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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年7月の記事一覧

空襲の際、間一髪で直撃を逃れた ~ 佐世保市三浦町教会

佐世保市三浦町教会。JR佐世保駅に降り立つと、眼前の丘の上に見えるその建物は、佐世保市のシンボルとも言えるものでしょう。 下は、昭和30年頃の三浦町教会です。まだ周りに高いビルも無く、本当に「街のシンボル」的な建築物であったことがよくわかります。 終戦と同時に進駐してきたアメリカ軍兵士たちの目には、この風景はどう映ったのでしょうか・・・。 上の写真でもわかりますが、戦時中三浦町教会は、「爆撃目標になる」という理由から全体を黒く塗装されていました。 飛行高度1万メートル

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②

若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。 竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。 カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。 このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそ

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。 樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。 長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるもの

「夏の子ども ~ 長崎・大黒恵美須市場にて」

「大黒・恵美須市場」は今年で約50年。 他の多くの市場と同じく、戦後ようやく戦禍・原爆禍から立ち直っていった頃にできた市場です。 元々長崎市中心部では、焼け跡にポツリポツリと立っていったバラックのお店から少しずつ市場を形づくっていった場所も少なくないと思いますが、この大黒・恵美須市場は元々今のJR長崎駅あたりにあった市場が、長崎市との契約によって小さな川の暗渠上に移ったものです。 しかし、その後50年、暗渠部のコンクリートの劣化が進んだとして、市側はこれ以上の契約の更

その存在の意味は何だったのか・・?~針尾無線塔

佐世保市針尾島にある針尾無線塔。旧日本海軍佐世保鎮守府の無線送信所であったこの巨大な建造物は、物心ついた頃から付近を通る度に視界に入るが故に、当たり前な風景の一部でしかなく、特別何の意識もしていませんでした。 地上高135~137mというこの巨大な3本の塔が完成したのは、大正11年のこと。第一次世界大戦の終結とともに4年の歳月をかけて建設されています。 太平洋戦争における真珠湾攻撃の際にも、攻撃命令暗号として有名な「ニイイタカヤマ、ノボレ」を他の送信所とともに各部隊に送信し

原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。 しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。 「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2

龍馬や海舟など、幕末の著名人がことごとく渡った一の瀬橋は長崎の陸の玄関口だった

「蛍茶屋」・・・地名でも町名でもないこの名は、路面電車の終点にその名をとどめたことにより、市民には馴染みのある響きがありますが、電停の奥へ進むと、うら寂しいさびしい風景がひろがるばかりとなっています。 とうの昔に閉まった商店、昭和時代のアパート。そんな中にポツンとある古い石積みの小橋。それが「一の瀬橋」です。 この先は道幅が狭くなり、そばに34号線が通っていることもあるので、よっぽど用事か目的のある人でない限り、この橋を渡る人は今ではいないでしょう・・・。 しかし、ここ