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晴晴(原案バージョン)

その一言には、 まるで、と例えに並べられるものが 思いつかなかった。 その一言で、 あたかも彼女の顔が光ったように見えた。 俺にはそれが、どうも眩しすぎて、 直視することができなかった。 ...? 一 水溜りは、あまり好きではない。 理由は、靴を濡らされたりだとか、いい目に遭わされたことがないからだ。しかしながら、 生物学的観点からすれば命の源である訳で、 この感情には、先祖の努力に甘んじる現代人の勝手な考えと、人間が生態系の頂点であると信じている傲慢さが背景にあるのだと思い、それはそれでどうしようもないことだなと結論に至る。 そろそろ梅雨だな、 雨の降った後の、においまでもがじめじめとしている町にそう実感しながら、フライング気味に咲いてしまった朝顔に浅はかな同情をしながら我が学び舎へと向かう。 栄山高校、地元である栄山市の中で ナンバーワンの生徒数を誇る高校であり、 地元でもそこそこ名の知れた進学校でもある。 しかしながら別に学力が高い訳でもなく、故にどの生徒もとりあえずここかなと適当な思考で入学したに違いない。 そこに俺、心衣 静(こころぎ しずか)は通っている。 我が、なんて偉そうな物言いをしたが、 俺は四月に栄山高校に入学したばかりで、まだ特別棟だったり、入ったことのない場所がそこそこにあったりで、未だに慣れてなかったりすることがいくつかある。 大通りというには狭く、細道というには整備の行き届いた道を、右に曲がる。 一つ目に慣れないのがこれだ。 いつのまにか目の前に相対すのは、山間の森の中にある学校、の手前の、ありえないほど長い坂道である。これがどうにも慣れないのだ。 しかもそれに重ねて学校へと向かう道はここしかなく、避けようのない困難というわけで、 1トンはあるんじゃないかというくらい重くなってしまった一歩目を踏み出し、歩きだす。 この一本道は、左右にそこそこ大きめな家が建っているが、住宅街の範疇ということでよいのだろうか。それにしては傾斜がきつくないか。 ちくしょう、なんで朝からなんでこんな重労働をしなくちゃいけないんだ。 登る側としては傾斜こそきつくはないのだが問題はその長さである。見たことはないが駅伝選手が走るような道だ。 他の生徒は、おそらくもう慣れたのか、はたまた皆体力が底なしなのかスイスイと歩いていく。 石の上にも万年であるこの俺に、毎日この坂を登れというのは、あまりにも辛辣である。 それはまるで、鬼に小判、織田信長に眼帯のようなことだ。 いや違うか、全然上手くもないな。 膝を抑えながら、また一歩を踏み出す。 ええいそんなことはよいではないか、 今は目の前の事実を噛み締めながら歩いていくしかない。独眼流でなくとも、乗り越えねばならぬのだ。 進め!敵は本能寺にあり! 「学校だよバカヤロウ」 痛い!頭に何か衝撃を受けた。 後ろを見ると、腰を抜かしそうになった。 一瞬鬼の化け物かと見間違ったが、ヤツだった。 畠山 宗、 これではたけやま しゅうと読むらしい。 ありふれていそうで、なかなかそうでもない名前で、初めて呼ばれる時は「ハタヤマ」だとか、「ムネ」だとか、少なくとも1文字は間違えられるらしい。俺はまず読もうともしなかった。 「何で分かった、エスパーめ!」 「何で道で馬にまたがってるフリして、 バレねぇと思ってるんだ、静よ」 ぐう正論、悔しい。 宗とは中学時代からの付き合いで、俺が 友達の輪からまんまとあぶれたところを、 ヤツが拾ってくれた。 その見た目は、長身からなのか文字通り大人顔負けの凄みがあり、クラスメイトもそういう職業を疑ってしまうが、実のところは勤勉であり、そこそこに家族思いでもある。 「しかし宗、聞いてくれないか」 「聞かなくても勝手に話しだすだろうお前は」 「まぁそう言うな。それが、あのことでどうするべきか悩んでる」 いつのまにか坂を登り終え、ようこそ我が栄山高校へ、校門からまっすぐ昇降口へと向かう。