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想いの答えを確かめられる幸せ

昨年、まだ新型コロナウイルスが広まっていないころにリレーマラソンのイベントに仲間内で参加しました。
その話をしたときに、ある人が「お前が走るの?」みたいな感じで鼻で笑いました。

僕には障害があって話し方は遅いし、歩いたり走ったりする姿は人とは違うみたいです。
「~みたい」というのは自分の姿は見られないし、正直自分の声や姿を確認する気も起こらないので他人事のような表現になっています。

学生時代から会話をしたりその姿を見られたりして、マネをされたり笑われてきました。人は珍しいものを見ると、不思議に思うのは普通だから仕方ない。小さいころから考えることが好きだったので、そう考えて第三者的に納得していました。

本当は笑われるたびに、自分が話すことや走ることが怖くなっていたのに。両親にばれたら心配する。
だから誰かに自分の体のことで傷つけられても我慢しておこう。時間が経てば忘れるし。

そんなことを思いながら毎日を過ごしていました。今だからこそその苦しさを言葉にできます。

当時はそういう自分も誰かの珍しさを笑ってしまうこともあったから、そう納得できたのでしょう。でも、そう考えてはいけないことも今なら痛いほど気付けます。

以前のnoteで書いたように大学生のときにスペシャルオリンピックスと出会って、何かをためらう誰かの背中を押せたらいいなと思い続けてこられています。
そのなかでいろんな人と出会い「生き方」の多彩さを学びました。そして、「つながり」をたくさんいただきました。

「社会は厳しいから頑張っていかなあかん。」
そう言われながら育ててもらいました。今その言葉の意味を痛感しています。でもその一方で最近の社会は温かくなってきていることも感じます。

今年の年明けに、お世話になっている人たちから新たな組織を立ち上げる話をいただきました。その組織は地域で障がい者スポーツを支え、盛り上げていく組織です。
その初回の打ち合わせで「やるからには人の気持ちを大切にする活動をしていきたい」という思いを話しました。その打ち合わせにいたメンバーは大きくうなずいてくれました。

もし、心を傷つけられやりたいことを我慢している人がいたら、全力で認める。そして、背中を押す。
自分ができることはこんなことです。大したことではありませんが、こんなことで少しは社会のお役に立てると信じてます。

冒頭のリレーマラソン。一緒に出たメンバーには、仕事で知り合いほぼむちゃぶりで声をかけ参加してくれた人もいます。
鼻で笑う人もいれば、認めて(休日の時間を使ってまで)協力してくれる人もいます。
自分も認める側にい続けたいし、認める側の「住民」をどんどん増やしていけるように。

自分の苦い思い出を新しい前向きなことにつなげられる。生きてきた経験から出た「答え」を表現できる。
その幸せを噛み締めながら、この春からまた新しいことを始めます。

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