていうか、99パーセント僕が間違ってたってことだよね。
「100パーセントよ」
 ううーんそうか、ははは、と笑ったら、彼女も笑ってくれたので良しとした。

 今、僕らは割とうまくやっている。時々ぶつかることがあると、僕は可能な限り早く、「僕が100パーセント悪かったんだ」と言って謝るのだ。それだけで彼女は、怒りの世界からこちらに戻ってくるのだ。

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