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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年10月の記事一覧

ほぼ完璧に現存する炭鉱の島 池島へ行こう!

まず私の結論を述べておきます・・・「池島炭鉱体験」、軍艦島ツアーの10倍いいです!(私は、ですよ) ↓この島、池島ではありません。実は、昭和57年、まだ三菱高島鉱業所が操業を行っている頃の高島なのです。 軍艦島から、ほんの3kmぐらい手前にある、高島。もしこのような状態で今もあるとしたら、あなたは上陸したくないですか?・・・・・ 残念ながら、高島では閉山後、鉱業所はもちろん、島内にあった鉱員アパートもほとんどが解体・撤去されてしまいました。 これが同時期に撮影された、池

消えた島 ~ 長崎市 蔭ノ尾島

蔭ノ尾(かげのお)島・・・。今ではその存在すら知らない人も多いのではないかと思います。蔭ノ尾島は、三菱重工香焼工場の100万トンドックが鎮座する辺りにあった小島です。もともとはかくれキリシタンの時代より多くのカトリック信者が生活し、信仰を守り続けてきた小さな島でした・・・・ 現在の航空写真と見比べると、ほぼ島が消滅していることがよくお解りかと思います。 わずかに蔭ノ尾島の北端、「長刀(なぎなた)鼻」と、その左の「忠ェ門落シ鼻」だけが、かろうじて確認できます・・・ 三菱重工

子ども 日本風土記〈長崎〉より① 「大浦天主堂の下で」

昭和47年発刊の「子ども日本風土記」は当時の子どもの作文を各県ごとにまとめてあるものですが、「大人ならではの利害を考えた忖度」もなく当時の風俗や家族の暮らしの様子をリアルに伝える貴重な資料となっています。 今日に照らすと、家族観などおおいに参考となるとか考え、何回かに分けて紹介いたします。 大浦天主堂の下で 長崎市大浦中 二年 平野 厚子 『 私の家は、大浦天主堂の下の小さな売店で、長崎名物のザボンや、パイナップル、おかし類、飲み物、夏はみつかけ(かき氷)や、すいかなどを

おくんちの日だけ歩けた、長崎港駅への貨物線鉄橋

長崎市・諏訪神社の祭礼、「おくんち」で賑わう大波止付近。中島川に架かる大波止橋の近くに廃線の鉄橋跡と蒸気機関車の動輪がモニュメントとして残されています。 この鉄橋跡は、昭和5年に「長崎港駅(現・出島ワーフ付近)」に接続していた国鉄長崎本線が通っていた跡です。同62年に正式に廃止となるまでは、おくんちの日に限り、この鉄橋が通行用として開放されており、幼い頃少々恐い思いをしながら渡っていた記憶が今でも鮮明に残っています。 在りし日の「日華連絡船発着所及び長崎港駅」。駅舎の向こ

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景

先日、10年前に描いた記事に以下のようなコメントを貰いました。 記事を書いた甲斐がありました。↓ 『 にあんちゃんの撮影が鯛の花で行われた頃、私たちはこの地に住んでいました。 父が鯛の花の売店で仕事をしており、住まいは映画会館や、文化会館のすぐそばにあった、売店の社宅でした。 映画のエキストラとして、母や、私たち小学生が出演しました。 一大イベントで数ヶ月大賑わいであったことを覚えています。 私は9歳、テレビもない時代で映画が一番の娯楽であり、時折映画館のおじさんや

長崎市民エフエムで「やっぱ長崎と ましゃば すいとぅ~」というラジオ番組をやったが、少しはいいこともあった

かなり昔の話だけど、地元のミニFMラジオ局でタイトルのような番組を3年間もやりました。 標準語で書くと「やっぱり、長崎と(福山氏)が、好きである」みたいな。 最初は同局理事長からのオファーか!と喜んだが、ただの営業だった(笑) だが、理事をやるからと参加料をまけてくれたので、週1の番組を3年間も続けたのは、考えてみればすごいことだった。 内容は、福山氏の楽曲やトピックなどについて語り他、「いっちょん好かん」「こちょばいか」などという長崎弁、「くしゃみの後、心の中で「大魔王

全長303mの被爆建築物 - 三菱造船船型試験場

正式には「三菱重工業長崎研究所船型試験場」といい、全長303m、幅16.5mという細長い形は船の模型を使って性能を調べる為の試験水槽があるがゆえです。 全体的に戦前の姿をとどめる建物の中で、現存する最大のものなのですが、地味な存在のためかあまり知られていません・・・。 爆心から1.6kmと聞いてもピンときませんが、下の図を見るといかに原爆の破壊力がすさまじかったかがわかるような気がします。これは原爆投下から一ヶ月後にアメリカ軍が上空から撮影したものです。 あたり一面、形の