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炭鉱

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昭和30年代まで長崎県内に無数にあり、地域の発展を支えた炭鉱のこと
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#炭鉱

坑口は巨大な地下・炭鉱街への入り口

おそらく炭鉱で働いている時に、坑口から先の世界がどうなっているのか、を詳しく喋り続けた炭鉱マンはいなかっただろう・・と思われます。 そうすることは、やたら家族の不安をかきたて、心配させることになってしまうからです・・・・ 今日も満船の状態で向かっているであろう軍艦島ツアー。その特異な島の景観に驚かれる人も多いと思いますが、実は海上の島は、巨大な「地下炭鉱都市」の氷山の一角にすぎません。 端島(軍艦島)鉱では、最深部が940m。最奥が坑口から2~3km。垂直に上下する竪坑道

「 人口擁壁 (じんこうようへき) と二隻の軍艦島?」

「端島(軍艦島)」と島の名が付くものの、元々の端島の姿というのは・・・・よっぽど凪の日に、お百姓の釣り人が上陸してのんびりと釣りを楽しむぐらいの、岩場か瀬といった場所でした。 説によると埋め立て前の面積は、現在の1/6にも満たないということです。 石炭の発見自体も、釣った魚を岩場で焼いて食おうとしたところ、付近の黒い石が燃えだして、「こりゃ燃え石だ!」などといったことのようです。 当然大きな波がやってくれば、海面から50mにも満たない岩礁は荒波に洗われるわけで・・・このような

「 竪坑櫓 」

この漢字を見て、すっと(たてこうやぐら)と読めるのは、ある程度「炭鉱」に興味を持っているヒトだけでしょう・・。 「三菱高島炭鉱端島鉱業所」のあった端島が軍艦島と呼ばれるようになった要因のひとつが、この竪坑櫓であることは、言うまでもないのですが、そもそも何故このような櫓があるのでしょうか? 岸壁を壊すような荒波や強風が吹き荒れるこの場所に、このような高さ47mもある櫓を建設すること自体が無謀のようにも思えます。 これは軍艦島にあった第2竪坑櫓です。この櫓の下には地底600

残された消火栓が語るもの  ~ 炭鉱跡地にて

閉山とともにその施設や土地の全てが売却され、跡形も無く消え去ってしまう「炭鉱」。 運よく取り壊しを逃れても、半世紀に近い時の流れが全てを風化させ、あるいは雑草や堆積土砂が覆い隠してしまいます。 でも、まちがいなくそこに「大勢の人の暮らし、生生き生きとしたドラマ」は存在したはずです。 その記憶を風化させない為に炭鉱跡地を探し、そして記録します。 住所も不明、地図にもない炭鉱を探す場合に、重要な決め手となる手がかりのひとつが、画像のような「消火栓」です。 これは崎戸町の山中に

炭鉱跡を歩いて、記事にしたことの意味

下のコメントは2023年の2月に頂いたものです。 かつて佐世保市にあった、文殊岳炭鉱の記事を書いたのは、2011年02月16日ですから、約12年前のことです。 炭鉱跡を記事にするのは、非常にデリケートな問題を含みます。 誰でも、今暮らしている場所の地下に坑道が残っていて、地表近くに「ボタ」と呼ばれる石炭にならなかった石が多く堆積しているということは、いい気持ちがしないでしょう。 しかし、なぜそれをやったか?と問われるとしますと、上のような多くの方々の為にあるのでした。 関係

不動炭鉱 ~ 佐世保市木風町

佐世保市木風(きかぜ)町1403番地にあった不動(ふどう)炭鉱。偶然ですが、ここは私が教師時代に5年間暮らした町のすぐ隣りにありました。 鉱業権者、河内 進。操業開始・昭和28年12月24日、職員18名、労務員数120名(昭和35年時)、閉山・昭和38年2月。炭鉱誌にも郷土資料にもほとんど資料がなく、わかるのはこれだけです・・・・ 案内板には「不動の滝」「不動炭鉱」・・・とありますが、どちらも地図上にもネット上にも現れません。小さな谷間にある小さな滝のそばに10年ほどあった

地底の記録ー呪詛 坑内馬と馬夫と女坑夫 ① 武松 輝男 著

目 次 1埋葬地 墓標のない埋葬地 2坑内馬 馬買い 鼠 石炭運搬 体高減少 3馬夫と女坑夫 坑夫募集 廃疾 賃金と生活 4人柱、馬柱 文柱 贄 栄光と没落 5あとがき 参考・引用文献一覧 墓標のない埋葬地  『坑内で死んだ馬が埋められたのは、あそこの、ほら、緑で覆われている小高い丘があるでしょ、ネ、あそこ一帯ですよ。  あんた、埋められたところを探しに行くとですか。それはやめた方がよか。あの緑で覆われたあたりはですナ、昔はずうっと丘が続いていたとです。それを

