エイリアンズ_demo_

エイリアンズ/7

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 勉強は嫌いではなかった。大学に入って専門の勉強をし始めてから、それを自覚した。学部二年生まではとにかく頭に色々な知識を詰め込んだ。西山夘三。51C型の新しい食寝分離生活。戦後復興における都市計画の在り方。
 暮らしが新しくなると、人間も文化も新しくなるのが面白かった。自分が辿ってきた道と、その結果として今ここにいる自分を照らし合わせて、答え合わせをしているみたいな感じがした。私は今、無意識のうちに人を動かしてしまうような、大きな力の源泉について学んでいるのかもしれない、という意識があった。こんな大きな、ある意味で暴力的なスクラップアンドビルドを経て、今のこの国は出来ている。
 じゃあ次は?次のスクラップは。ビルドは。どんな風にすればより良い生活が作れるのか?
 そんなことに自分が実際は関われないとしても、そういうことを想像するのが楽しかった。まっさらになってしまった土地に、にょきにょきと新しい建物を作り、それで人々の暮らしや意識をコントロールする。

 学部三年生になって取らなければならない単位をおおよそ取ってしまうと、突然梯子を外されたみたいに暇になった。建築の学生は、サークルなどに参加しつつインカレやOB会なんかで就職先を見つけてくるグループと、プレゼミ生となって真面目に研究をスタートさせつつ、資格取得等を目指すグループの二つに分かれていた。
 私は多分、後者に属していると思われていたはずだ。地味で大人しい、以外の印象を与えていようがないと自分でも思うし、進級制作の評価はそこそこ高かったので、実際にとある先生から誘いの声をかけてもらった。
 でも、いざその先生との面談で「何がしたいのか」と聞かれた際に、「住宅政策、特に集合住宅の研究がしたい」と正直に言ったら、未来ないで、と一蹴されてしまった。その先生は、大きな商業施設などの設計をしている先生だった。
 住宅政策系やったら隣の隣のXX研究室やな。あの先生はな、こっちの震災復興の時の都市計画やってはってん。厳しいやろうけど、本配属になったら頑張ってや。今まさに忙しいと思うで、ああいう大きな災害後の住環境調査は十年二十年のスケールでやらなあかん研究やから。でも正直、うちの大学は政策系弱いんよな。客観的に見て。たまたまあんなことが起きて、あの研究室も盛り上がってはいるけど。それ本気でやりたいんやったら大学入り直すか、卒業してから他所の大学の院入らんと。結局コネの世界やしね。食べて行けへんなるで。
 じゃあ地味で未来のない私の進級制作のどこを気に入ってくれたのか、という質問が浮かんだのは研究室の扉を閉めた後だった。例えば私の煮え切らないもぞもぞした態度とか、表情のない顔とか、何かしら彼をいらいらさせるところがあったのだろうと、今ならなんとなくわかるけど、当時は言われたことを思い出すだけで肌がふつふつ粟立つみたいな感覚が蘇った。
 件のXX研究室の先生は、それからほんの少し後で研究生へのパワハラが問題になって解雇処分された。被災先の実地調査などで学生達をこき使っていたらしく、当事者たちが集団で声をあげたらしい。長期に渡る調査もあって、授業に出ることが出来ず、留年してしまった学生もいるという話だった。確かに厳しい先生で、必修の単位だろうと不可者を多く出していたらしく、先生を恨んでいる人たちが学食で喜んでいるのを見た。
 私を誘ってくれた、結局その後私の本配属先になった先生は、その問題のことを知っていたのか知らなかったのか微妙な時期だな、と思った。別に気にするわけではないけど、とにかくあれは微妙な時期だったな、と思った。そして私は今、流されるままその研究室の院生になっている。

 大学院生にもなって、一人では生きていけないだなんて。私はそれがもどかしかった。
 ルームシェアを解消してから、自分はこうやって一人でぼちぼち生きて行くしかないのだろうという漠然とした失望があった。それはしぼんだ風船みたいな失望だった。一度膨らんでしまった分、ゴムがゆるゆるのくたくたになってしまっている失望。これからまた膨らむのかな、どうなのかな、と思いながら手に持ったままにしている失望。
 大きな団地の片隅にある部屋で一人で考え込んでいると、胸の中にもやもやとしたものが立ち込めた。
 私のやっていることは、今ある生活が壊れてしまうことを前提としたものなのではないか。ただの希望ではなく、絶望のその後にあるものなのではないか。あられもない願いを、私は抱いているのではないか。そんなあられもない願いを原動力にして、私は知識を吸収していたのではないか。
 私が暮らしていた故郷にはない、団地という奇妙な共同体が壊れた後の廃墟で、私は一人だった。


