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ちょっといいハナシ

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#思い出

お弁当

母がつくってくれたもの。妻が作ってくれたもの。娘がつくってくれたもの。 お弁当は、外、どこかで食べるものだから、これほど身にしみるものはない。 お米の一粒までもが、有難く感じた。 特に母から作ってもらったお弁当は、生涯で何食にのぼるだろう。 幼稚園の頃から、小学校時代の遠足、夏休み中「ねずみ島での遊泳道場」の時、そして高校時代。 お弁当箱の形も柄もイラストも、今でもはっきりと覚えている。 もう母はお弁当など作れなくなってしまったが、私は、その母にまだ何の恩返しもできていな

物の価値は、値段ではない

まだ子どもが小さかった頃の日記を開いてみた。 今から、11年前のある日の日記が目に留まった。 娘が小学2年になって間もない頃、二人でホーム・センターの中にあるペットショップに子犬や仔猫を見に行った。 その帰り、思い立って娘にサンダルを買ってあげた。 それは1,500円くらいの安物だったのだが、娘はたいそう喜んで、家に帰ってからも家の中でずっとそのサンダルを履いて、寝る時も枕元において寝た。 もうそのサンダルも、どんなものだったか、記憶にも無いが、その時の娘の喜びようが印象

昔の写真

嫁さんと知り合ったのが嫁さんが18歳の時で、そこから付き合い始めて、やがて結婚して今年で約36年。 この写真は、付き合い始めて数年後、新潟の出雲崎へ旅行をしたのだけど、民宿にクーラーが無く、あまりに暑くて、エアコンのあるレンタカーで夜どうし走っていたという思い出がある。 なんだかんだ紆余曲折あるけど、一番合っているのは動物などに対する価値観かなと思う。 私が、野良犬を飼いだしたり、ネコを拾ったりした時なんかに、呆れたりせず、ちゃんと名前を読んで可愛がってくれるところ。 2

炭鉱町に住んだ人々 ~ リリー・フランキー著「東京タワー」より

扶桑社刊、リリー・フランキー著の「東京タワー」はお気に入りの一冊ですが、その中でも最も好きな部分は、著者炭鉱町に育った頃のエピソードなので、少し紹介したいと思います。それが、このテーマのイントロとしてふさわしいと思いますので・・・。 (↓映画「東京タワー」より。CGですが、ボタ山の角度が、いくらなんでも急すぎますね。これだと炭車を引き上げるのが無理ですし、作業上も危険すぎます・・・・) 福岡県・小倉に産まれた中川氏(リリー・フランキー)は家庭の事情により、4才の頃、母と共

とっても九州なCM ~ 大分むぎ焼酎 二階堂

今、私は酒をまったく飲まないが、かつて寒い冬の夜、ちょっと飲んでいたのが「大分むぎ焼酎 二階堂」。 そして、二階堂のTV/CMは無意識的に自分の中ににじわじわと染みていたなぁ、と感じます。 九州各地がロケ地として使われ、コンセプトもひとりの中年男子?の心象風景を綴るというのが共感をよびます・・・。 考えてみれば、拙著「僕の子ども絵日記 ~ ながさきの四季」の中の取材記の中に出てくる自分のイラストは、この「二階堂」のCMに出てくる男性と何となく似ている気がします。 知らず

亡き馬がいつも居た場所に・・・小さな言葉

「えっ、こんなことってある?」ってって思ってしまった。 まるでディズニーの映画のワン・シーンにありそうなこと・・・。 亡き馬が、いつも居たテント下のエサ場。 このところ、しばらく来れてなかったのだけど、久しぶりに来てみると、固く踏み固められているコンクリート・プレートの隙間から、一輪の大きなハナカタバミが、ピンク色の可憐な花を咲かせていた。 帰ってからハナカタバミの「花言葉」を調べてみると、 「心の輝き」「喜び」「あなたと過ごしたい」など・・・。 心の奥の方で泣け

かつての炭鉱町にあった小学校跡地にポツンと残る、或る人の一生ものの記憶

『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。 神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。 私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。 神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。 本当に記憶がないんですよ。 先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。 神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。 クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚え

母方の祖母は、けっして「~扱い」しない、静かで強く、優しい人だった

母方の祖母。私がいちばん好きな君枝おばあちゃん。 下の写真では気が強そうに見えるかもしれないけど、とっても「静かな」人だった。 私は幼少期から「愚図で泣き虫」で有名だったので、親戚にも嘲笑されたりり、まわりの大人から嫌な顔をされることも多かった。 でも、この君枝おばあちゃんだけは、私にそういう態度をとらないばかりか、私に嫌な顔ひとつしたことがまったく無い人でした。 幼い頃、一緒にお風呂に入った時、自分で体を洗っている私を見て、「あんたは、洗うとが上手やねぇ」と褒めてくれま

身体が弱いので、お風呂をもらいに来た隣のアパートの女の子

今からもう50年以上も前の話。 私が住んでいたアパートは、戦後6,7年後に建てられたものだった。 全8棟には「うぐいす」「はと」「かもめ」といった鳥の名前がついていたが、間取りが少しずつ違っていて、いずれも風呂場は付いておらず、最も狭いものは、ベランダも無い一間だけというものだった。 私のいた「はやぶさ」には、かろうじて「洗濯場」があったので、風呂桶を置くことができた。 隣の「つばめ」には、それもなく、風呂桶はベランダに置いてベニヤで囲むしかないのだが、冬場は当然寒い

大分・九重登山口で登山者達を見守る犬の像 ~ ガイド犬「平治」は皮膚病のひどい捨て犬だった

「犬の像」と言えば、JR渋谷駅前の「忠犬ハチ公」が圧倒的に知名度も高く人気ですが、九州大分県、九重登山口長者原(ちょうじゃばる)ヘルスセンター横には、今もなお九州中の登山者・トレッカーから親しまれる犬の像があります。 それが「ガイド犬平治(へいじ・雌)」の像です。平治号とも呼ばれます。(九重連山のひとつ、平治(ひじ)岳にちなんで、つけられました) このどこにでもいるような秋田犬は、仔犬の頃、九重の登山口である長者原ヘルスセンター近くに捨てられていた野良犬でした。 しかも

「みそ五郎どん」の高岩山をガイドするのは、かつて主のいなかったビーグル犬・大五郎

長崎県 南島原市・高岩山には「みそ五郎どん」という心優しき大男の伝説があります。 その伝説とは・・・・・ 『 昔むかし、西有家で一番高い高岩山に大きな男が住んでおった。この大男、人が良く、ちから持ちでだれやかれやから好かれておったそうな。みそ五郎どんは畑仕事の手伝いをしたり、山を切り開いて、畑を造ったりして、みそを分けてもらっておった。 高岩山を住みかにしとったので、朝起きて雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗うのを日課にしておった。 そして、唯一の楽しみは雲仙岳に座り、高