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景③

こういうキャプチャーはいかがなものことは思いますが、「にあんちゃん」はVHSも廃盤になっているようですし、DVDとして復刻するかどうかも現時点ではわかりません。 昭和44年に閉山してから、(2011年当時で)早や44年。鯛之鼻で働いていた、或いは暮らしていたという方もだいぶ年齢が上がってきていると思われますので、少しでも見ていただく機会になればと考え、このシリーズをUPしています。今回は鯛之浦のいろいろな風景を紹介したいと思います。 ↓ めずらしいと思われる木製の炭函。

映画「にあんちゃん」の中に見る、昭和34年の鯛之鼻炭鉱の風景②

松浦市福島町原免(はるめん)鯛之浦。・・・現在では民家の1軒もなく、かつて人が暮らしていたということを想像することも難しく、ましてやここに賑わった炭鉱町があった・・・とは到底信じられないような状況になっています。 わずかに残るコンクリートの構造物や、緑に飲み込まれつつある廃屋だけが当時の名残をとどめるものとなってしまっています。 今回は、この場所にあった鉱業所や社宅街の様子などを紹介したいと思います。 「にあんちゃん」では、冒頭お父さんがなくなった葬儀のシーンで炭鉱住宅

映画「にあんちゃん」の中に見る、佐賀県肥前町高串からの鯛之鼻炭鉱の灯

安本 末子さん原作の本「にあんちゃん」を映画化した「にあんちゃん」からのキャプチャーです。 今では無人の野となってしまった長崎県福島・鯛之鼻に存在した鯛之鼻炭鉱の貴重な風景を紹介する意味で、このキャプチャーを掲載しております。 夏祭りに帰ってきた長兄とにあんちゃんが港から沖を望むシーン。 このシーンは現・佐賀県唐津市肥前町田野の高串港で撮影されています。 となると、沖に見える対岸の灯は実際の鯛之鼻炭鉱の灯、ということになります・・ 高串港では、夏祭りのシーンが撮影されてい

映画「空の大怪獣ラドン」の中に見る、日鉄鹿町炭鉱(長崎県北松浦郡鹿町町)

この記事の目的は、①かつて鹿町鉱で生活されていた方やその親族の方に当時の様子を振り返って頂きたい②「ヤマは、ひと家族」と言われた温かなコミュニティーが存在したことを地元の方や子ども達に知ってもらい多少でも振興の一助となって欲しい、の2点に尽きます。 そういう観点で読んで頂ければ有難い限りです。 「空の大怪獣ラドン」は昭和31年12月26日に公開された東宝映画です。したがって、これから紹介する旧北松郡鹿町町・日鉄鹿町炭鉱(加勢地区)の風景は、同年の春から夏ごろにかけて撮影され

蒼い山の高台に、自治の花開いたヤマ ~ 吉井町・宏安炭鉱

佐世保市(旧北松浦郡)吉井町直谷免。松浦市との境にも近い山中にあったのが宏安(こうあん)炭鉱です。 現在の同地です。現在は社会福祉法人あしたば会さんの施設が建っています。正面の白い建物は、吉井潤心学園です。訪問の意図を伝えると、快く敷地内の撮影を許可していただけました。 宏安炭鉱は昭和27年、元九州石炭鉱業連盟次長であり、ワンマン社長と言われた安西 豊により開坑されました。 まだこの頃は坑員さんの労働時間が12時間という時代です。 「宏安炭鉱」の看板のあった場所から目の

映画「 家族 」の中に見る、日鉄伊王島炭鉱

このトピックの目的はかつて伊王島坑で働かれ、今は遠方や海外などにおられる方に、当時の生活をひととき思い出して貰いたい、ということの一点に尽きます。 昭和45年に公開された松竹映画「家族」(監督:山田洋二)は伊王島から北海道へと移住する家族を描いたロード・ムービーです。 伊王島炭鉱で働く夫と家族は、馬込(沖ノ島)天主堂近くに住んでいましたが、夫が北海道で酪農をやることを決心し、一家で離島する場面から始まります。 「ヤマは、一家族」ですから、引越しともなると、大勢の人が集ま

昭和初期に栄えた炭鉱町 ~ 佐々町・芳野浦鉱 再訪

(記事作成:2012年12月20日) 北松浦郡佐々町にあった住友・芳野浦炭鉱跡を訪ねてから、約2年が経ちました。しかし大きなヤマ(炭鉱)でありながら、昭和28年という比較的早い時期に閉山したためか、その痕跡を追跡することができず消化不良でしたので、今回再び同地を訪れてみました。 芳ノ浦商店街裏手にある「住友芳野浦炭鉱記念碑」のある場所から山手に登ります。 階段を登ったすぐ傍にあるのが、この円筒形の構造物。印象では水タンクのように見えますが。 閉山後、展望台として整備さ