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【小説】隣人

小説です。この話は、自分が社会になかなか溶け込めずにいた頃、そして転職しては必ずトレーナーという立場の社員や会社の上司たちから厄介者の様な視線を向けられ、同僚たちとも馴染めず悶々として勢いで書いた昔の自分の作品です。(最近分かったのは自分がADHD型の発達障害を持っていた、ということなんですが、その昔はそんな言葉など企業に根付いておらず、「変わった人間」としか判断されなかったですし、自分もなぜこんなに覚えられないんだろうと悩んだり、パワハラやモラハラにも苦しんできました。)
こないだ某フランスの刑事サスペンスドラマを見ていたら、同じような描写があったので、それを掘り起こしてここに記してみます。(推敲はし直している…筈)
が、その前に

  • この話はキリスト教的要素がありますが、信者の方には申し訳なさすぎ

  • 勢いで書いたものなので、広い心で読んでいただければと思います

  • ファンタジー感覚で読んでいただくと読みやすいかなあと勝手に思ってます

それでは、here we go!!


月明かりに照らされる森じゅうに、狼の遠吠えが響き渡った。
深い深い森の中、辺りはしんと静まり返り、森の中のほとんどの生き物たちは自らの巣の中で眠りについていた。青白い光のカーテンに包まれて、森の中の木々までもが安らかな夢を見ているようなこの空間を、再び狼の声がさえわたった。
その声に驚いた地ネズミは慌てふためいて大地を覆っている枯れ葉の中にもぐり、森の賢者は高い木の枝からその様子をじっと見つめていた。
風が、吹いた。
枝葉は風に揺れるたびにさらさらと歌うように音をたて、草も風の流れに身を任せてその足音を形作っていた。
全てが「日常」の真夜中の森の風景だった。
日常?
しかし、今日はそれと違う音が混ざっている。
その音は、先ほどはかなり遠くに聞こえていたが、徐々に近づいてきた。枯れ葉や草を踏みしめる音は一定のリズムを以って伝わってくる。そして、荒い息切れも。

音の主は少女だった。
愛くるしい蒼い瞳と豊かな金髪を揺らせながら夜の森の中を走っていた。
恐怖に冒されたその表情は冬の身を切るような氷のように凍り付いている。どこまで走っていても彼女の表情は不相変そのままである。
彼女は明らかに何かから逃げていた。怯え、強張った視線を隠すことなく何度も後ろを振り返る。
恐らく、彼女を追っているのは遠い後方からかすかに響いてくる怒声と木々の影に時折ちらほらと姿を見せる松明。畢竟、あれが彼女が恐れているものだ。それは漫々としつつも着実に彼女の後を付けている。
少女は走る。
彼らが見失ってくれることを願いながら。
長い間走っていたため紅潮しているその頬はそれでもやはり触れれば壊れる薄氷のように恐怖にこわばったままである。
少女は逃げる。
行く手を阻む茂みをかき分け、必死に前へ前へと足掻くように進んでいった。

厚い壁のように深い草木が、彼女の行く手を遮った。前方は見えない。しかし、逃げている彼女に躊躇いはおろか選択肢等悠長なものは残されていない。彼女の中に在る生存本能がそう語り掛けたといっていいだろう。
意を決した彼女は勢いよくその草叢の中へと体ごと飛び込んだ。

果たしてそこにあったのは、狭いが見晴らしの良い草原だった。
勢い余って転がり込んだ時の衝撃で、傷む体を励まして身を起こした彼女は、こんな深い森にこんな静寂に満ちた場所があるとは意外だったらしく、脚のそこかしこにできた切り傷に構うことなく、ゆっくりと野原を歩いた。肩が荒く上下し、息も絶え絶えで走る力が尽きたということもあるが、彼女が止まったのはそれだけではない。
先ほどまで彼女を苛んでいた焦燥や恐怖を忘れさせてくれるほど、そこは別世界であった。
少女にとって「久々に」目にする、閑静そのものの、夜の姿である。
そこを、
まばゆいばかりの月の光が疲れ果てた彼女の五体を包み込むように照らしている。少女は自分が追われていることを忘れ、暫し呆然と月の光を眺めていた。
月は、闇に怯えるものも分け隔てなく照らしてくれる。

