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昭和初期に栄えた炭鉱町 ~ 佐々町・芳野浦鉱 再訪
(記事作成:2012年12月20日)
北松浦郡佐々町にあった住友・芳野浦炭鉱跡を訪ねてから、約2年が経ちました。しかし大きなヤマ(炭鉱)でありながら、昭和28年という比較的早い時期に閉山したためか、その痕跡を追跡することができず消化不良でしたので、今回再び同地を訪れてみました。
芳ノ浦商店街裏手にある「住友芳野浦炭鉱記念碑」のある場所から山手に登ります。
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階段を登ったすぐ傍にあるのが、この円筒形の構造物。印象では水タンクのように見えますが。
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閉山後、展望台として整備されたようです。そのために取り壊しを逃れたのでしょう。
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ここからは東町~西町にわたる芳野浦の炭鉱街が見渡せたことでしょう。
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おそらくこんな感じです。
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草木が生い茂り、同じような景色を見ることはできませんが、現在の同じアングルはこんな感じですね・・・
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山の麓には鳥居が立っており、上にヤマの神様が祀られていることがわかります。これはあくまで推測ですが、ヤマの神でもある大山祇神社を分祀したものではないでしょうか。佐世保の日鉄池野鉱にも同じような神社が見られます。
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鳥居の柱には「住友芳野浦鉱職員一同」のプレートがありました。
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もう一方の柱には「昭和八年四月」とあります。住友による芳の浦鉱の買収が昭和4年ですので、その数年後に建立されたということでしょう。
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階段を登ってゆくと小高い山の上に小さな祠がありましたが、神様が祀ってあるのかどうかは確認できませんでした。既に移された後なのかもしれません。一応手を合わせてきました。芳野浦坑では記録に残るような大事故はありませんが、それでも開坑が明治20年頃という古鉱ですから、無くなられた方も多かったことでしょう。
祠の近くの広場は児童公園となっていました。今は遊びに来る人もいないのか、遊具も草木に覆われ、なんとも寂しい光景となっていましたが、以前は大勢の家族等で賑わったことがうかがえます。
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この「揺り篭」は、なんとも懐かしいものでした。私が生まれ育った古いアパート群の中の公園にあったものと、おそらく完全に同型のものです。非常に懐かしい旧友に再会したような?気がしました。
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山を下り、街の遠景を撮るために、西町公民館の裏山に登ります・・・。と言っても人が通るような道はまったくなく、木の枝を掴みながら這い上がる?といった感じでしょうか。恥ずかしいので、車が来ないタイミングを狙ってなんとか登りました。
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しかし、そのおかげで貴重な遺構を発見することができました!芳野浦坑の坑道口(坑口)です。まだ残っていたのですね。閉山以来、約60年です。いや正確に言うと、芳野浦炭坑は住友閉山後、昭和29年と30年に木曽鉱業が開坑しているので、こちらのものであるとすると38年の閉山以来約50年ということになります。
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もちろん坑口は塞がれていますが、ちょうど中から石炭の山が溢れ出たような形に見えます。これほどきれいな形で坑口が残っているのは、2012年の現在では非常にめずらしいのではないでしょうか?町制70周年に向けて炭鉱や鉄道の記録保存を進めておられる佐々町行政担当者さん及び教育委員会さんには、ぜひこの坑口を整備・保存し、一般の方が見学できるようにして欲しいですね。
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坑口付近に堆積した石炭です。これも炭鉱マンたちが、地底の底、何kmという危険極まりない場所から掘り出した貴重な遺物なのです。
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坑道には少し空間があったので、のぞいてみました。それにしても頑丈な造りをしています。コンクリートの劣化もほとんど無いように見えました。
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天井を支えている鉄骨アーチは、今も直その天井を支え続けていました。かなり暗かったのですが、赤さびた色がわかります。こういった鉄骨が鉄柱とともに地下何百km~1kmという場所にあって、1平方mあたり20tという強大な地圧から鉱員さん達を守っていたのです。そういった意味でもこの坑口は学習用として貴重かと思います。
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坑口付近の壁です。コンクリート造か思いましたが、水を逃がす為の孔が無数にあけられていました。
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なごり惜しかったのですが、坑口を後にしました。またいつか来てみたいですね。
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坑口があったことで、石炭や人の流れ、そして街のつくりというものが判ってきました。その近くには送炭線の軌道を支えていたであろうコンクリート造の柱が残っていました。線は切り通しをまたいで選炭場へと続いていたのでしょう。
