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ちょっといいハナシ

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#長崎

心が帰れる場所 長崎浜屋 屋上プレイランド

人には、絶対に「心が帰れる場所」が必要である。 それが、生まれ故郷にあるということは、本当に幸せなこと。 うちにとって、そのひとつ、もう本当に残り少ない場所のひとつが、長崎浜屋の屋上にあるプレイランド。 先日、高齢の母とラインでやり取りしている時に、私が2,3歳の頃、2つ上の兄が住吉幼稚園に通いだしたすぐの頃、母が私だけを連れて、このプレイランドで遊ばせたらしい。 何でも、兄と一緒だと、いつも兄の乗りたいものばかりになってしまうので、一度兄がいない時に、ゆっくり好きなもの

故郷・長崎への提言 ~井形 慶子さん 2010年2月17日付・長崎新聞より

12年前の提言であり、「その通りだ!」と思うが、その後の12年間、まったく提言は生かされなかった。 「箱もの」を作っては失敗し、今年はとうとう県内最大の箱ものも赤字から海外企業に売却されてしまった。 先日、「日本一短い新幹線」「隣県の温泉地までしか行けない新幹線」開通に半世紀という時間と莫大な税金を投入し、開通した!とほんの一部だけで盛り上がっていたようだが、どう、考えても、まず乗らない。 提言に耳もかさなかった知事は選挙に敗れ退陣したが、新知事もやはりまた同じ轍を踏もう

幼少の頃、どうしても買ってほしいお菓子があった。でも、親には言い出せなかった。(その弐)

しかし、ある時、私にとって「またと無い」チャンスが訪れた。 母の知り合いの子どもが、何かちょっと大きな病気をしたというのでお見舞いに行く際、何かお菓子を持っていきたいが、何がいいか?と私にたずねてきたのだ。 私は迷うことなく、長崎大学前にある商店の、そのお菓子こそが、その子のお見舞いにふさわしい!それしか無いのだと熱弁した。 別に、自分が買ってもらえるわけではない。 しかし、あれほど見つめ続け、憧れ続けた、あのお菓子を他の子の為とは言え、買うことができるのだ!手に取るこ

幼少の頃、どうしても買ってほしいお菓子があった。でも、親には言い出せなかった。(その壱)

私は、現在の長崎市のチトセピアがある場所にあった公営アパートから、純心幼稚園まで、仲間と歩いて通っていた。 途中、電車通りを歩いていくのだが、通り沿いのと長崎大学の正門の角に小さな商店があった。 その商店は駄菓子なども売っており、店先にはおいしそうなお菓子が陳列されていた。 当然私は、行き帰りにそのお店の陳列されたお菓子を見つめながら歩くのだが、中にどうしても「いつか、どうしても買ってもらいたい!」と思わせるお菓子が置いてあった。 それは、今でいうミッキーマウスのようなキ

自分の親と同じ年齢だけど、私のことを「先生」と呼んでくれるお客さん

一体、どういうきっかけで私に仕事を依頼してくれるようになったのかは、忘れてしまった。 しかし、私の親と同じ89歳なのだけど、かくしゃくとして明るく、そして私のことを「先生」と呼んでくれるお得意さんがいた。 福岡県八女市の出身で、長崎市には嫁いで来ている。 旦那さんは、よく言えば豪放、有体に言えば外面だけよくて、家の中のことは、奥さんに投げっぱなしの人だったらしい。70くらいで癌で亡くなっている。 長崎・諏訪神社の近くに家を建てた際、新築祝いを自宅でやっていた時に、町の

山本 二三展を観覧して 最も印象に残っているもの

昨年、令和3年に長崎県美術館にて、五島列島出身のイラストレーター、山本二三さんの作品展があり、拝見してきました。 数多くの作品が展示してありましたが、最も印象に残ったのは、作品ではなく、作品集に収録されている、「郷里・五島のエピソード」でした。 はっきりとは覚えていませんが、確か次のようなもの。 五島にいた親族の中で、一人の叔母は、大変バイタリティーのある人物だった。 竹を割ったようなサバサバした性格で、とにかくよく働いたのだが、情の深い人物でもあった。 集落の外れに、

12年前、娘のランドセルを買った文房具屋さんが、おまけにくれた下敷きは、ただの下敷きではない

私が8歳の時に、この地区に引っ越してきた時に「くみあいマート」というスーパーがあって、その中に「松栄堂」という小さな文房具屋さんが入っていた。 その松栄堂は、スーパーの名前が「ダンクU」と言う名前に変わっても、やはりお店を続けておられた。 娘が小学校に入学する前、ランドセルを用意する時期になった。 その時期には、イオンなど大型商業施設で大々的なセールをやっており、大抵の人はそういうところでランドセルを買うようだった。 娘の保育園はダンクUの向かいにあり、帰りに寄る機会が