                  月の光ってこんなに美しかったかしら?
森の輪郭や、草葉のつやをほんのりと浮かび上がらせるこの光に彼女は得も言われぬ安らぎを感じた。このような闇の空にあってなんと崇高な光を放っているのだろう。
少女は自分が追われていることを忘れて、月から目を離すことなくずっと見つめていた。なんという崇高で優しい光だろうか。あの白い円形から放たれる光の筋はとても柔らかくて、精密に編み込まれたレースのカーテンのようだ、とも思った。
此の侭、ずっと静かに過ごせたらどんなに良いだろう?
そんな思考が頭をよぎる。

そんな時だった。
背後で男の声がしたのは。

「なぜ、このような場所にこのような時刻に一人で立っておいでです?」

低いが、響きの良い男の声がした。だが、決して彼女に恐怖を与えない・・寧ろ落ち着いたそれは不思議なことだが彼女の警戒心を底から払ってくれる優しさを感じた。そう、まるで天上を照らす月そのものだった。
ので、
彼女は上下する肩をそのままに、背後を振り返った。
そこには夜の闇そのものを纏ったような漆黒の色をしたマントを羽織った若く、背の高い男性が立っていた。
この辺りには珍しい、絹のような漆黒の滑らかさを持った黒髪は束ねられることもなく背中まで延ばされており、肌理細やかな・・・いっそ青白さを伴った色白の肌は月の光に輝き、それがこの紳士の持つ神秘的な雰囲気に妙に相俟っていた。
然し、変わった格好をしている。
自分が見慣れている、ここら一般の男性が身にまとっている衣服は一切身に着けておらず、黒一色でまとめられたその上下の衣装は今まで彼女が見たことがないそれだった。
頭にかぶっている帽子も妙だ。まるで黒い切り株を頭に頂いたような形状で、彼の額を覆っている帽子の日除けの部分もやはり漆黒であった。
これはこれからの未来、この地域で「紳士」が身につける「スーツ」と「シルクハット」と呼ばれるものだが、この時代の男子が身につけるにはまだ早すぎた。そもそも、この時代に「紳士」という概念はあったかどうか。
あるのは貧富とそして、差別、それに伴う理不尽と悲しみと、暴力である。

「・・・・・・?」
少女は紳士の瞳を凝視した。その帽子の影から垣間見えるその色は、貴婦人が身につけている宝石というよりは寧ろ血の色のように濃い、深い真紅をしていた。だけではなく、彼の耳はダガーのように先端がとがっており。端正な口元の両端からは獣のような鋭い牙が映えていた。凡そ、「通常の」人間の持つ容姿ではない。彼を人間と認識するには余りにも変わっていて、妖魔の類としか思えなかった。
それは少女が子供のころから伝え聞かされてきた夜な夜な人の生き血を吸うといわれているあの    
とはいえ、不思議であった。彼が仮令たとい、血に飢えし邪悪極まる存在であったとしても彼女に恐怖も不安も抱かせることはなかった。むしろ「人間」よりもこの「妖魔」のような男性の方が心の深部にに安らぎを与えてくれる、そんな体験したことのない心持に彼女は抱かれていた。同時にそんな自らを心の中で蔑んだ。

「あなたは、ひょっとして私と【同じ】なの?うわさに聞くヴァンパイアの様ね・・・」
と、自嘲気味にほほ笑んだ。透き通った湖の水面のように美しいその瞳にはあふれんばかりの涙をたたえながら・・・・・。

フランシス・ヴァトーリー。
彼女を知るものはそう呼ぶだろう。
この地方の貴族の三女に生まれ、実母が天に召されるまで何不自由のない暮らしをしてきた。が、とある日、彼女は「魔女」として、槍や棒を手にした男たちの手によって、勢り身柄を拘束された。
唐突な仕打ちに狼狽しつつも彼女は身の潔白を叫び、そして家族たちに助けを乞うた。しかし、その時に彼女の継母と目が合った瞬間、その冷ややかな笑みと視線に彼女は全てを悟った。
彼女を助ければ同罪になるからと手を出せない兄弟、うつむき加減に目をそらす実父・・・・畢竟誰も助けてくれるものはいなかった。
そして、彼女は冷たい牢獄の中につながれることとなる。
処刑の日が刻一刻と近づきつつあるある日、看守の隙をついて少女は脱走をした。
そして、今に至る。