あのこと、というのは、この俺心衣静の精神的なことに深く関わる上、心衣静が青春を人並みに謳歌する上で非常に重要となってくる、 いわば死活問題である。 一年生のフロアは一階であり、俺も宗も一組であるため靴を履き替えてすぐ教室に着く。 その死活問題というのは、これだ。 ゆっくりと、教室のドアを開く。 すると、眼前には閃光が走った。 焼けんばかりの光がそこかしこに溢れ、目は潰されかけてしまう。 たまらずドアを急いで閉めた。 やっぱりダメだった、今日も治らなかった。 「ダメそうだな、その顔は」 黙れ!追い討ちをかけるな! しかし、どうしてこんなことになったのだ。 「あいつって、叶峰 香だろ?お前と何かあったのか?」 叶峰 香、これでかなみね かおりと読む。 成績優秀、頭脳明晰、八方美人である彼女は、 クラスでの評判もべらぼうに良く、 いわゆるマドンナである。しかしだが、 ドアを少しだけ開ける。 また先ほどの強烈な光が、網膜を襲う。 思わず手で目を伏せようとしてしまうが堪え、 その光の発生源を、よく注視する。 叶峰さんは一番前の自分の席に座り、 クラスの女子と談笑なんかしていた。 光っているのだ、その彼女、叶峰香の顔が。 先ほどの閃光の正体もこれだ。 人の顔が眩しく見えるというのは、比喩としてあまりにありふれた、月並みな表現だというのは既に世の常であると思う。でもそれを地で行く女子高生など聞いたことあるか。俺はない。 しかしながら、どういう訳か事実として叶峰さんの顔は閃光を放ってしまっている。 また扉を閉めて瞼をしぱしぱとさせると 頭痛を起こしそうな予感がして、 廊下にて座り込む俺と、それを見下ろす宗。 きっとこの光景を見た人間は、 学校で白昼堂々と弱者からカツアゲをする、 鬼の妖怪の姿が見えるのだろう。 「にわかには信じがたいがな、人の顔が光るなんて」 宗の言い分もよく分かる。宇宙人じゃないんだから顔なんて光る訳がない。しかし、宗はおそらくそんな意味では言っていない。 何故ならあの光は、宗には見えていないのだ。 「嘘じゃないぞ、本当に光ってるんだ」 座り込んだまま、擡げた頭を軽く抱えて答える。 「静お前な、小説じゃねえんだぞ」 吾輩も本当にそう思う。 指のあいだ越しに見えた、通り過ぎていく生徒は皆、ギョッと言うような表情をして、宗を見てすぐ見ぬ振りをしていく。 俺にしか見えない光。そう、明らかに幻覚である。しかしながらその威力は絶大で、 授業なんかでは俺は一番後ろの席で、香さんが 一番前の席なんだから黒板が真っ白にされてしまうし、授業が終わっても、目の疲労感だけが 異常に蓄積されてしまう。 治せるものなら腕の一本も安いものなのに、 一体どうしたものか。 眉根を寄せ、揉んでいると、宗が口を開いた。 「いいこと思いついたぞ」 いいこと? その顔は、いいことを提唱するものにしては あまりにも悪びれた表情をしていないか。 二 期待した俺がバカだった。 トイレにて顔、というか瞼を洗いながら、何故宗を信じたのかを酷く後悔する。 宗は、俺の瞼にペンで目を描きやがった。 「これなら、目閉じてても問題ねぇだろ」 宗曰く、月並みな表現には月並みな対策が 一番良いらしい。 ああ、諸君らの言いたいことは分かる。 何の理屈にもなっていない。 お陰で一時間目から大目玉を食らわされる羽目になった。今日は運も悪く、その授業は社会で、担当教師は生徒指導の村松である。 もちろん言葉になってないありがたいお叱りをくらい、俺たちに関係のない今薬物がどうとかみたいな話もされ、授業中に洗ってこいと跳ね飛ばされて、今現在である。 水道の蛇口を止め、ハンカチがなかったから濡れた手を振り水気を切る。 トイレの外の壁にもたれかかり、いかにも退屈そうにしている宗に話しかける。 「お前俺がまじめに悩んでんの分かってるよな」 「ああ、分かってる。さっきのはほんの冗談だよ」 「あのなぁ」 「気にすんな、お陰で一時間目もサボれそうだしよ、ほら」 宗からハンカチを渡される。 黒いが、毛羽立った繊維がそこそこいい乾いた肌触りで、未使用だと分かる。 