なぜ「お店やさん」がなくなると街が寂れるか・・

(長崎市) (西海市大島町) (波佐見町) ・・・3軒のお店を見て、「中には穏やかそうなおばあちゃんか、おじいちゃんがやってる(やってた)っぽい!」って思いませんか? 店構えは、店主の人柄を表すって言うか・・・ 私自身、個人業を始めて、いやと言うほど思うのは、「商いの原点」は、人とまっすぐ正直に向き合うということで、そこに求められる資質とは、「細かさ、丁寧さ、そして明朗さ」じゃないかということです。 そういう人柄が商人として身についた時に、街の人から見れば、「いつ

長崎のキリシタンにとって苦難の時代に現れたパリ外国宣教会の神父たちは、「神以上の」存在となった

1986年に公開された「ミッション」。 イエズス会の南米への布教と植民地化への軋轢を描いた作品ですが、記事のタイトルを見ている内に、この映画をもう一度見たくなって、ネットで観ました。(しかし、レンタルDVDにも無いし、手頃な有料配信も無かったので、youtubeの英語版を観ました) 公開当時、自分は東京におり、仕事を辞めたばかりでしたが、何となく惹かれるままに小さな映画館で観たのでした。 今回、やっとこの映画の真髄が掴めた気がしました。 実に35年もかかっています。 こ

一体どっちが「有害鳥獣」なのか? ~2021.5.23長崎新聞の記事より

2021年5月23日付け長崎新聞の記事。 「有害鳥獣」の記事として猟友会と連携する会の「ジビエ」活動の紹介をする記事。 「命をいただく」という表現には何の異論もない。 しかし、見出しのような画像を掲載し、「有害鳥獣」と記している点について、この記事を書いた記者と長崎新聞社は、「本当に被爆県として平和を推進する意味を取り違えていないのか?」という思いが浮かんだ。 もし、画像が野生の鹿ではなく、誰かのペットである犬か猫がくくり罠にかかったものであったら、非難囂々(ひなんごうご

この形 馬が 草を 食べた跡

長い間、蔓や草に覆われていた放牧地をきれいにした。 もう馬の姿は見えないのだが、 金網にその姿が残っていた。

「ヨイトマケの唄 」が誕生する元となった美輪明宏さんの少年期~青年期の体験

今日、仕事でお世話になった方は、80歳を過ぎ、独り暮らしをされている女性の方。 結婚もしていないので、「自分が死んだら、お葬式も何もせず、ただ火葬場に持っていってと姪っ子たちに頼んでいる」と言われる。 市役所に長く勤められ、引退後は「音訳」というかなり高度な技術が要求されるボランティア活動もされていたとか。 今は無くなった長崎市立佐古小学校の卒業生で、2学年上に美輪明宏さんがいて、小学生時代からはっとするような美少年でオーラが凄かったという話をされた。 それで、佐古小時

かつての炭鉱町にあった小学校跡地にポツンと残る、或る人の一生ものの記憶

『 私は、神林で、四年生まで、いました。それから、伊王島にいきました。 神林の時の、思い出は、記憶がありません。残念です。 私の祖父は、鍛冶屋でした。うたがうらでした。 神林の学校は、楽しかったことだけ、記憶にあります。 本当に記憶がないんですよ。 先生が優しかったです。それだけ、おぼえています。 神林の一年生の担任は、ふじまつ先生かもしれない。女の先生でした。 クラスの子が、床に何かを、こぼした時に、私が床をふいてあげたら、先生が私に、優しいね、といってくれたのを、今も覚え

今年の高校野球長崎県大会決勝は、少子化の進む、かつての炭鉱地帯の公立校同士の対戦

令和2年の高校野球大会の決勝。 つまり、優勝しても甲子園の無い県大会の決勝です。しかも観戦できるのは部員と限られた保護者だけで、応援団はもちろん、声援さえもありません。 そんな切なすぎる今年の長崎県大会・決勝は、今日行われる長崎県立大崎高校(西海市) 対 長崎県立鹿町工業高校(佐世保市鹿町町)。 ともに公立高校で、同じ炭層に位置する、かつての炭坑で昭和初期に賑わい、今は少子高齢化にあえぐ地域にある高校です。 長崎県立大崎高校はともに長崎県の離島で、大島と崎戸島の分校が