 運転してるときだけは機嫌ええやんな。

 恋人の声が脳に届くのは、少し時間がしてからだ。

 うん?
 運転してるときは機嫌ええやんな。
 そうやろうか。
 鼻歌歌ってるやん。

 カーラジオからはひと昔前に流行ったJーPOPが流れていた。視聴率の良かったドラマの主題歌になっていた曲で、そのドラマを一度も観たことはなかったが、中学生くらいの頃にそこかしこで流れていたので、だいたいのメロディやサビの歌詞を知っていた。

 ごめん。
 別に謝らんでも。

 あれ、これは何だか見たことのある情景の気がするな、と思う。自分と、これから?もう?別れた恋人の頭が並んでいるのが、ヘッドレスト越しに見える。バックミラーを見たが、後ろの席には誰も座っていない。
 普通に買い物に行くみたいだな、と思った。微妙に違う選択肢を選んでいたら、こういう差分もあったのかもしれない、みたいな。
 これから洗濯機と冷蔵庫を買いに行く。ついでに食器なども買えるように、少し遠くのショッピングモールへ。色々なものが売っているので、買い物が一度で済む、と思っていた。この人もそう思っているのかな、と思いながら、黄色信号を突っ切った。

 なんかもうようわからんの、きみのことが。
 搾り出すみたいに出てきたその言葉に、こんなドラマみたいな台詞、自分が言われるなんて思ってへんかった、と思ったままを言った。するとすぐに「好きじゃなくなった」と返事?が返ってきた。大学生のときはめっちゃ好きやったのに。働くようになって、一緒に暮らしてみて、私が変わったんか、きみが変わったんか、両方変わったんか。わからんけどなんか変わった、ほんまに微妙に変わっただけなんやろうけど。
 たった一週間前のことだ。
 もう彼女は新しく住む場所を決めてきていた。全然気づいていなかった。もうこの関係は続かないだろうな、とどこかで思っていたはずなのに。でもその分、あっさりと別れることになった。先細りしていくなあと思っていた、鉛筆みたいな生活が、まだ鉛筆として残ってはいるけどもう削れないから捨てる、みたいな感じだった。善は急げやから、もう明後日の土曜には家出ます、と彼女は言って、新しい家に荷物を少しずつ運んで行った。働きアリみたいやな、と言うと、善は急げ、関西人はせっかちやねんと言い、それからうちに荷物を取りに来るたびに同じことを言った。
 一緒に暮らしていたけど、家計は切り分けていて、家賃も何もかも折半だった。家具は一人暮らしをずっと続けていた僕のものを使っていた。ちょっとくらいお金出すよ、と言ったのだけど、それは悪いからほんまにいい、でも車だけ出して欲しい、と彼女は言った。そういうの得意やろ。ドライやん。彼女はそう言って笑った。憎まれ口ばかり言う人で、それも嫌いじゃなかったので気にならないつもりだったけど、まだそう言われたことを覚えていた。

 一人で住むにはちょっと広すぎるなあ。
 都会とは言え、行く場所は案外限られているし、ばったりどこかで会いそうだなあ。
 職場のそばに引っ越してしまうか、いっそこれを気に東京に転職しようかなあ。
 家族はそろそろよぼよぼだなあ。俺はいつか、あの街に帰るのかなあ。新しい家だから、自分の家感が薄いんだよなあ。
 そう思いながらもう半年くらい経っている。
 お互いのあったかもしれない未来を選択するために別れを選んだ、ということになっていたはずなのに、生活はただ何となく続いた。恋人がここにいるから、自分はここにいるのだ、と思っていたのに、ずっとこの土地に張り付いていた。ああただ人のせいにしていただけだったんだなあ、と気づいたのはかなり早い段階で、今思えば、それと同時に自分は開き直ってしまったのではないだろうか。

(next:https://note.mu/horsefromgourd/n/n127195a9daad)

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