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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#馬

写真録⑨ 馬 ~ 長崎・日見峠を越える材木運びの馬

長崎市は、街の起こりとしてイエズス会のポルトガル人とカトリック信徒が「自然の要害」として築いたことでもわかるように、平坦な経路でつながっている場所がまったく無い。 自動車が普及する以前や、ガソリンが不足していた昭和20年代前半までは、写真のように、「西の箱根」と呼ばれた長崎街道の日見(ひみ)峠を、沢山の馬たちが荷車を曳いて上り下りしていたのだ。 我々長崎市民は、この馬たちの恩を忘れてはならないだろう。

長崎の荷運び馬 ⑦

旧JR長崎駅のあった場所から電車通りをはさんで、立山の山腹に並んだ寺の近くで、おそらくセメント用の砂か砂利を運ぶ対州馬。 車道沿いにトラックで運んできた資材を下ろし、坂段を対州馬が背に付けて登る様子がとらえられている。 ひと袋30㎏として5個は付けているのが見えるので、それだけで150㎏ほどもある。 荷鞍が30㎏近くあるので、全部で200㎏近い重量を背負い、しかも急な坂段を日に何十往復もするのである。 時には、バランスを崩し転倒した拍子に脚を折り、その場で泣く泣く安楽死

長崎原爆投下時、疎開など人々の移動の際の主力は、馬だった

これは長崎に限ったことではないのですが、終戦間際は、戦艦や戦闘機の燃料すら不足していたくらいですから、本土の一般人が使用できるガソリンなどの燃料はまったくありませんでした。 ですから、本土空襲が激しくなって、都市から周辺地へ疎開する場合に、主力となったのが「馬車」でした。 原爆投下前に母とともに市内から長崎市北部にあたる長与町高田郷に疎開した愛敬 恭子さんの著書「被爆哀歌」には、その時の様子が綴られています。 愛敬さん母子が疎開して47日後に原子爆弾が投下されます。

長崎の花売り馬

平成9年2月まで最後の現役・荷運び馬として頑張っていた馬と練習ではあるが、歩いたことがありました。 長崎市西山木場の馬場からずっと西山ダムまで。

長崎の荷運び馬 ⑤

長崎市で現時点で最後の荷運び馬であった古賀さんの馬。 当時、名前は無かった。 おそらく道産子と木曽馬のミックスで、対州馬より一回り大きく、がっちりしていた。 大浦・桐の木保育園下で、ブロックをあげているが、これだけのブロックを荷鞍に付けるのは、相当熟練の技が要っただろう。 ※この画像を撮影された方及び撮影された方をご存知の方がおられたら、ご連絡いただければと思います。

昭和15年 対馬在来馬検測記録より  全・対州馬写真

昭和15年東京農林学校による「対馬在来馬検測記録」による。 様々な馬の姿も興味をひきますが、馬を持つ人の表情や背後に写る子ども達の様子もまた興味をそそられます。 130番台の背後には、小さな子どもがよく写っています。この子どもたちもご存命であれば、2021年現在、85歳を越えておられることになります、 99番や117番の女性の笑顔は、特に印象的です。 ※順不同となっております。

竹久 夢二のライバルと言われた早逝の画家 渡辺 与平

長崎市出身の画家、渡辺 与平。(婿養子に入る前の姓は宮崎)明治22年~明治45年。 資料によって若干の誤差はありますが、22歳で咽頭結核と肺炎の為、死去とあります。 画家としての活動はおおよそ6年ぐらいでありながら、竹久夢二のライバルと言われた画家でした。 「郷土作家」というものに、特別なんら思いは、ない私ですが、それでもこの人の作品は実物をちゃんと見てみたいとずっと思っていました。 13歳にして京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、21歳で結婚、2児をもうけ、22歳にし

世界新三大夜景のひとつである長崎の夜景の礎は、対州馬と人がつくった

平成24年、夜景観光コンベンション・ビューローにより「世界新三大夜景」のひとつに選ばれた長崎市の夜景。 それはデザインされた高層ビル群の夜景でもなければ、壮麗な宮殿等のイルミネーションの夜景でもありません。 港をぐるっと囲む山裾に這いつくばうようにして建ち並んだ家々のともす灯りがつくり出す、言わば「素朴な生活の灯の夜景」なのです。 そしてその、ひとつひとつの灯りの元となる家屋の多くは、名もき馬たち、特に対州馬と人によって作り出されたものであることを忘れてはならないと思います

長崎人の愛する2つのサラダ・パン-「東洋軒」と「ますさきのパン」

長崎人の多くが好む2つのサラダパンがあります・・・ まず「ますさきのパン」のサラダパン。 お店は歴史博物館向かいにあります。「長崎市玉園町」 創業は大正7年。写真は昭和34年に撮影されたもので、馬車でパンを販売していた頃のものです。看板には「パン食普及宣伝販売」とあります。 そして「東洋軒」のサラダパン。 お店は思案橋の入り口にあります。「長崎市本石灰(もとしっくい)町」 創業は大正6年。写真は昭和31年頃のリヤカーでの販売の様子です。 今では考えにくいことです

再生

長崎の坂段で荷運びをする対州馬と、その生まれ故郷・対馬での様子

私は、坂の街・長崎の坂段を荷物を背負って働いていた対州馬(たいしゅうば)を絶滅の危機から救いたいと活動している一長崎市民です。貴重な在来種である対州馬は2009年に最後の1頭が仕事を引退してから現在県内に30数頭と絶滅寸前まで追いやられています。