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柱のすぐ傍にあったスピーカー、劣化がないことから比較的新しいものかとも思いましたが、この場所にスピーカーをつける必然性が見当たらず、やはりこれは鉱業所時代に炭車の通過やその他の連絡をするために使っていたものでしょう。
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送炭線が続く途中には歩き始めた記念碑があります。その記念碑のすぐ下のコンクリートの構造物です。
つまりこれは送炭線を支えていた台座であったことがわかります。
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台座から街の方へ下ると選炭場や各鉱業所施設、そして鉱員さん達の社宅、商店街があるわけです。
その町並みは現在ではほとんど失われていると思われがちですが、見方を変えると、その町並みが見えてきます。
この住宅はそのデザインからして、社宅の残っているものだと思います。
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この住宅が残る場所に現在もあるのが、芳ノ浦商店街です。そして今回も訪れたのが、操業時代からお店を続けられている「井筒屋製菓店」さんです。私はこういうことは滅多に書かないのですが、この井筒屋さんで作っているカステラは私個人が今まで食べたことのあるカステラの中で最高に美味しいものだと思っています。お店の方の話では、同じような事を言われるお客さんがいるので、今もお店を続けておられるのだそうです。
参考までに今回もお店の情報を付記しておきます。まぁ、「古き芳野浦炭鉱が今も残している貴重な味」というところでしょうか。
井筒屋菓子店 〒857-0361
長崎県北松浦郡佐々町小浦免930 0956-62-2550
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このお店から、「駅前通り商店街」であった通りをMR(松浦鉄道・旧国鉄松浦線)小浦駅へと歩きます。
この木造の建物などはその時代の空気感を漂わせていますね。
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現在の小浦駅前です。ご覧のように現在は小さな無人駅なのですが、住友芳野浦鉱があった昭和4~28年には、さぞかし賑やかな光景がここにあったことでしょう。この駅の近くには佐々・三柱神社のお旅所もあります。祭りの時季には更に賑わったことでしょう。
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その芳野浦鉱の閉山時、昭和28年の記録が記録の中に残っていますので紹介いたします。
昭和27年
新田三尺(炭層)が薄層で不利のため本社から合理化要請、閉山の噂
商店街は鉱員より月300万円で成立 一般100戸、パチンコ3、小料理6、特殊喫茶店7
昭和28年(1953)
5/9 住友石炭鉱業(株)、坑外夫109人を6月末、70人を9月末で採炭に配転の提案 鉱員700人、うち採炭190人、目標7,000t/月、実績4,500t/月で赤字
(労組)坑外は大半が老年者で事実上の首切として反対
5月下旬 新田四尺に集中、坑外の坑内配転
6月 解雇予告、希望退職
7/2 募集締切 応募192人、残鉱員500人 坑内配属問題継続中 応じない者も解雇しない旨確約
8/12 労組、経営協議会 〈会社〉廃鉱を暗示 〈労組〉労働協約により閉山予告は2年間、減産は不馴れのためで、近く増産見込みと反論
8月下旬 鉱員486人、職員70人、家族2,000人、商店街百数十軒
9/1 年末廃鉱決定 〈会社〉全450人希望退職の予定、残り忠隈、唐津、潜竜へ配転
9/3 〈町議会〉廃鉱延期、又は縮小経営を住友本社に陳情の決議
9/8 〈労組〉反対ビラ5,000枚、町内配布
9/9 〈労組〉町内デモ
9/10 〈労組〉廃山絶対反対で事務所前、むしろ敷テントで座込 男5、女8、赤ン坊を負った婦人も
10/31 閉山 鉱員310人、職員70人は希望をいれ配転 退職して永住しようとする者も多い
11月上旬 309人のうち、108人は潜竜へ、唐津87人、忠隈8人、計210人配転
希望退職89人 潜竜では組合員が受入れ社宅の清掃、トラック26台、貸切バスで引越し
11/20 閉山式
昭和29年 3/20 佐々町と住友潜竜所長仮調印
①芳ノ浦東町社宅150戸を900万円で佐々町に譲渡、②グランド1,000坪、映画館「興風館」、清水荘、浴場1棟を住友が寄付
「今は昔・・」と言いますが、昭和27年から28年にかけて、閉山の噂に始まり、閉山に至るまでの動揺や複雑な思いがしみじみと伝わってきます・・・・。
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次は小浦小学校や映画館など、もっと人の暮らしに沿ったものを訪ねて歩きたいと思っています。
2014年1月にお寄せ頂いたコメントは、この記事に深く関わるものであり、かつ当時ここに暮らされた人たちの想いというものを深く知ることに役立つものだと思いますので、記事に加えさせて頂きます。
『 一昨年亡くなった母が、生まれ育った芳の浦炭鉱に生前帰りたいと言っていましたが叶わず77歳で亡くなりました。
母の面影を求めて遺影を持って行ってきました。
以前ににこの記事を読んではいましたが、東町か西町かも知る由もありませんでした。元炭鉱の社宅だけはお巡りさんに聞いても分からず車を走らせ写真を撮って諦めて帰りかけましたが、芳の浦バス停から入った所で年配の男性に聞いてみると社宅のあった場所を親切に教えてもらえ向かっていると、記事に載っていた井筒屋製菓店があり思わず入りカステラを買いながら何か当時のことを聞けたらと名前を告げると、お店のおじさんが母の同級生で母の家族のことも覚えておられ、生家も見つけることができ辺りを遺影を持って歩きました。生きている間に連れてきてあげたかったと後悔の気持ちと、親切な方のおかげでたどり着けた安堵感で涙がとまりませんでした。
この記事には感謝です。カステラ美味しかったです。 』
としえさんより
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