「私、魔女なんですって」
月を背にした彼女から表情は読み取れなかったが、頬から流れた一滴を月の光が金剛石のように照らした。男性は風に揺れる黒髪をそのままに、じっとその言葉を聞いていた。
なぜかしらね、と少女は眉を顰めてため息をついた。
「証拠もないのに、どうして簡単に決めつけることができるのかしら?どんな権限があって、私たちのような人間を作らなければいけないのかしら・・。」
憤懣やるせない気持ちに満ちた声は固く、怒りに満ちていた。その顔を風が撫でるように通り過ぎていく。男性は依然として何も言葉を発しない。ただ、黙って少女の悲しみに満ちた話をを受け止めるだけだった。
「なぜ、わざわざ【異端】という存在が必要なの?その人たちには一生わからないわよ、勝手に異端者と呼ばれた人々の気持ちなんて」
彼女の脳裏に刻まれた、「魔女」と名付けられし女性たちの阿鼻叫喚。
或る者は拷問によって元の顔の姿がわからなくなるほど腫れあがり、その顔を見て更に「魔女が本当の顔を顕した」と哄笑する獄吏たちの声、鎖につながれていることを良いことに、「魔女」たちの身体を蹂躙していく男たち。
本能のままに、そして自分たちの身分を利用してか弱き女性たちに目に余る沙汰を行う様をその蒼い瞳に焼き付けてきた。
閉ざされた監獄の中で行われしそれは、正にその名の通り地獄絵図でしかなかった・・・。

一体どちらが魔物なのか・・・。少女の胸に刻まれたのは疑念でしかなかった。

風が、吹いた。
美しい彼女の金髪が頬を撫で、一瞬男性と目が合ったその時、急に我に返った。急に慌てて
「ごめんなさい、初めて出会った方にこんなことを・・・」
今まで強張っていた頬は羞恥に紅潮し、申し訳なさそうにそこを両手で隠す。その仕草は普通の少女そのものであった。
普通の、温かい血の通う人間の少女としてのそれと何ら変わらない。
困ったように視線を伏せたその様子に、男性は
「いいさ、誰にだって耐え難い苦痛は、ある。」
と幽かにほほ笑んでみせると、少女は赤い頬をそのままに、両手の中から嬉しそうな笑みをたたえた。いっそ、泣きそうな笑顔だった。
此の侭静かな状況であってほしいと願った少女だが・・

「いたぞ、あんな処に隠れていやがった!!」
静寂そのものだったこの空間を、唐突に犬の咆哮と数人の男たちの声がかき乱した。数本の松明がこの崇高な光の中を振り払うかのように真昼のように明々と灯し、今まであった厳かな空間はいきなり俗世へと豹変した。
男の一人が彼女の姿を見止めるとまたもや荒い声をあげた。
その言葉はもはや聞くに堪えない程に粗末である。

