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生きているのに、死んでるのと変わらない人がいる。死んでるのに、生きているのと変わらない人もいる。

今、生きている人を馬鹿にしたり、さげすむような意味ではない。
あくまで、「その人」にとって、の話だ。

つい、こないだの話。
母は、90過ぎという高齢で、昔の友達や知り合いは、けっこうなペースで亡くなっていく。
そして先日も、母の古い友人が亡くなった。
その女性は私も幼い頃からよく知っていた人で、大変敬虔なクリスチャンだった。
敬虔というよりも、極端な「物を持たない主義」の人だった。
息子が二人いて、下の子が私と友達だったので、住んでるアパートに遊びに行ったことがあるが、本当に家の中にはなんにもなかった。
子どもの学習机も畳の上に座って使うような質素なもので、家具と言えば同じく質素な箪笥があるだけで、その上に置かれた古い置時計のカチコチ言う音だけが響いているような、そんな室内だった。
後に聞いた話だが、カメラというものも持ったことがない。従って家族写真などもほとんどなく、持っている写真と言えば、他人から撮ってもらった数枚があるだけだということだった。
そう聞くと、長崎に多かった、聖人のような質素な暮らしをしたキリスト教徒を連想するかもしれないが、そうではない。
何というか、この現世、つまり家族を含めた他人や世の中のものごとに、愛着や敬意を持たない人だったというだけのこと。
暴君だった夫は、老境を迎えてしおれた植物のようになり、アパートから飛び降り自殺をして亡くなった。無惨な死だった。
二人の息子は、家には成長すると家を離れ、寄り付かなくなった。当然のことだろう。
その母の友人が(いや、正確には母が一方的に友達だと思い込んでいただけなのだろう)、亡くなった。
しかし、亡くなったという知らせを受けたのでも、人づてに聞いたわけでもなかった。
時々かけていた電話番号がある時、「使われていません」という通知音に変わり、「おかしい」と思って調べに調べて、ようやく施設で亡くなっていたとわかった次第だ。
母にしてみれば、半世紀以上前からの付き合いで、友だちだと思っていたのだから、何の知らせもなかったことに非常に違和感を持って、知らせてこなかった息子たちに対しても不信感を募らせていた。
しかし、息子たちにとってみれば無理もないことだろう。
自分たちの幼い頃を写真に残そうとすらしなかったような母の死を、わざわざ誰かに伝えようとは思わないだろう。いや、おそらく母の友人が誰であるかすら知らなかった可能性の方が高い。
私は、「どんな死に方をするかは、人の自由だから、責められない」と母を諭して帰ってきたが、後でその人のことをゆっくり考えてみた。


その人は、母にとって生きているのに、死んでるのと変わらない人にすぎなかったのだろう
清貧を貫き通した人かもしれないが、人の心に何かあたたかいものの一つも遺せないような人は、他者にとって、生きている時から死んでいるのと変わりない。

一方、今はもう亡くなってしまっている人でさえ、生きているも同然の人がいる。
時々その人の存在(言葉や行動)を思い出すと、心があたたかくなって勇気が湧いてくるような人だ。
そのような人は時や場所を越えて、心の中で生きている。つまり今現在、生きている人と変わりはないということなのだ。

そう考えると、私たちはせっかく一度きりの現生を旅しているのに、「生きているのに、死んでいるのと変わらない人たち」に、あまりにも囚われすぎている。

「すぐには会えないかもしれないが、今生きていて、自分の心の中で生きている人」「死んでるのに、生きているのと変わらない人々」を大事にする、そんな毎日を私たちは過ごしていくべきだろう。




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