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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年6月の記事一覧

トーマス・ブレーク・グラバー

小学生の頃のグラバーのイメージなんて、せいぜい「グラバー邸」を作った人。「なかなか洒落た家ば、建てた人やねぇ・・・」みたいな。 そして最近?までのイメージも、武器商人として財をなした人。言い方を換えれば「死の商人」みたいな。 しかしきちんと調べれば調べるほど、そういった一般のイメージとはむしろ正反対のものが見えて来ます。 ・すすんで日本語を学び、若い日本の青年達(浪士達)と交流した。 ・諸藩の大名達と売買の話をする時、一切袖の下などは使わなかった。 それどころか、無担

被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと

夏が近づくと街に現れる原爆関係のポスター。決まって使われる写真の中で、最もよく目にする1枚が、下の「弟を背負う兄」のもの。 モノクロでわかりにくいのですが、幼い弟の頭にはべっとりと血のりがこびりついています。誰もが「この男の子が重傷を負った時の出血だろう」と思うでしょう。 現に写真を撮った山端庸介自身もメモに 「長崎駅付近8月10日朝7時頃。両親を見失った少年兄弟、弟の方は頭部の負傷による出血で、それも暑さのせいでヒカラビている。もちろん顔を洗う余裕とてないのであろう」 

軍艦島になり損ねた島 ~ 中ノ島

軍艦島ツアーガイドをしていた時、軍艦島のすぐ横にある島(岩礁)、中ノ島について説明する際、「軍艦島の埋め立て前は、あの中ノ島よりも少し小さな島だった」と言うと、けっこう驚く人がいました・・・ ツアーでは、軍艦島の手前にあるので、中ノ島について説明を始めますが、ゲストの皆さんは、見えてきた軍艦島の姿に釘付けで、おそらく説明も耳に入っていません・・・ 関西や関東など、遠くから来た人も多かったので、それは無理からぬことですが・・・ これは、炭鉱があった頃の中ノ島の姿です。おそ

長崎の荷運び馬 ⑤

長崎市で現時点で最後の荷運び馬であった古賀さんの馬。 当時、名前は無かった。 おそらく道産子と木曽馬のミックスで、対州馬より一回り大きく、がっちりしていた。 大浦・桐の木保育園下で、ブロックをあげているが、これだけのブロックを荷鞍に付けるのは、相当熟練の技が要っただろう。 ※この画像を撮影された方及び撮影された方をご存知の方がおられたら、ご連絡いただければと思います。

ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑

長崎市浦上地区にある西町踏み切り。何気ない風景の中を多くの人や車が通りすぎていきます。 しかし、この画像の中に「ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑」があるのです。 線路の脇に立つ、小さなお地蔵さん。 ・・・・気付く人さえいないかもしれません。 このお地蔵さんには、原爆に関する、こういう悲しいエピソードがあります・・・・ 『・・・そうして私たちは学校から帰ると、アメリカの兵隊さんが大きな穴を掘って残飯を捨てますから、それを急いで拾いに行って分けあって食べまし

柿の木と石垣~人が暮らした跡

数日前、武田鉄矢さんのラジオを聴いていると、民俗学者、宮本 常一さんを大好きだという話が出てきまして、納得したのですが・・・。 宮本氏が著作の中で、「様々な地方に残されている石垣を見るにつけ、当時の名も無き石工たちの(後世に残すべき)仕事に対する誇り高さを思い知った・・」ということを記していることを紹介していました。 これは時津町・西時津郷に残されている庄屋跡の石垣と柿の木です。 私も宮本 常一さんの本で読んだことですが、以前は女の人が嫁ぐ時に、1本の柿の木を持っていった

そして、誰もいなくなった・・・

「そして誰もいなくなった」は確かアガサ・クリスティーの推理小説の邦題ですが、近頃の長崎近辺を歩いて、古写真(といってもせいぜい明治末期から昭和30年代あたり)と見比べてみると、そのタイトルがぴったりとくるような気がします・・ たとえば下の写真は現2012年の百合野橋から見たJR道ノ尾駅付近ですが、けっこう大がかりな工事をしている割に写真から確認できる人間の姿はゼロです。 明治30年より数年前頃の同場所です。九州鉄道により長崎本線が切り開かれている頃の写真であり、工事の規模