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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2022年10月の記事一覧

「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 1006」

長崎市に生まれ育ち、これまで膨大な被爆体験を聞いたり、読んだりしてきたが、この記事は、とても印象深く忘れられないものの1つ。 かつて教師であった私にとっても、なにかしら教師の虫の知らせというのか、予感というのか、不思議なものを感じる体験談である。 また、西浦上小学校は私の母校であり、その母校にこのような教師がいたということも、胸の奥底に深く染み入るものがある。

浦上天主堂の石垣

ただでさえ、石垣に惹かれる私なのですが、浦上天主堂のまわりにある石垣は、爆心地からわずかに500mという至近距離にありながら、その猛烈な爆風に耐え、今もその姿を保っています・・・。 熱線により赤茶色に焼けているのが確認できますが、倒れる危険性などはないということです。 もともと、この石垣、原爆で焼失した旧浦上天主堂(大正3年完成)の時代の、さらにもっと前、旧浦上村山里の庄屋屋敷の石垣として造成されたものです。(浦上教会が高谷家から、明治13年に買収) 石垣は庄屋屋敷ととも

私ブロに頂いた、メッセージ

『 懐かしすぎて涙が止まりませんでした。 この玉屋でランドセルを買ってもらい、中学生の制服を買ってもらい、社会人になってはじめてのスーツを買ってもらった場所。 一階のジュース屋さんで何度かコップを割ってみたり、屋上のゲームコーナーでお小遣いを使い果たしたり、産まれた時から私の人生に寄り添ってくれた場所でした。 貴重な最後の画像を見せていただき、ありがとうございました。 』 ***** 思いがけず、このようなメッセージを頂くことほど、ブログを書いた者にとって嬉しいこと

仕事日記より 「ナガサキ、昭和40年代のサヨナラたち・・・」(2011年09月14日)

(2011年09月14日)記述: この間、ふと「長崎のニュース00年誌」みたいなやつをめくっていると、どうも昭和40年代の長崎というのは、やたら「サヨナラ」の文字が付く記事が多いような気がしました・・。 まず41年12月には「長崎競輪」の廃止。強く廃止の意向を示してきた県と、貴重な財源として継続を望んできた市との間で、法廷闘争の一歩手前まできた競輪問題でしたが、当時の諸谷市長は17年間続いてきた競輪事業の廃止を決断しました。場所は今の松山サッカー・ラグビー場にあたります。

さよなら、我が母校 西浦上小学校

小学校自体は無くならない。 しかし、私にとっての母校・西浦上小学校は、間もなく取り壊される校舎と体育館そのものなのだ。 西浦上小学校は、現在の長大付属小学校の敷地あたりにありましたが、原爆の爆風により木造校舎は、一度宙に持ち上げられてから、地面に叩きつけられ、倒壊しました。 昭和23年に現在地に移転し、以来私を含め、多くの児童が、この学び舎で学びました。 西浦上小学と言えば、やはりぐるっと取り囲む浦上川です。 校歌の中の歌詞の中に「浦上川の みなもとの」という歌詞があり、