それなら、と遠慮はせず受け取り、これ見よがしに思い切り顔を拭いてやる。 こんな目にあっても、宗に相談するのには訳がある。それは、宗はどんなうさんくさい言い分でも悩み事は基本すべて承ってくれるからだ。 過去中学では、一年の時、三年の先輩から「俺の栞を探してくれ」という依頼があった。 なんとその捜索範囲は市立図書館全土であったが、それを宗は、様々な情報を洗い出し、ひょんなことから数分で栞を見つけ出した。それが、初めて見た宗の仕事である。 宗ならダメでもともと、話くらいは聞いてくれるだろうし、あわよくば、と思ったからだ。 「しかし、一体何が原因でマドンナの顔が光りだしちまったんだ?」 宗が切り出す。 「わからない」 分かっていれば相談はしない。 「いや、そうだろうけどよ、いつからそうなったとか、ある程度情報になりそうな事はあるだろう?」 そう宗に言われると、言おうとしていた事が 詰まった。 心当たり、ないわけではないのだ。 そうして、宗に向けて事の顛末を話していく。 それは一週間ほど前になる。 俺は図書委員会に所属していた。 理由は、全員参加が基本である委員会活動を、別に志もなくなすがままにされていった結果、何と、叶峰さんが重く、美しいその口を開かれたためなのだ。 「先生、静くんは図書委員がいいと思います」 辺りが途端にどよめいた、まさかあの眉目秀麗完璧人間である叶峰さんから、人のゲロにも満たないこの俺の名前が出てきた。 しかも、叶峰さんと一緒の委員会である図書委員会をご指名なさった。 一瞬、どころか感覚で言えば悠久の時を、 その莫大な情報の処理の為、思考が停止した。 しかし、それを飲み込んだ途端、俺の脳内は 嘘みたいに華やいだ。 その背徳感、優越感たるやお金で買えたものではない。クラス中の羨望の眼差しで、どれほど気分が良くなったことか。我慢したおしっこの比ではない。 やっと、やっとだ、中学で得られなかった 薔薇色の生活が、今動き出そうとしているのだ。 そんな心持ちで挑んだ図書委員会。 初仕事は図書室の貸し出しカウンターの受け付けである。 しかも、叶峰さん付きの。 ああ、叶峰さん、貴方と逢瀬を交わしたいためにどれほどの夜を過ごした事でしょうか。 「おい、ここのくだりいるか?話に関係あるとこだけ話せ」 うるさいやつめ、今いいところだろう。 ぷりぷりと怒りながらも、話に戻る。 しかしながら俺は、中学ですら宗の手助け無しでは友達をろくに作れなかった男。 その名は伊達じゃなく、もちろんそれは、 叶峰さんの場合も例外ではなかった。 一通り人の波が過ぎると、静かになった図書室で二人きりになる。 「......」 「......」 気まずい沈黙。 流石にまずいと思い、先に口火を切ったのは 俺で、 「な、なんで俺なんか、わざわざ指名したんですか」 と、ずっと気になっていた疑問をぶつけてみた。すると、話しかけられると思ってなかったのか、あ、とかえ、というような声をあげ、 少しの間の後、 「うーん、タイプだったとか...?」 と言った。 それから、起きたのは保健室だった。 先生から話を聞くと、俺はひゅー、すとんといきなり気絶をしたらしい。 なんて惜しいことを、あと少し長く立っていられたら、「俺もです、叶峰さん」と手を取り合い、夜の街へと二人だけの大逆転ラブロマンスが始まるはずだったのに。 結構ふざけたつもりだったのだが、横槍もなく妙だなと思って見ると、宗はいたって真剣に聞いていた。うるさいとは言ったが、ないとないでさみしいなと思った。 それからというもの、毎週木曜日は図書室で叶峰さんと過ごすようになった。 俺は良いところを積極的に見せていこうと、 叶峰さんの仕事のほとんどを手伝った。 「待った」 急に言うものだからびっくりして、少したじろいでしまった。 「手伝ったって所、主に何やった?」 さっきはつっこんで来なかったのに、今度は何だ。いやまさかと思った、宗がまじめな顔をしていたからだ。 「何かわかったのか」 そう聞くと、いやとかなんとかいって何をやったのか答えるのを急かされた。 