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「友だち」とは何か? ~ 「居場所」である友達が終わった後

最近、蛭子能収氏の著書を読み、長年の「憑き物?」が少し落ちたように感じる。
それは「友だち」という概念だ。
子どもの頃から若い頃にかけて、友だちとは、なくてはならないものだった。
教師になっても、一緒にミニ・ゴルフをやったりする仲間は、友だちとは呼べないかもしれないが、やはりストレスの多い日々を明るくしてくれる存在だった。

でも、大学時代や高校時代に「友だち」だったからと言って、久しぶりに会っても、やはり友だちかと言うと、残念ながら全くそうではない。
むしろ、がっかりするぐらいはましな方で、「なぜこんな奴を友だちだったのか!」と怒りを抱くケースも割と多い。
会わなくなってしまってから、あまりにもその後の人間としての価値観(パラダイム)がかけ離れてしまっているのだ。

つまり、その時の友だちは、やはり自分にとって毎日を明るく生き生きと過ごすための「居場所」だったのだと思う。
その居場所であった存在に、今も尚、何かを期待したり信頼を求めること自体、無理があることだろう。

私は、「昔からの友だち」という幻影を棄てることにした。
しかし、もしそういう相手が何か困っていて救いを求めていることがわかったり、病床にいたりすることがわかった時に、なりふり構わず会いに行って、手を貸してやる相手。
それが、私にとっての「昔からの友だち」でいいと思っている。


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