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海中に沈んだ幻の炭鉱の島 ~ 三菱横島炭鉱

軍艦島に向かうクルーズ船からも見ることができるのですが、長崎市香焼町、香焼炭鉱の中心地であった安保地区から眼前の海を望むと、ちょうど潜水艦が浮上したような、岩礁が見えます。

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この岩礁がある場所こそ、三菱横島炭鉱のあった場所です。下の写真は、貴重な操業時代の横島ですが、あまりにも島の姿が違います。

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実は、この島、閉山後、海中に消えた「まぼろし」の島なのです・・・
明治17年の「西彼杵(にしそのぎ)郡村誌」によると、「横島は、東西330m、南北61mで、人家・耕地なし。松樹疎立す」・・とあります。
下図、左下が横島です。

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炭鉱の島となる前の写真は見つかっていないようですが、明治19年に描かれたスケッチによると、下のように松の木だけが生えている無人島、というよりは、おそらく「瀬」に近い小島であったのがわかります。

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この小島に三菱合資会社が、炭鉱開発の着手をしたのが、明治27年です。翌28年には試錐(炭層のボーリング調査)を行い、30年から海面埋め立て開始、31年から出炭しました。

下は、記事冒頭にあった写真と同じものですが、明治33年に撮影されたものです。
発電所の煙突も見えるようですが、記録によると、横島に電気がついたのは、明治32年と、同町内で最も早く、古老によると「夢の島が海にうかんでいるように見えた」ということです。

ここに最盛期で人口130戸700人。島内には、社宅はもちろん、病院私立尋常小学校も建設されました。こう聞くと、軍艦島をふたまわりぐらい小さくしていますが、よく似た感じであるのが、うかがえます。
(画像左から、南竪坑やぐら、北排気坑、住宅、病院、小学校と思われます)

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ここまでは、三菱がつくった軍艦島、中ノ島と同じく「夢の海上産業都市」だったのですが、約12万tを出炭したところで、盤ぶくれ(強大な地圧により、坑道が下面から押し潰されること)に遭い、それ以降の操業を断念、明治35に閉山しています。わずか4年余りという短命でした・・・
(写真は、昭和33年撮影の横島)

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閉山後、周囲にめぐらしてあった石垣は取り外され、軍艦島などに運ばれました。その為、埋め立てた土砂は流出し、岩礁に戻ったといいます。

更には、昭和40年頃、山頂の西側の岩礁が徐々に海中に没し、山頂も傾斜して少し沈下、山頂より東側も一部が水没して今日のよに2つの岩礁の横島になりました。

盤ぶくれを起こすほどの強大な地圧は、島ひとつを海中に引きずり込むほどの力を持っていたということでしょうか。
今でも、ダイバーが付近の海に潜ると、当時の石垣の一部が残っているのを確認できるそうです。

古老をして「海に浮かぶ夢の島」と言わしめた、「夜の横島の姿」とは、どんなだったのでしょうか。
そしてこの小さな島で暮らした住人たちの生活や小学校での様子は、一体どのようなものだったのでしょう・・・想いはつきません。

(左端に中の島、その奥には軍艦島が半分見えています。横島の後ろは、高島の二子(ふたご)坑があった二子島と元鉱員アパートが見えています、この一枚の中に、4ヵ所の炭鉱の島が写っていることになります)

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