「えっと、確か返却図書を書架に戻す仕事が多かったかな」 事実の通りに答えると宗は苦笑いをし、話を続けてくれと言った。 気になりはしたが、心底というほどではなかったので、すぐ話に戻った。 そして一週間前、常時活動も終わり、俺も叶峰さんも誰もいない図書室のカウンターで、なにをするでもなく過ごしていた。窓から差し込んだ夕日が、浮かんだホコリを陰にして、空気の流れを感じさせた。そうしていると叶峰さんが、自分の荷物をまとめ出した。 ふと時計を見ると、完全下校時刻はもうそろそろで、俺も帰る支度をしようと思った。 「心衣くん、今日もほとんど手伝ってくれて、ありがとね」 俺は話しかけられてとっさに、恥ずかしくて顔を下へそらしてしまった。何せ狭い受付カウンターに二人も入ってるんだ。そこそこ距離も近く、どきどきしない筈もない。 「あ、ああ、いえ全然、問題ないですよ」 下を向いたままそう答えても返答がなかったものだから、ふとなんだろうと顔をあげた。 「うわ!」 思わず大きく後ずさる。 叶峰さん、彼女の顔が、俺の顔の間近まで迫っていた。一瞬だが、とんでもなく近くで目があってしまった。すると、叶峰さんは、 「心衣くん、これからも頼りにしてるよ。」 「じゃあね」 その一言で、 あたかも彼女の顔が光ったように見えた。 俺にはそれが、どうも眩しすぎて、 直視することができなかった。 しかしながら、気が付いた時にはもう彼女はいなかった。俺は、言葉の処理を図ろうと、何度もその言葉をたしなめたりした。 故に、思考やらもろもろが停止してしまい、 動けずにいた。 心臓の動きが速い、抑えなくてもわかるくらいに大きな音を立てている。 何度も考えているとそのうち、首元が冷たくなるような感覚が、やがて頭痛になり、そのまま床へと倒れてしまった。 その次の日から、彼女の顔は光っていた。 全てを話し終え、宗の顔を見た。 宗はいつのまにか地面に座り込んでおり、 顎に手を当て俯き、何かを考えているようだった。俺はそれを見て、少しだけぞっとした。 こいつは本当に解決する気でいるんだ。 そしてどこかで、 こいつなら本当に解決してしまうんだろうと思ってしまったからだ。 宗が顔をあげた、そして何かを思いついたように少しだけ目を見開いた。 「今日は何曜日だ」 「...昨日は体育があったから、木曜日だ」 すると宗はまた、にやりと笑った。 「都合がいいぜ」 その笑顔はさっきと同じように、恐ろしいほど悪びれた笑顔であった。 三 その後、宗はやる事があるとかで、 俺は一人で教室に戻った。 もちろん村松には、宗がいないことを咎められたけれど、俺は一貫して知らんぷりで通した。 そして迎えた放課後、俺は図書室へと向かう階段を一歩ずつ着実に登っている。ある理由から少し遅刻してしまったが、まぁ大きな問題はないだろう。 今日は木曜日、つまりまた叶峰さんと会えるという訳だ。しかしながらそのご尊顔が光っていると俺の目には見えない訳で、なんとも都合のいい第3の目の開眼を望むばかりである。 結局宗は戻ってこなかったけれど、あいつは一体何をしているのだ。 降りてくる用務員さんに相対し、挨拶をする。 まあ俺には関係ないかと思うと足が軽くなったので、そのままスキップで上がってすぐの図書室の扉へ向かう。 ドアに手をかけようとして、その手を近づけると、一人でにドアが開き、目の前には、 見るも恐ろしい大黒天魔王様が突っ伏していた。 「ぎゃあ。」 かと思えばそれは宗であった。 「なんだ、宗か、おどかすなよな」 「人の顔見て何勝手に驚いてんだバカヤロウ」 痛い!本日二度目の暴力! しかしこれに野次を入れると三度目の可能性も ありえるのでそれは回避しておく。 「ほら図書委員様よ、さっさと入れ」 はたかれた頭を軽く抑えながら、宗を通り過ぎて入る。 ? 何故だ、図書室を利用する生徒が一人もいない。どんな日だろうと、始まりは本を返却にくる人たちでごった返す。なのに今日は嫌に静かすぎる。 カウンターには叶峰さんが立っている。もう見なくても分かる。すごく眩しい。 しかしながら、やけにおとなしくはないか。 