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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2022年3月の記事一覧

長崎の荷運び馬 ⑦

旧JR長崎駅のあった場所から電車通りをはさんで、立山の山腹に並んだ寺の近くで、おそらくセメント用の砂か砂利を運ぶ対州馬。 車道沿いにトラックで運んできた資材を下ろし、坂段を対州馬が背に付けて登る様子がとらえられている。 ひと袋30㎏として5個は付けているのが見えるので、それだけで150㎏ほどもある。 荷鞍が30㎏近くあるので、全部で200㎏近い重量を背負い、しかも急な坂段を日に何十往復もするのである。 時には、バランスを崩し転倒した拍子に脚を折り、その場で泣く泣く安楽死

旧 小濱鉄道

あえて愛野村(あいのむら)-千々石(ちぢわ)間の旧 温泉軽便鉄道とは分けてみました。 旧 小濱(おばま)鉄道は愛野村~千々石間に開通させた温泉軽便鉄道の延長線・建設の為、地元の有志が大正10年に設立した会社です。 後に合併する両社ですが、その工事区間の難易度はまったく異なっていました。 小濱鉄道の区間の地形は、山が海に落ち込んでいる上に、地質は硬質である安山岩と、トンネルや切り通しの掘削には非常に悪い条件が揃っていました。その為、大変な難工事を強いられ、ようやく小浜まで開通

学舎は果たされなかった多くの志の上に立つ ~ 長崎大学・文教キャンパス

長崎大学・文教キャンパスの純心学園に接するあたりに残された標柱です。そこには「兵器」と刻まれています。 現・長大文教キャンパスは、原爆により壊滅した「三菱長崎兵器製作所大橋工場」があった場所でした。 ここは爆心地からわずか1.3kmの場所にあたります。 画像は米軍機から撮影された同地です。白く残った道路でかろうじて場所が特定できるだけとなっています。 下は昭和19年に大橋兵器工場の第三機械工場の正門前で撮られた学徒たちの記念写真です。 ・・地下足袋にゲートルを巻いた若き学

子ども 日本風土記〈長崎〉より④ 「たきもんとり」

「 たきもんとり 」 私は母と、たきもん(焚きもの)取りに行きました。 私がリヤカーを引っぱって、母があとから、せぎ(押し)ます。 朝八時頃出発です。その時刻は、ちょうど部落の人たちも山に行く時刻なのです。 母は部落の人と会うたびに、 「おはようございます」と、あいさつをし、きょうの元気を喜びあっているようです。 私はちょっぴり恥ずかしいので、あいさつはしませんでした。 母と私は、リヤカーを引っぱって行かれる(行ける)所まで、引っぱって行きます。 それから、山を登らなければ

長崎市・昔の写真 「滑石にあったショッピングセンターあぜくら」

出来た当初から小さなショッピング・センターだった。 1Fに青果店などが入り、市場となっており、2Fにテナントで、いくつかの店舗が入っていた。 この中に、「木馬」という小さな子ども服のお店があったが、とても売れている感じではなかった。 このお店で、息子のズボンを1本買ったことがあったが、お客さんがどれだけあるのか、とても気になった。

失われた長崎市の風景遺産 「西町付近にあった小さな市場」

確か令和3年の初めころまではあったと記憶している市場。 ご覧の通り、小さな市場だが、お店の方が元気よく商売をされており、いつも賑やかな声の飛び交う活気のある場所だった。 しばらく足を運ぶことが無く、或る時このすぐ近くに仕事で来たとき、「何か違うな・・・」という違和感を覚えたが、はたしてこの市場が無くなっていて新築のアパートが建っていた。