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原爆被爆時、時津町の主要な救護所のひとつであった ~ 万行寺

西彼杵郡時津町浜田郷にある万行寺(萬行寺)。
今では静かなこの寺が、原爆・被爆後に瀕死の被爆者たちで埋め尽くされたことを知る人もかなり少なくなったのではないでしょうか。
私がこの寺のことを初めて知ったのは、中学生の時。或る夏の夜にラジオを聴いていると、ドキュメンタリー番組の中でこの寺が紹介され、涙ながらに当時を語る女性のすすり泣く声がずっと胸の奥に焼きついていました。

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被爆した人たちで何とか自分でなんとか動ける人や救助にあたった人たちは、当然爆心から遠い方向、そして病院があった場所へと向かいましたが、長崎医科大学病院や浦上第一病院などの主要病院が壊滅状態となっていたために、その後周囲の時津町や長与町へ向かった人が多かったようです。特に時津町は病院の数が多いということを知る人もいて、多くの被爆者が運ばれました。しかし当然ながら各病院では到底収容しきれず、時津国民学校や青年学校、そしてこの万行寺が臨時救護所となりました。

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建物や壁は新しくなっていますが、基本的な配置は当時と変わっていないようです。

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そして臨時救護所となっていたことを示す案内板のようなものは何も見当たりませんでしたが、この長閑な景色からは想像もつかないほどの「地獄絵図」がここに繰り広げられました。当然その様子を記録した写真も映像もまったくありませんが、わずかに証言集の中に、その記録・記憶が記されています。

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ここでは昭和48年に時津町役場総務部企画課が発行した証言集から、ここ万行寺での様子を少しだけ紹介したいと思います。

「看護の記録」   渡辺 ナミさん

『(前略) 私は八月九日の夕方から看護に行きました。お寺に行きましたら本堂いっぱいに怪我人が寝かされており、後から後から運び込まれてきて廊下までも足の踏み場もないようになりました。怪我人を見たときは恐ろしくてどうしようかと思いました。みんな焼けただれた人ばかりで顔形もわからない様になっていました。寝かされながら「水を水を」と叫んでいる人ばかりでした。村医の何先生が来られていましたが薬もなく包帯もないので手当てのしようがなかった様です。大小便の世話が大変でした。寝たまま流したり、出したりしますので、これの始末がぼろ布もなく困りました。やっと古新聞などで片付けました。夜に入ると暑い上に蚊がプンプン出て、患者にたかるのを追い払うのも大変でした。その晩から死亡者がありました。警防団が埋葬をしておりました。
十二日も看護に行きました。患者の傷は暑さと手当てが行き届かない為に腐り、汁が出るようになりました。患者がひどく痛がるのでよく見ると傷口にうじがいるのです。吃驚しました。人間にもうじが出来るのだろうか、誰も生きている人にと、信じられませんでした。傷の手当には先ず「うじ」取りをやらねばなりませんでした。だんだん衰えてきた患者は死亡するものが多くなっていました。(後略)

「被爆者看護の思い出」   山口 タツさん

『 (前略)・・・患者は、これが人間だろうかと思う程に焼けただれ哀れな姿でした。患者の殆どが火傷で汁が出て敷物も汚れ、用便も自由に出来ず寝たままでした。おしめ等はもちろん無く、古新聞を使いましたが、とても十分なことは出来ませんでした。二日目になると、傷口から蛆虫が出てみんなびっくりしました。ハシのようなもので取ってやりましたが、患者が痛さに悲鳴を上げ、思うように取れませんでした。食べ物もあまり食べられないので身体が衰えていきました。だんだん弱ってきて死亡する者が多くなっていきました。お寺の下の青年クラブに収容されていた十歳くらいの女の子が、自宅は高尾町だったがと言って母親を探しに来ましたが、母がいないので、「母ちゃん!母ちゃん!」と泣きじゃくっていたのを忘れることはできません。二日間、子供を背負い一生懸命介抱しましたが、気分が悪くなり後は看護に出ることは出来ませんでした。  小学校に患者を移す頃、長男で背負って行った征義が病気になり、その方にかかりきりで収容所にはいけませんでした。  長男は九月五日に死亡しました。 』

「被爆者看護の手記」  平山 好子さん

『 (前略)・・・十二日にも行きました。本堂は異様な臭いがただよい、気分が悪くなる程でした。お面をかぶったように焼けただれた婦人、泣き叫ぶ子供、まさに生き地獄のようでした。おかゆを食べさせると、少しでも熱いとただれた口中がしみるのでしょう。涙を、ポロポロ流しながら、食べるのです。次々に死んでいきました。私たちが死んだ人を本堂からおろすと、消防団の人が吊鐘堂の所へ運びました。

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(中略)そのあと、女子班長の相川さんが着物を裂いて作った包帯をたらい三杯も洗うように命令されましたので寺の井戸端で洗いましたが、石鹸が無いので、なかなか落ちません。皮膚が包帯にくっついて、ベロベロするのです。手でむしり取って洗いました。次第に悪臭のため気持ちが悪くなりました。班長さんに告げると「それくらいなんだ!」と叱られ、私は一生懸命で洗いました。 』

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同じく救護所となった時津国民学校のすぐ目の前には川が流れていましたので、少しは条件がよかったと思いますが、この古い水桶と井戸の石には、どのような「記憶」が刻まれたのか、と考えると言葉を失います。

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正面から反対方向をみると、階段下の広場では、お年寄りの方がゲートボールに興じておられました。平和な光景ですが、万行寺で亡くなった無縁仏は、背後に見える山間の共同墓地などに埋葬されました。今際の際、誰もが故郷の家族の元へ帰ることだけを願っていたことでしょう・・・

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こうした生死のドラマと看護にあたった多くの女性たちの悲しみ・苦しみの記憶は被爆地・浦上だけでなく、こういった近隣の臨時救護所にこそ多かったのだということを少しでも知っていただけると幸いです。

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