手を前で小さく組み、まるで魂が抜かれたかのように立っている、ように見える。 「宗、これどういうことだよ」 ふりかえり訴えると、ぴしゃりとドアが閉められた。 「これから分かるさ」 そういうと、宗はカウンターに近づいていき、 振り返って腰をかけた。 どう話そうか、と独白っぽく呟くと、 決まったようで、一度だけ喉を鳴らす。 「まず始めに、これからする事は治療と、 その事に対する俺の勝手な推敲だ。それらを行うためにはここにいなければならなく、よって図書室を勝手に封鎖させてもらった。静、途中用務員さんさんとすれ違ったろ?あれは入ってこようとする一般の生徒を抑えるために俺が雇った」 用務員さんを雇った。 宗よ、かなり淡々と言ったが法に触れたりとかしないのか、それは。 「一つ目はすぐ終わる、しかし二つ目は興味がなければ途中で帰ってもらって構わない、分かったな?」 俺も叶峰さんも頷く。 「よしまずは、静が言っていた悩みについて だが、たしか話では、叶峰の一言によって、お前の中の叶峰の顔が光り出したんだよな」 「お、おい」 「大丈夫だ、叶峰には既に話をしている。ちょっとの恥じらいくらいは、我慢してくれ」 そう俺に言い聞かせると、また話に戻った。 納得はしていないが、黙っておこう。 「その一言、あれは明らかな嘘だ」 嘘、その言葉の響きはしっかりと聞こえた。 しかしながら、その言葉の意味が理解出来ずにいた。 「根拠もあったが、それはもういい」 というと、カウンターに座った宗は振り返って、 「本人に聞いたほうが早いだろう」 と、叶峰さんの方を見た。 叶峰さんは、困ったような対応をしていた。顔は見えないけれど、俺はそう思った。 「宗、本気で言ってるのか。叶峰さん、困ってるじゃないか」 しかし宗はこちらを向かないまま、手をこちらに向け、待て、と言ったような仕草をとった。 数秒の沈黙の後、叶峰さんは 「...はい、嘘です」 と、はっきりそう言った。 嘘? そんな、それこそ嘘だろう。 俺は本気でそう思った。 きっと宗に脅されて、 そうに決まってる。 「宗ーッ!!!!!」 俺は気が付いたら、宗の胸ぐらをつかんでいた。しかし宗はそれをものともせず、俺を跳ね除けた。着地に手がついた。ジーンとした打撲感がそこにはあった。 「静、叶峰は本当に頭がいいらしい、 ここで嘘をついても仕方がないということを、 もう理解している。しかしそうじゃなくちゃ、人を騙すような真似はできないだろうな」 言っている意味が、分からない。 首元が寒くなる。 「こいつは、この叶峰香は、ある事に利用するためだけに、お前を誑かし、騙したんだ」 「お前のことをタイプだとか、手練手管言われただろうが、それらは全て演技だったんだよ」 頭に冷めた血が登り、ズキズキと痛む。 酷い、頭痛だ。 「きっと叶峰が俺に脅されているように見えたんだろう。困り果てて、お前に助けを求めているように見えたんだろう。それらの感情は、 全て騙されて作られた物なんだよ」 ダメだ、立っていられない。 もう、聞いていたくない。 体がふわりとする感覚があり、何の抵抗も出来ぬまま、後ろに倒れこもうとしていく。 気絶していくのだと、はっきりわかった。 「静ーッ!!!!!!!!!!!!!!!!」 耳に通り抜ける爆音により、あやうく気を失いかけた所から気が付いた。 ダンと足を後ろに踏み、とどまる。 「どうだ、大丈夫か具合は」 「いい訳な...」 言葉が詰まった、それを聞かれてハッとしたからだ。 頭痛もなければ、体のだるさもなくスッキリとしている、そしてなによりは、 光っていないのだ、叶峰さんの顔が。 そしてついに見えたその顔は、想像していたものとは実にかけ離れていた。 目は据わり、眉根を寄せて今にも噛みつきそうな顔をしており、その目にはかつてに感じた光など一筋も走ってはいなかった。 その顔は、悪い奴の顔だ。 そう思った瞬間確信した。 俺は洗脳されていたんだ。 それを思ったのを様子を見て、俺が治ったことを感じとったのか、宗はまた話しだす。 「静は叶峰によって洗脳されていた。それはさっきの静の行動からもよく分かる。 