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武器

私たちが勉強する意味とは何なんでしょう。

知識を身に着けるため、見識を広げるため、学校で習ってるから、将来楽したいから。
どんな理由でもいいと思います。
料理、登山、健康、機械、勉強の対象は何でもいいと思います。

料理だって知っていれば独り立ちしたときに食に困らなくなる。
登山だって万一山で遭難した場合、その知識でどうにか助かるかもしれない。
健康について知っていれば誰かが目の前で倒れていたら助けられるかもしれない。
機械だってもしこの世が世紀末に突入したら機械についての知識で生存競争を乗り越えられるかもしれない。
少々飛躍したたとえを出しましたが、知識というのは窮地に陥った時の心強い味方になるかもしれません。

私の例を挙げれば、機械、とりわけ車に関しての知識がある程度あるため大惨事を免れたことがあります。
ある冬の日、当時の恋人とのデート終わりに家まで送ってもらうとき、妙な違和感というか音がしました。なにかがおかしいから車を停めてと彼に訴えても最初は取り合ってもらえませんでしたが、私だって無意味に言ってるのではない、ある程度車の知識がある私の言うことを聞いてみてと強めの口調で言ったところ、少し走らせてから彼は近くのコンビニに入ってくれました。
時期は冬、雪深い地域に住んでいた私たち。彼はスノータイヤを自分で装着して走っていました。このスノータイヤを確認したところ、ホイールのボルトの一つがほとんど外れていてあともう少し車を走らせていたらボルトが道路上で落ち、最悪な事態になっていたかもしれません。
ここで万が一音を見て見ぬふりをしていたら、と考えると今でも背筋が凍る思いです。

このように、通常の学生生活で得る知識でなくても興味分野の知識を蓄えておけば役に立つこともあるのです。きっとこれを読んでくださっているあなたもそういう体験があると存じます。
”物事を知る”というのは一見その場で完結することのように思いますが、実は人生において活躍できる場面がどこかであるのだと思います。それは勉学、料理、趣味、なんだっていいと思います。
さらに役に立つだけではなく、自信にもつながるとも思います。何か一つでも興味の分野があり、”それについて私は知っている”、という自信があれば万が一、万が一ですが誰かに騙されたり利用されそうになった場合、切り抜けられると思います。
残念ながら、というよりかは幸い私はまだこういった経験がありません(もしかしたらすでに騙されているのかもしれない)が、誰が悪人で誰が善人なんて区別のつかない現代において心強い味方になると思います。
ここ最近は比較的被害数は減ってきているように思いますが、振り込め詐欺だってそういう新手の犯罪があるという知識とがあれば自衛になるかもしれません。私の祖母も数年前に振り込め詐欺の電話が来て危うく銀行まで行くところで思いとどまり、難を逃れたことがあります。この時、祖母が無事で良かったと本当に思います。

いつの日か新聞で見かけたコラムで「知識というのは親の庇護から外れた場合に自分を真っ先に防衛できる手段だ」、という内容を見かけたことがあります。このように捉えれば知識は武器です。物事を知っている、それだけでも盾となります。もちろんこの武器というのは誰かを傷つけるものではなく、己や周りの人たちを守るための武器です。ここで誰かを傷つけるような使い方をしてしまえばそれは武器ではなく凶器です。そんな凶器を私は所持したくない。

知識は武器とも凶器ともなりうる。
だからこそ正しい、人を守るための使い方をしたい。
そのためにはどのような使い方がいいのかまだ完全に把握できていないのでこれまた知識を蓄える必要がある。さらに知識という武器も手に入れるだけ入れて放置してしまえばたちまち錆びてしまって武器として役に立たなくなるので武器の手入れも必要。
武器というのは日常的なメンテナンスと数をそろえる、また引き出しやすいようにしなくてはいけませんが、これは一度使い方を覚えてしまえば自分の楯となり矛となります。
知識も手に入れるだけではなく、何度か意識的に使ってみればそれは使いやすくなり、自分のものとなる。

ひとり立ちした今、自分や周りの人たちを守るために私は今日も武器を手に入れます。武器を探している、という意識で物事を見てみれば憂鬱な勉強もそこまで憂鬱にならないかもしれないです。ただこれだけは明確にしたい。知識は誰かを傷つけるものではない、誰かの助けとなり希望となるのだと。

武器の正しい使い方を私はまだ習得できていません。習得するために今日も物事を知っていきたいです。

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