口汚く彼女を罵る声に続いて村の男たちが数人と、最後に神父が聖書を携えて少女に迫っていた。
男たちの手には松明のほか猟銃も握られている。少女の態度如何によってはその場で射殺するつもりなのであろう。
無論、少女は捕まりたくはない。彼らが彼女を追うのであれば逃げるしか選択肢はない。だが、だからといってここから寸毫でも動こうものなら彼らの無慈悲な攻撃によって殺される一方だろう、あるいは流れ弾が隣にいるこの男性にあたるかもしれないのだ。それは本当に避けたい。今やこの静かな魔物は自らの境遇をわかってくれる唯一の存在でもあり、要らぬ迷惑をかけたくない。
少女は少しだけの希望を抱いて神父のほうを見遣った。だが、それも無意味だとすぐさま理解した。彼は憐憫の表情を浮かべてはいたが、何処となく光に属する者としての驕慢を感じた。残念ながら彼にもまた村人と同じ獣性が隠されている、と直感的に悟った。説明しても聞いてはくれないだろう。
(どうすれば・・・・・)
躊躇いを抑えられず、唯々怯えるしかない少女の身体を、不意に男性の漆黒のマントが包み込む。
同時に、二人は宙に浮いた。一気に追手たちが眼下に見え、彼女は一瞬自身に何が起こったのか理解できなかった。
彼女はされるがまま空を、飛んだ。
そのまま少女は男性と共に男たちの視界からみえなくなってしまった。余りにも急の出来事に全員が銃を発砲することすら忘れて呆然としていた。
「消えた・・どこに行きやがった」
「一緒にいたあいつは何だったんだ?」
我に返った男たちは今しがた目の前で起こった出来事が信じられずにいた。もしかしたら何かしらの目くらましで実は未だ近くの繁みの中に身を潜めているのではないのかと草叢をかき分ける男の姿すらあった。無論、それは徒労に終わるのだが、男たちの謎は深まるばかりだ。
「あの男はヴァンパイア。まぎれもなく、魔物です。」
というと、すぐに十字を切り、神の名を唱えた。
それを聞いた男たちは呪文にかかったかのように、その瞳にすぅっと刃の切っ先のような冷たい光を宿したのである。
そうか・・・と、夜空を仰いだ。
其処には煌々と輝く、月がある。
闇に属する生き物の活動を許す月の光に反吐を吐きたくなってやりたくなる。
「ますますあのガキをとらえて処分しねえとな・・・・」
憎々しげに呻いた。
その場にいたものすべての表情が、鬼に似ていた。
月の光は、遍く物を平等に、照らす。

森のはずれに、その場所はある。
見渡す限りの緑の大地の上を、やはり月が静かに照らしていた。
風が吹くたびに、柔らかな緑の畝はその足跡を示すかの等に、月の光に反射させてキラキラと地上で光を放っていた。木々の枝葉の音、靡く草の音、鼻腔をくすぐる久々の緑の香り。
そして実に清凉な月の光。何たる清浄に満ちた音の中に自分はいるのだろう。これ以上の場所を彼女は知らない。
不思議だった、前から知っているような懐かしさを覚えさせる・・。
と、少女は男性・・・吸血鬼と向かい合ってたたずんでいた。
更に不思議なことがある。
手をのばせば触れそうなほどに近くで向かい合っているのに、彼はなぜ自分に何も危害を加えないのだろう。
伝え聞く吸血鬼の話は夜な夜な近隣の村に出没して無力な人間の生き血をすするのだという。そして、恐れられし魔の種族を目の前にして、自分もなぜ恐怖を抱かないのか。
この者は本当に吸血鬼なのだろうか?先ほど人智に及ばない大胆な手法で救われながらも、彼の事が全く分からないでいる。
然し、尖った耳の先や牙を除いて、その容貌はいかにも人間とはそぐわないそれである。
何よりも猩々緋のその瞳を持った人間は、血に飢えた魔物の印象そのものなのに、少女自身に寸毫の恐怖を抱かせないのである。

「貴方は、何者なの?」
彼の猩紅を見つめながら、少女は吸血鬼に正直な疑問を口にした。
同時に、綺麗な瞳だと思った。吸い込まれそうに。その瞳の奥には何が潜んでいるのだろうか?
これが邪悪な存在として恐れ、忌み嫌われてきた魔物なのだろうか。
そもそも、
吸血鬼に始まるその他魔物の存在とは何なのだろう。

それに対し、吸血鬼は自らの事を「闇だ」といいながら彼は物憂そうに瞼を閉じた。
「様々な名前を与えられているようだが、その実は異端やみを恐れる人間たちが造り上げた、単なる幻影だ。」
愚かなことだ、と呟きながらゆっくりと彼は目を開いた。
「己の心の奥底にある暗闇を黙殺し、代わりに闇を造ることでごまかそうなどと、そのようなことですべてが清算されるわけではないのだがな」