しかしながら、静には何と効果が効きすぎて叶峰の顔は光り輝いてしまった、ってとこか」 俺は初めて宗の言ったことを納得できた。 そんなにはっきり言われると少し恥ずかしい。 「これで一つ目は解決、しかし、まだ話は終わってねぇ」 すると、叶峰さんはカウンターにある荷物を荒っぽく取り、 「話は終わったでしょ!私は帰らせてもらいます」と言った。 そのひたいには、明らかなほどに脂汗が滲んでいた。 「ああ、好きにしろよ、嘘つき」 叶峰さんは一瞬、何かを言おうとしたように見えたが、弱った顔をしてすぐに図書室から出て行った。 「よし、それじゃあ二つ目だ」 そう言うと、宗はカウンターから降りて俺の近くまでやってきた。 「まあどうせ、叶峰にいられても話しづらかったろうし丁度いい。ここからするのは、あくまでも俺の妄想の話だと理解してくれよ?」 俺は、何を話されるのかわからなかったが、 ひとまず頷く。 「静は、叶峰に騙されている、それは今日の朝話を聞いた時点で分かってた。しかしながら分からないのは、何故騙していたのかということだ」 何故騙していた、そう言われても俺にはピンと来なかった。なにせ叶峰さんとはそれほど付き合いもなかったし、騙される理由も思いつかなかったからだ。 「そうなんだ、静に対して何か目的があって騙すなら納得できる。考えられる所で言えば金の無心だったり、とかか?しかしながら静は人に噂されるほどのセレブでも、宝くじを当てる幸運の持ち主でもない」 それは自分でも納得できるが、はっきりと言われると少しだけ腹が立つな。 「悔しいけど愉快犯、とかじゃないのか?」 「いや、その線は薄いだろう。何故なら叶峰はあれだけ焦って帰って行ったんだ、俺に推論されるのが嫌だったとしか思えない。なら何か知られてはいけない理由があるのではないか?」 なるほど、と驚いて目を少し見開く。 やはりこいつはとんでもなく鋭い。 「それって、」 「そう、静を騙すことに、静である理由はなかった。つまり、お前を利用して、何か他の目的を遂行しようとしていたのではないか?」 その一言には、 まるで、と例えに並べられるものが 思いつかなかった。 大したことではない、しかしどうにも、 俺はこいつに何か絶対的な力を感じていた。 「たしかだか、静は叶峰の仕事のほとんどを手伝ったんだろ?その中で一番多かったのは図書を書架へ返却する作業。まあ面倒な仕事といえばそうだし、このために騙したと言われても何ら違和感はない。」 確かにそうだ、やっていた時はなかなか移動ばっかりで大変な作業といえばそうかもしれない。 「で、叶峰から頼むのか?その手伝いは」 「いや、最初は率先して俺がやると言ってたけど、途中から叶峰さんから頼まれる事が多かったかな」 宗はまた苦笑いをして、一つ咳き込み話を続けた。 「やはりそうだろうな」 「…どういう意味だ?」 疑問を投げかけたが、宗も話を頭で整理しきれていないのか顎に手をやり考え出した。 ふと時計を見ると、もうそろそろ完全下校時刻に近い事に気が付いた。 「静、覚えてるか?中一の時の市立図書館栞紛失事件」 覚えている、というかつい今日思い返していた事件だ。 「当然だろ、あんな華麗な解決、忘れる訳がない」 宗は少し驚き、照れ臭そうにしたがすぐに頭を振るい切り替えた。 「あの事件では結局、栞は本の中に挟まれていた。本も栞も紙でできているため、外から見つけるのは至難の技だ。よって開かなければわからない。いいか静、本の本質は開かなければ分からないんだ」 「何が言いたい」 宗はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりの溜めをつくり、答えた。 「叶峰が本を返却する仕事を頼み込んだ理由、それはお前が縁を切っても問題ない人間だからじゃないか?」 「な、なんだそれ」 まあ分かってはいたけど、いざ言われると悲しい。この感覚、今日で何度目だ。 「今日の叶峰の動向、全て調べさせてもらった」 「お前それってつまりストー」 「おっとみなまで言うな、大丈夫、すでに校長も雇っておいたからな」 それはそれで大丈夫じゃないだろ。 