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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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2021年4月の記事一覧

福山 雅治 ファミリー・ストーリー ~ 私がかつて目指した方向性を確認できたこと

私が中学校教師である時代、勤務5校目となる長崎市丸尾中学校に赴任してきた時のこと。 どんなタイミングか、は忘れたが、福山 雅治さんの楽曲「蜜柑色の夏休み」を聴いた時、自分の中で何かがつながった。 ♪ 8時6分発、ヂーゼル汽車に乗って、蜜柑のおばあちゃんの笑顔に会いに行こう~~・・・・ これは、彼が幼かった頃、長崎本線旧線で、東園駅からほど近い祖母の家に遊びに行く時の思い出を歌った楽曲の冒頭の歌詞。 自分もまた同じ長崎本線で、祖父母の家に行っていた思い出とオーバー・ラッ

フランス魂 ~ マルコ・マリ・ド・ロ神父

普段は、ひっそりと目立たないが、この国難とも言うべき苦しい時になると、再び私たちの前にその姿を蘇らせてくれる人がいる。 マルコ・マリ・ド・ロ神父(Marc Marie de ROTZ) 1840~1914(大正4年)フランス・ヴォスロール村出身 像になってしまうと、いかにも神格化した伝説の聖人のように見えてしまうのですが、ド・ロはいたずら好きで茶目っ気があり、よく長崎弁でジョークをとばしたそうです。 つまりこの人も、ゼノさんと同じく、大変感じのいい人だったわけですね。

原爆被爆時、時津町の主要な救護所のひとつであった ~ 万行寺

西彼杵郡時津町浜田郷にある万行寺(萬行寺)。 今では静かなこの寺が、原爆・被爆後に瀕死の被爆者たちで埋め尽くされたことを知る人もかなり少なくなったのではないでしょうか。 私がこの寺のことを初めて知ったのは、中学生の時。或る夏の夜にラジオを聴いていると、ドキュメンタリー番組の中でこの寺が紹介され、涙ながらに当時を語る女性のすすり泣く声がずっと胸の奥に焼きついていました。 被爆した人たちで何とか自分でなんとか動ける人や救助にあたった人たちは、当然爆心から遠い方向、そして病院があ

「ヨイトマケの唄 」が誕生する元となった美輪明宏さんの少年期~青年期の体験

今日、仕事でお世話になった方は、80歳を過ぎ、独り暮らしをされている女性の方。 結婚もしていないので、「自分が死んだら、お葬式も何もせず、ただ火葬場に持っていってと姪っ子たちに頼んでいる」と言われる。 市役所に長く勤められ、引退後は「音訳」というかなり高度な技術が要求されるボランティア活動もされていたとか。 今は無くなった長崎市立佐古小学校の卒業生で、2学年上に美輪明宏さんがいて、小学生時代からはっとするような美少年でオーラが凄かったという話をされた。 それで、佐古小時

今は無き、名画座の時代・・・

今のシネマ・コンプレックスが悪い・・というわけではないが、その昔の映画館というのは自由で、何というかムードがあってよかったですね。 東京に住んでいた時代、「そう言えば、あの映画を久しぶりに観てみたい!」と思うと、無数にあるリバイバル館(名画座)のどこかでやっていたものですが・・・。現在では10館前後しか残っていないようですね・・・ 長崎にもそんなリバイバル館がありました。 ↓ これは長崎駅の地下にあった「ニュース劇場」のチラシです。ニュース映画ばかりをやっていたわけではな