吸血鬼の言葉に少女は少なからず衝撃を覚えた。
彼らの如く闇に生きるとされる種族は少女と同様に勝手に造られた存在だというのか?そして「造られ」てこのかた直ぐに人々から拒否を受けつつ、魔物とするには余りにも人に近い容姿を持った、何方にもつくことができずにいる物悲しく寄る辺を持たない存在。
心の底から胸が痛くなるほどの同情の念を禁じえなかった。彼、そして彼らの気の遠くなるほどの永劫の孤独を思うと今すぐにでも抱きしめてあげたくなる衝動にかられた。「闇」の種族として人間からこんなに疎まれ恐れられ忌避されてきた彼らの事が自身と重なる。家族ですら自分を助けてはくれなかった。彼女もまた、よすがの無き孤独を味わっている一人だからだろうか。
人は、誰かと比べて誰かを陥れて自分は「正常だ」ということに安堵を覚える。そして異端となった存在に冷笑を浮かべ、排除を願い、試みる。
だけではないだろう。
光を求める宗教にとってもまた、闇の存在はなくてはならない存在である筈だ。
吸血鬼は言う。
「人は望んで私に永遠の命などというくだらないものを与えた。」
その言葉は、何億もの言葉や表現よりも彼女に合点を与えた。
それもそうだ。彼らがいなくなれば困るのは確かに人間の方だろう。
然も、聖職に近ければ近いほど、である。

全ては相対する両極のバランスによって成り立っている。
太陽と月、天と地、善と悪、光と闇。
しかし、世界はそんなに単純ではないのだ。様々な型に生まれた存在があって初めて世の中は成り立つ。仮令悪と思われるものがなくなったとしてもきっとまた新たな悪を探すのだろう。そして悲劇を繰り返していくのだ。仮にその悪を排除したとしたらどこかしら均衡が崩れて取り返しのつかないことになる。
それでも、人は分別をしたがる。
正道と外道
正常かみ異端あくま
「闇の存在によって自らの存在や信じるものを浮き彫りにしようとする。光を自称する彼らには魔の存在が誰より不可欠なのだ。」
そして、吸血鬼は少女の蒼い瞳を見つめ
「その中で、私は生まれ忌まれてきた。」
輝けるもの、穢れ無きものを探しながらその実は闇を望んでいるのはどちらの方か。「神の僕」としての驕慢が畢竟「異端狩り」等、要らぬ殺戮を生み出しているのだ。
人は、その矛盾になかなか気づかない。
人間とは、神の為ならば鬼にも悪魔にもなれるというのか。
自らの潔白を証明するために。自身の保身のために。

神とは、宗教とは一体何だろう、少女は思った。
遥か昔、確かにイエス・キリストなる「人間」の存在はあったという。彼が唯一無二の「神」の存在を人々に知らしめ、神の意思としてイエスの言葉で人々を導いていった。その源にあるものは「神」を媒体としたイエス・キリスト自身の「哲学」ではないのか。
それがいつの間に彼が「神の子」と呼ばれ、後世の人間によって様々な形に変容していったのか。イエスが教えたかった「真実」は聖書の中にちゃんと残っているのだろうか?
「真実」とは生まれたばかりの雛のように頼りなくそして粘土のように柔らかい。ひとたび力を加えればどんな形にだって変容してしまう。そう、解釈如何によって盾にも剣にもなる。
少女は吸血鬼を見た。
彼も宗教という名のもとにその存在を歪められた魔物とされる存在である。思い返せば彼らの「十字架」や「聖水」に弱いという造られた「設定」は確実に宗教染みているように思う。それもきっと神の教えを広げるために作られた、無情な言い伝えなのだろう。
彼女もその昔、教会へ行き十字架の前にて祈りを捧げて神の名を何度も唱えてきた。だが、今、この状況となってすべてが懐疑的になってしまった。
そして、自分が捕らわれる前の、過去に魔女狩りに遭った女性たちに対して途轍もない罪悪感を抱いている。彼女らもまた、光に裏切られてしまった哀しき存在である。その時、自分は何を思っていた?何を考えていた?ただひたすらに自らの正常を確認し、傍観していただけではないのか?
人間とは、浅はかな生き物だ。その立場になってみないと、その苦しみや孤独や理不尽が分からない。少女はきゅっと口端をかみしめた。
彼女たちを理解する思慮が、自分には足りなかった。
あの頃は何が正義なのかよくわかっていなかった。
傷だらけの足に、彼女の涙が一つまた一つと落ちていく。
爪が刺さるほど強い力で手を握り締める。
畢竟自分もこうなるまでは、先ほどの男たちと何ら変わらぬ幸せで無知な人間の一人であった。