「叶峰はここ最近、校内のある連中と連んでいる。それもかなり徹底して秘密裏にだ」 ある連中?秘密裏にとは、まさか逢瀬でも交そうとしているんじゃないだろうな。 だとしたら宗の行為はかなり咎めるべきでは? 「そして例の情報通に連絡した所、そいつらはかなりの不良くんたちだと分かった」 ここで言う例の情報通というのは、 俺も詳しいことは知らないのだけど中学時代から彼をサポートしている人間のことらしい。 不良?不良と秘密裏にって、まさか。 宗は俺の様子を察し、にやりとする。 「そう、その不良はここ最近巷を賑わした薬物販売グループの一員だった」 俺は、尻餅をついてしまった。 まさか、この学校で、現実で、そんなことが本当に起こっているとは思いもしなかったかはだ。 そして、心当たりがあった。 俺は趣味でもよく図書室を利用させてもらうが、ここ最近木曜日、叶峰さんが居る時にだけ、いつもは見ない、側から本をを読むようには見えない人間がよく来ていた。 叶峰さんのファンだとか、かなり楽観的に考えていた。しかし、まさか。 宗が口を開く。 「叶峰香は薬物依存症であり、また世間体を異常に気にしており、不良グループとの連絡手段として本に紙を挟み、静にそれを返却させていた」 「日によって使用する本も選んでたんだろう、ここ最近に限ってマニアックな本が集中的に借りられている。それに静にさせたのも、最悪の場合静に全責任を負わせる事も視野にいれていたんだと思う」 宗は言い終わると、ペットボトルの水を取り出し口に流し込む。 その間、俺は驚きというかなんというか、えもいえぬ感情に陥っていた。 俺の目の前で、しかしながら俺はそれには気がつかず、そんな事が起きていたのか。 俺の表情を見てか宗が付け足す。 「あくまでもこれは推論に過ぎない。まあ、事実に近しい根拠は大量なんだがな」 「例えば、その返却カゴ」 宗に指で促され、カウンターの上の返却カゴを見る。 「それを確認すれば、事実かどうかはっきり分かるんじゃないか?」 たしかに。 宗の様子から、宗からこれを告発するつもりはないようである。つまり叶峰香の行為は、俺の選択一つで無かったことにもなるのであろう。 ひとつだけ深呼吸をし、胸を撫で下ろす。 意を決してカウンターに近づいていく。 俺は手に取ったのだ。 カウンターの上の俺の荷物を。 「宗、今日はもう帰るよ」 宗はあっけからんという顔であったが、すぐいつも通りに戻る。 「それでいいんだな?」 「ああ」 それが俺の選択である。 四 さすがにもう陽は傾き終わり、夜の暗さがだんだんと空を支配しては、地面やらから溢れるじめっぽい暑さとコントラストを作る。 帰り道の下り坂で、沈黙のまま宗と横に並ぶ。 「…なあ、聞いたら良くないかもしれないが、何故確認しなかった?」 宗が聞く。 「なんでだろうな」 そう答えておく。 もちろん、既に叶峰香に好意という好意は毛頭も残ってはいなかった。同情もしていない。 しかし、俺は確認しなかった。 そうしてしまった瞬間から、俺の人生は後戻りの出来ない所に行ってしまう気がしていたからだ。 「まさか、まだチャンスがとか思ってんじゃねぇだろな」 「まさか」 俺一人ならそうでもよかったんだが、宗を巻き込む事になるなら話は別だ。 宗は、こいつは、これからきっと色んな事件を解決していくだろうし、その度に困っている人が集まって来るのだ。 高校生になってすぐ、俺なんかの為にそれをやめさせてたまるか。 「しかし、宗は何故俺を助けてくれたんだ?」 思っていた疑問を聞いてみる。 少し思案するように空を見上げる宗。 「なんでだろうな、って言いたいとこだけど、友達が悪い女に捕まってるとこ、ほっとけねぇだろ」 なんと。 こいつは恥ずかしげもなくよくも。 「…そうかもしれないな」 「それに、これからも静には助手として頑張ってもらわないとな」 頭に血がのぼる。 「だ、誰が助手じゃぁーい!!!!!」 恥ずかしさはとうに未明、夜風はまだ寒さを含み、青くさい匂いがしたような気がした。

まだ中学生です