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少女の日記としてではなく、一人の人格ある人間のものとして「アンネの日記 増補改訂版(文春文庫)」を読む ③ 性善説

一九四三年七月二十九日、木曜日……………..…………
親愛なるキティーヘ
ファン・ダーンのおばさんとデュッセルさん、それにわたしの二人で、お皿を洗っていました。
わたしが珍しくおとなしくしてるものですから、ふたりはさだめしおやっと思ったことでしょう。
そこで、うるさく詮索されるのを避けるため、急いで当たりさわりのない話題を探し、「向かい側に住むヘンリ』という本のことなら、目的にかなっていそうだと思いつきました。
ところがこれが大まちがい。ファン・ダーンのおばさんが噛みついてこないとなると、デユッセルさんが噛みついてくるんですから。
まあ聞いてくださぃ。じつをいうとこの本は、デユッセルさんが非常にいいとすすめてくれた本なんです。
でも、 マルゴーもわたしも、とうていそうは思えませんでした。
主人公の少年はなかなかうまく描かれていますけど、それ以外は……
そう、あまり詳しく触れないほうがいいでしょう。
お皿を洗いながら、そのような意味のことをちょっとしゃべったところ、それからがたいへん。ひどい目にあいました。
「あんたに男の心理なんかわかってたまるものか! 子供の心理なら、そうむずかしくはないだろうがね(!)。ああいう本を読むのには、まだ年が若すぎる。はたちの男だって、あの内容を把握することはむずかしいだろう」(だつたら、なぜマルゴーやわたしにすすめたのかしら?)
あとはまた、ファン・ダーンのおばさんまでがいっしょになって、悪口の言いたいほうだい。
「あんたは年に似あわないことをいろいろ知りすぎてますよ。親の教育が悪いのね。これじゃ先行きなにに出あっても、ぜんぜん楽しみを見いだせないでしょうよ。きっと、こんなことは二十年も前に本で読んだわ、なんて言いいだすにきまってます。結婚相手を見つけるんだとか、恋愛を楽しむとかするんだったら、早くしたほうがいいわね。さもないと何に出あっても、失望するばかりだから。あんたはもう理屈じゃ一人前、不足してるのは経験だけ!」
こう言われたときのわたしの気分、おわかりになりますか?
でもわれながら驚いたことに、わたしはけっこう冷静に言いかえしました。「おばさんたちはわたしの育てられかたが悪いと思ってらっしゃるかもしれないけど、それに賛成するひとは、ほとんどいないんじゃないかしら」 って。
どうやら、いい教育とかいうのは、しょっちゅうわたしを両親と衝突させようとすることみたい。
だってこの人たちのやってることって、いつもそれですもの。それともうひとつ、わたしぐらいの年齢の子供にたいしては、おとなの問題をぜったい話題にしないということ、これもすばらしい教育法です。
そういう教育法がどんな結果をもたらすか、その例は目の前に、それこそいやになるくらいはっきりと見せつけられてるじゃありませんか。
そうやってふたりがそこに立って、さんざんわたしをばかにしてるとき、もしもきっかけさえあったら、ふたりの頭を思いっきりひっぱたいていたかもしれません。すっかり頭にきてましたから。
いまはただ、こういうやからとは早く縁が切れるように、その日を指折り数えて待つばかりです(ああ、 いつまで待てばいいのか、それがわかりさえしたら)。
じっさい、ファン・ダーンのおばさんというのは、すばらしいひとです! 模範的なお手本を示してくれます……見習うべきです、反面教師として。
おばされがすごくでしゃばりで、わがままで、こすからくて、打算的で、欲深だということ、これは隠れもない事実です。
そのうえ、虚栄心が強くて、浮気なたちだとつけくわえてもいいでしょう。とにかく、たとえようもなく不愉快な人間であることは確かです。
おばさんについてなら、 一冊のノートを埋めつくすこともできるほど。
ひょっとすると、 いつかほんとうにそうするかもしれません。
どんなひとでも、うわべを飾ることくらいはできます。
おばさんも、知らないひと、とくに男性には親切ですから、短期間つきあっただけだと、うっかり思いちがいしかねないんですけど。
そこへゆくと、うちのママなんかはおばさんを、あんまり愚劣で、語るにあたいしないと見なしていますし、 マルゴーは、 つまらないひとだと思っています。ピムは(比喩的にも、字義どおりの意味でも)、醜悪だと考えていますし、わたしは、長らく観察を重ねた結果―――これでも最初から偏見を持つことはしたくありませんから――ファン・ダーンのおばさんというひとは、以上の三つを合わせたもの、 いえ、それよりもずっと、ずっと悪質であるという結論に達しました。
とにかく欠点だらけですから、 いまさらそのひとつをあげつらってみてもしようがありません。
                     じゃあまた、アンネより

増補新訂版 アンネの日記 P201~204

これは、ナチスのSSに連行される約一年前、アンネが14歳の時に書いた日記である。
これはアンネの日記であるから、当然アンネの価値観から綴られたものであることは当然である。
しかし、そのことをいくら差し引いても、少なくとも同居していた二人は、あまりにもアンネに対し、「一人の人格を持った人間に対して」語っているのではなく、「こざかしく未熟な存在」という扱いをしていたことがわかる。

そのことに対し、(誰もがそうであるが)アンネは、日記の中で理路整然と反論を展開しており、それはもっともな言い分である。

このテーマは、「アンネの日記」における中核をなすテーマのひとつであり、「現在人が人間の本性と生き方を、もう一度問い直す」にふさわしい実例を示してくれている。


14歳の人間が、40歳や50歳といった人間より、絶対的に経験値が低いのは当然のことである。
しかし、40歳や50歳の人間の方が、「物事の真髄や、人間の心理や特性」をよく知っているとは言えない。

子どもは、ものごころ付いた頃から、純粋にこれからの将来や進むべき社会に期待する。

まず小学校に入学する子ども達のほとんどが、半年くらい前から新しいランドセルを背負ったり、真新しい机で、何か勉強のふりをして楽しみにしているという光景は今も昔も変わらず見かける光景であろう。
それは、確かに「知らない」けれど、純粋に前向きに「期待」している。

しかし、入学後あっという間にその純粋な期待とは、あまりにも違う環境・状態に遭い、学校に行けなくなる子どももかなりの数存在する。

その後も、同じような段階が続く。中学、高校、大学、専門学校、そして職場。

何度、「純粋で前向きな期待」は裏切られ続けてきたのであろうか?
そして、段々と前向きに期待することを諦めざるをえなくさせられてきたのか?

アンネの反論は、そのことについてについての「まっとうな反論」である。
そして、年下の者や、子どもと言われる年齢の者を、「子ども扱い」「未熟者扱い」していることを、アンネが「馬鹿にしている!」と書いたことは、もっともなことだと感じる。

たとえ40歳や50歳になったとしても、14歳の言うことに対し、その純粋さと前向きさを「元々もっていた人間性の善いもの」として認め、尊重した上で向き合い、扱うべきであるのだ。

アンネは、残された日記の最後のあたりで、「何があったとしても、人間の本性は善だと信じている」と書き遺している。

一見、口汚く罵っているかのように見える文章は、この「性善説」を後ろ盾にした抵抗であり、「だからこそ、自分はこのような大人にはなるまい(ならない!)」と誓う意思の表れであるのだ。


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