その時である。
今までのものとは全く異なる強い突風が周りを包み込んだ。揺らぐ足元を耐えて少女は手の甲で目をかばいながら下げていた顔を上げた。
葉は散り散りに空中に舞い、木々の太い枝が縦横に大きく揺れ、ギシギシと大きく軋み、そのまま折れるのではないかと危惧するほどだ。
恐怖と驚愕で彼女は頭を押さえた。彼女の柔らかな金の毛髪もこの空間に舞う。その度に月の光に反射してはきらきらと眩い光を躍らせる。

唸り、叫び声を上げる風の中に、吸血鬼の声が溶け込んでいった。
「恐れを知ることで人々はその存在を活かせる、排除するだけでは何にもならない。」
大風を一身に浴びた吸血鬼は先ほどのように高く宙に舞った。少女の留める声や懸命に伸ばす手にも最早応えることも無く。
上を見上げれば幾頭かの狼たちが物凄い速さで夜空を疾走していた。風は、空を自由且つ縦横無尽に駆け巡る彼らが生み出していた。初めて目にする不可思議な光景に少女はただひたすらに瞠目することしかできなかった。
狼の群れの中の一頭が吸血鬼の元へと近づくと、彼はその背中に乗ると、もう少女に振り返ることも無く月の光の中へと消えていった。ほかの狼たちもそれに続く。
風が止むころには再び元の静かな月の世界へと変わっていた。
取り残された少女の姿を淡く包んでいる。
光の中、少女は涙を流していることにも気づかずにただじっと草原の中に立ち竦んでいた     

       眼が、覚めた 
同時に視界に移りこんできたのは「現実」だった。
冷たくて硬い石の天井と床。
彼女は両手を固くて重たい手錠で固定されたまま、そこに横たわっていた。
視線を動かせば鉄格子の窓から溢れんばかりの光が差し込んでいる。
全てを理解するにはそれだけで充分だった。しかし、これは彼女自身も不思議に思ったのだが、心の重荷は一切取れ何故かしら何も怖くもなくなっていた。
今日が、彼女の処刑の日である筈なのに・・・。

そう、幼い頃実母に手を引かれて何度も教会へ通っていたあの頃の自分は今日、「魔女」として業火に焼かれる。
まだ文字も読めなかった頃、信心深かった実母は小さな自らを膝に抱いて、聖書を読んでくれていた事を思い出す。あの頃は何も心配することなどなかった。母親が読んでくれている聖書の内容を聴いている時間が今はもう手の届かない場所にある。
聖書を・・・・
        
少女の脳裏にその一文がよみがえった。
そして、小さくその一節を何度も呟いては、小さな窓からこぼれる青空に目をやり、そして息をついた。
今の少女の瞳のように、一点の曇りもない、透き通った青だった。
自分はこれから処刑される。
しかし、怖いものはもう何もない。
自分を告発した張本人すら今は恨む気持ちもなくなった。
自らの処遇について悲嘆する気持ちも絶望を抱く気持ちも今はもう、ない。
その時であった。
「フランシス、時間だ」
振り返れば、看守が数人の刑吏と共に彼女の牢屋の前に立っていた。
自分は、とうとうこれから処刑されるのだ。

刑場の周りには柵が張り巡らされており、見物に訪れた人々が口々に歓声を上げていた。皆、自分たちが忌み嫌う「魔物」の処刑にやや興奮気味に騒ぎ立てている。中には少女を罵倒する者もいた。そして、神を賛美する者もまたいた。群衆が集いし場所は異様な熱気に包まれていた。
娯楽としては最高の題材なのだろう、異端者の処刑とは。
少女は火刑に処される。
太い木の柱に彼女の身体は、胸元、手元、そして足首と決して動けないように雁字搦めにされ、細くて白い彼女の足元にはよく燃えるように小さな枯れ枝が山のように積まれていた。
これにはさすがに頬を強張らせたが、少女は泣き叫ぶことも無く、身じろぎもせず、至極冷静に周りを見渡した。
誰も、彼女を憐れむ者はいない。それもそうだろう、魔女として、当然の報いだと彼らは徹頭徹尾信じている。

