見出し画像

いま咀嚼してるから

割り増し空が青く見える日もある。
多分それは昨日の空の色なんか、深々快晴だったのか、鬱蒼曇天だったのか、ぽつぽつ羊雲だったのか、並々名の知らぬ雲なのか、ハッキリ言って覚えてないからで、それでも目の前のこの空が、いつ見たときより青い気がするのは、なんかとてつもなく適当で、なんかとてつもなく素敵だと思った。

公園のベンチ、背もたれに両腕をかけ足を組み、大して大きくもない体をいっぱい広げて自分の居場所を作る。ここが俺の居場所だ。
擦れたり寄れたりでいつのまにか少しみすぼらしくも見える、無駄にちょっぴり良かった吊るしを着て、いかにも会社員らしくって笑えてくる。そりゃそう見えるだろう。
手に持っていた鞄とは反対の、ビニール袋を取り出して、道行にあるコンビニで買った品々をしたためる。
底の方にあるペットボトルのコーヒーと、豚キムチの大盛りのカップ麺にどさどさとのさばる、わさびツナマヨと昆布のおにぎりに、レンジでチンするチーズナン。
我ながら怠惰過ぎて、良いチョイスだと思う。

1を引っ張り、3で引き裂いて、2にちょびっと残ってしまった海苔を取り出して付けて食べるかどうかを迷ってまあいいやと口に放り込むおにぎりは美味い。わさびがツンとする。美味い。

思えばいつからこの生活を続けているだろうか。勤めていた会社をクビになったのは…そうか先週か。いやはやまだ一週間も経っていないだと?なんだか目が潤む。
この公園はうちからそう遠くないから、毎度どこに行くのか知らんがスーパーやらに買い出しに出たり、サヤを保育園に送り迎えするあいつにバレるのも正直時間の問題だし、だったら最初からはっきり会社に捨てられたと言えばいいのだ。しかし

言えるわけがないからこうしてるんだろう?

誰が言うでも、俺の独白が言うでもなく、それはリフレインする。
わかっている、わかっているのだ。
いい加減目が潤むのはわさびがツンとするからではない気がしてしまって、いやもう一口食べる。
ではなぜ、こんな家の近くで、本来退勤する時間まで時間を潰して、働いているフリをしてるのか。

正直、最初から理由なんて、

あまりに目が潤むので、眼鏡を外して手の平の付け根でそいつを拭う。改めてかけなおすと、

「春花…?」

珍しく一つ縛りの妻は、あまり外行きの格好でもない服で走っていた。まずい!と思い俺は勢いよく飛び上がり、ベンチの裏に隠れる。
板の隙間から見える、その額には汗と、青ざめた顔には見開いた目が張り付き、なりふりなんて構わない必死さがあった。あんな春花は初めて見た。

通り過ぎて、もとよりさらに小さくなって行く背中を見ながら俺は胸を撫で下ろす。が、落ち着かない。

俺の知らないところでなにかが起きている。

その不安が新たに上塗りされている。

俺の知らない春花がいるのだ。

いや違うと、コーヒーに喉を潤させる。

しかしそれも違う。目の前で見た春花は本物だ。どうにも動悸が早くなっている気がする。

ダメだダメだ、とてつもなく落ち着かない。
いや落ち着いているだろう俺は。

袋に入っていたおにぎりを思い切り引き裂く。
途端弾けた!思い切りが強すぎてそれは地面に、砂まみれになってしまった。

あああダメだ、何がダメかはわからないがとにかくダメだ。

冷たいチーズナンの袋を破って、もぐもぐとパサパサそれを食べる。水が欲しくなる、コーヒーではダメだ。

喉を詰まらせた訳でもないのにそれくらいの気迫で水道までよたよた、やっとの思いで手を伸ばし、滝のような水圧のそれを下からあっぷあっぷとする。チーズナンは流し込まれた。

やっと落ち着いた気がする。
ふう、と胸を撫で下ろしては、状況を把握するために整理するのだ。
春花の格好、部屋着というにはいつもおしゃれな服を着る春花らしく、ぽわり暖色がよく似合うオーバーめの白のシャツに、ベージュ色のワイドパンツを履きこなして、底の厚めのローファーを鳴らして走る、何だかよくわからないが植物のいい香りが立ち込めてきそうなその姿。
今まであそこまで必死な春花は見たことがない。

ビニール袋に手を伸ばす。

考えてもみれば俺は、結婚してから一度でも春花のことを気にかけたことがあっただろうか。
いや、ない。俺は仕事が忙しかったから、春花とすら仕事仲間のような関係を続けていた。
いや、違う。仕事は忙しくなんかない。忙しいと思っていたのは俺だけなんじゃないか?
もう少しでもいろんなことに気が使えれば、春花が今何が好きで、何に関心を持ってるのか、そんなことも知らない俺はここにいないんじゃないのか?

カップのビニールを引き裂き、ビリビリ蓋を開ける。

大体俺は、なんでこんな近くで時間を潰してたのか。それは、すごく簡単なことだろう。
その簡単なこと、俺自身気がつきたくなかったのか、理由なんてないなんて、考えることすらしなかったろう。
俺は多分、いや絶対、

気がついてもらいたかったんだろう?

水道の冷たい水をジャバジャバ、線まで、いやそれを超えて並々に入れる。
気がついてもらって、可哀想だなとか、慰めを待ってただけだったんだ。それはなんというか、何よりも一番カッコ悪いじゃないか。
だから何も思わなかったと、嘘をついたんだ。

しかし、手は止まらない。
足は動かない。

気がついた。
春花の走って行ったほう、あれはサヤの保育園のほうじゃないか?

…!
サヤに何かあったのか…!?

しかし手は止まらない。
俺は、少しばかりふやけたそれを冷たいスープから引き上げて、ぽたぽたバリバリと食べる。

足は動かない。
今更どんな顔して会えばいいかわからないのだ。

ぽたぽたドス黒い水面落ちるのは、スープだけではなかった。

いま少し、許してくれ。
冷たいけど、少し辛くて、固くて、むせ返るような味がそこにあることを、いま咀嚼しているから。

まだ中学生です