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軍艦島の設計


「アパートの博物館」とも言われる軍艦島。大正から昭和30年代まで、様々な時代のアパートが混在しています。かつて一度はアパートぐらしをしたことがある人なら、どれか1棟は、自分の住んでいたアパートに似た建物を見つけられるはずです・・・。
私の場合は、幼い頃住んでいた「隼(はやぶさ)」と名付けられたアパートが、↑この昭和25年に建てられた2号棟に感じがよく似ています。隼棟も推定では同年代に建てられているはずです。


さて軍艦島の鉄筋コンクリート製の住居アパート群は左図の左側半分に集中していることがわかります。右側には「端島鉱業所の施設があったわけですが、実はこの住居AP群、「鉱員家族が生活する」という目的以外に、「右側鉱業所を東シナ海の波浪から守る防波堤の役割をする」という意味もあったわけです。

それでも、台風クラスの大波が押し寄せると、最も高い場所にあった3号棟を越えて、鉱業所側に落ちたということですので、そういう時の住人家族達の恐怖感はいかばかりであっただろうかと思います。

また複雑にかつ、芸術的に入り組んだ住居建築物群ですが、この「端島」という人工島そのものは、外国の著名な建築家などがデザインしたものではなく、三菱の名も無き炭鉱技師達が設計し造り上げてきたものなのです。

69号棟は端島病院
70号棟は小中学校
9階建ての65号棟の屋上にあるピンクの場所が幼稚園・保育園です。


しかし考えて欲しいのは、この人工島の下には、図のように最深部で1000m、最も離れた場所で3km近くに及ぶ地下坑道が網の目のように走っているということです。

想像を絶する地圧、噴出する海水や地下水、メタンガスや有害な一酸化炭素・・・・これらの劣悪な環境から鉱員達の命を守る坑道の設計と建設こそが、設計エンジニア達の血と汗の結晶だったわけです。

従って、強風や荒波が押し寄せるとは言え、地上に人工島を建設することは、彼らにとっては我々が考えるほど「無謀な」ことではなかったわけです・・。

さて、今回はその中で、69号端島病院と70号小中学校、及び幼稚園・保育園の位置に注目したいと思います。


↑これは幼稚園の窓から鉱業所側を見下ろした図です。遠くに写っている建物の横に第二竪坑やぐらが立っていました。
つまり、幼稚園からも小中学校からも鉱業所の敷地内が一望できます。端島の子ども達は、幼・小・中とずっと父親達の働く仕事場を見ながら育ってゆくわけです。

炭鉱での事故を知らせるサイレンが鳴り響くと、きっと皆いっせいに窓から鉱業所の方を心配しながら見つめていたことでしょう・・・。「自分の父親は大丈夫か・・・」と。


また炭鉱は何かと怪我や病気の多い場所でもあったようですが、病院に入院するようなことがあれば、病室からはすぐ間近に子ども達の遊び回るグランドがよく見えるわけです。きっとこの光景には随分と心癒されたことでしょう・・・。

端島の建物の配置は時代によって移動していますので、こういう配置が意図的に行われたのかどうかは知るよしもありませんが、住居群がほぼ全て岩盤を挟んで鉱業所から見えない位置にあったのに対し、前述の3つの建物がこの配置にあったのは、何かしら意図的なものがあったように思えてなりません。


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