松明を持った二人の男を傍らに、神父が少女の前に静かに歩み寄ってきた。手には聖書を携えている。儀式として、神に祈るのである。
聞くとはなしに少女は、不相変観衆を見つめていた。彼らは自分たちが何を言っているのか、何をしているのか全く分かっていない、ただの「光の僕」たち。無論、だからと言って彼女は彼らに怒りも憎しみも感じない。自分でも不思議であったが、この感情を何というのだろう?
自分という人間の処刑ためにこれだけの人間が集まっているのか・・と半ば他人事のように周囲を見渡していたのだが、無感情であったその少女の瞳が、一瞬大きく見開かれた。
視線の先にいるその者は、漆黒のローブを身に纏っている長身の男性だった。心臓が一度だけ大きく高鳴る。
そう、果たして「彼」であった。愁いを含んだ赤い瞳が何よりの証拠である。彼だけであった、笑みを湛えることも無く少女の処刑・・・最期を見守ってくれていたのは。少女はなぜか無性に嬉しくなって思わず微笑んだ。
その様子に松明を手にした執行人は怪訝そうな視線を少女に向けた。なぜなら、少女の視線の先には誰もいない。黒いローブを纏った男など、彼の眼には寸毫も映らなかったと思われる。
司祭が十字を切ったとき、それを合図としたかのように執行人が少女の元へとじりじりと歩み寄ってきた。
愈々、なのである。
少女は奥歯をかみしめて、想像もできないその先の苦痛に備えた。
それでも彼女の視線は絶えず吸血鬼に注がれている。
枯れ枝につけられた火が渇いた音を立てて少女の爪先に迫ってくる。生き物の様に炎の舌が彼女の身体を取り込もうとじりじりと迫っている。
(私には、あなたが「神」に思える)
炎の熱さに苛まれ、抵抗しながら心の中で彼に向って話しかけた。
人々のイメージに固められ、身動きの取れない神の姿と重なって見えた。
(イエス様も、人々を導くその過程で悩んでいたのではないかしら?)
そして少女は先ほど、牢の中で思い出した聖書の一文を心の中でつぶやいた。

   汝ノ隣人ヲ愛セヨ

自らを愛するように隣人の者を愛するようにとの言葉だが、今の彼女には少しだけ違う意味のように感じるのだ。
(隣人、とはただ単に人間の事だけを指して言っている訳でないのでは・・?)
既に足元は炎に包まれている。熱さと痛み、そして熱気に苦しみながらも彼女は思った。
「光」と相対・隣接している「闇」の事も指しているのかもしれない。
それは、単なる神と悪魔の話だけではなく、人間が誰しも持っている自らの怯懦や欲望、狡賢さなどといった、己の心の中にある「闇」とそして善意や労わりといった「光」の心の深部。相対しているそれもまた、自分自身なのだという認識を持ち、そして愛せ、と言っているのかもしれない。これもまた自分自身の解釈に他ならないが・・・。
然し、人は光だけを追い求めがちで、直ぐ其処にある矛盾に気が付かず、鏡に映る「もう一人」の自分の姿から目を反らしがちだから。

焔が彼女が着ている簡素なリネンの服に焼け移った。熱い気流は彼女の服を捲し上げ、熱気が彼女の器官に入り酷い火傷を負ったそこは爛れ、ふさがれ呼吸することが叶わず、苦しみから逃れようと身を捩ると、彼女の金色の髪の毛まで火が移り、焼き始めた。肉を焼かれる感触、耐え難い苦痛、呼吸ができない苦しみ・・・・。彼女は全身を焔に纏った。

頭が朦朧となる。
頭が朦朧となる。
頭が、朦朧となる。

呻き、意識を奮い立たせて爛れた瞼を懸命に開かせて少女はもう一度彼を探そうとした。
だが、
視界に入る前に、少女の意識のほうが先に途切れてしまった。



その後の事はもう、分からない。


終了

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