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襖(仮名)

少しだけ、魔が差してみたかったのだ。

その一画だけはこの町の中でも随分と時分違いで月並み時が止まったよう、しかしながら鬱蒼繁茂する竹や雑草は留まるところなく背を増すばかり、囲まれ包み込まれ、だんだん森林化は進行するばかりである。

その家屋は、どこにだってあるような住宅街にふと突然間違ったようにあった。
石畳や門構えが立派だった頃はおそらくもう誰の記憶にもなく、生きたけもの道だけが残るその奥には、長年コツコツと篠突いた雨や吹き荒ぶ風により瓦すら朽ち、襖はほとんど盗まれたか土くれになるかしてあまりに風通しが良い、そんな家屋があった。
時代に取り残されたそれは今に束にぼろを出し、cascade的崩壊を起こしそうだが、そうはならない。不揃いが不揃いを支え、そのはずがそうしたまま呼吸するように至極自然としている。今も粗方がそこに残る所以、奇跡的なマリアージュがそこにあるからだ。

それは夏の、途轍も無く暑い日だった。
歳の頃やっと十を迎え、聞かれる度両の手の平を目一杯に広げられるのがあまりに嬉しかった事を覚えている。

夏休みには午前中、地域の活動で学校が開けてるプールに行った。
泳ぐのは得意じゃないが、ひんやりとして気持ちが良いし、何より行くとアイスが貰えるから、嬉々とし早起きをして、水泳帽を被ったままで駆け向かうのだ。

その日もいつものように、どころか何故だか一層燥いで、上がる昼前の頃にはもうくたくたで日照りの下、プールサイドに横たわっていた。
かけ水を受けた石のタイルにはまだ日の温かさが残り、その背中はじわじわとお灸のようで心地よい。横目に見る割れ目には、処理から免れた名も知らない植物が芽を出して、その根を強かに張っていた。
思えばプールという環境は、雨が降らずとも絶えず水を摂取することができるから、そこに滞留することが可能な植物にとっては楽園かもしれない。今はこのようにして人の管理が行き届き、そこはかなく小綺麗に整えられてはいるが、ひとつ人類がいなくなった夏にはきっと青々とした景色がプールサイドには広がっているだろう。その頃にはきっと亜熱帯だろうから、バナナの木なんかが生えているといい。するとフラミンゴが飛んで来たりするのかもしれない。プールには壊れた下水からやって来たワニがいてもいい。

そんな事を考えていると、途端ざぶりと水を被された!いきなり吸い込んでしまったから何が起きたかもわからず、げぼげぼと咳き込んでしまう。苦しい!目も痛い!
顔面の水をぴしゃり払って眩む目に見たのは、銀色のバケツをもった先生だった。

「さあもう昼メシ時だ、帰った帰った!」

正直なとこもう少しこのままでいたかったけど、怒られるのは怖かったので、足元に置いていたバスタオルを急いで羽織り、付いているボタンをしめながらジンジン熱い床を跳ね駆けていった。

水を吸った水着というものは海パンだけでもやはり重たく、肩にかけたプールバックは行きと比べてあまりにもずっしりとしていた。
アブラゼミがジリジリ、ビーチサンダルはペタペタ、その帰り道の足取りはクタクタなぶん半ば千鳥足のように、半ばそれがおもしろおかしくて、ゆらゆらゆらゆらと歩みを進めてみる。水泳というのは全身の筋肉を使うからというような事をダイエット特番で観てからとても疲れるようになった気がする。考えてみれば五歳くらいのころはどれだけ動いても疲れていなかったような気もする。これが老化というものだろうか。

ぺたり、ぺたりと足をぢっと見つめ、まるで舞踏会のように一歩をしたためているとごちん、

痛い!額を打ち付けた衝撃!
後ろに尻もち、手もついてずりりと擦りむいた感覚もある。顔を上げると、道の真ん中を歩いていたつもりがいつのまにか路肩に寄っており、ぶつかったのであろう電柱が目の前でずんとカンカン晴天を突き刺していた。急な痛みに泣き出してしまいそう、しかしそれは年端もいかない子供のすることだ、と手を握りしめ耐え、静かに苦悶する。
なんだか疲れてしまったのでそのまま横にでもなってしまおう、そう思って頭を硬いアスファルトにつけてふと左を向いた。

当然そうなるかのように、そこにあったのだ。

いわゆる住宅街、車だってたまに通るくらいの一方通行の道に、切り取って貼り付けてきたような違和感を孕んで、そこにあった。
それが先の家屋だった。

またふと体をそちらに向け、胡坐を組む。
それは言うなれば、と大きい言い方をしようとしてもどうやったって月並みなそれになるしかない、まさしく吸い込まれるような感覚を伴って、痛みもとうに止み、ふらふらと立ち上がりそれに向かって歩き出した。
入り込むごと濃くなる薮を掻き分けながら澱みなく進む。

ずぶり。

足速ながらふと音のしたほう、足を見ると、赤黒く濡れながらぬらりと光る、鋭利な石が足の甲の乗っていた。そう見えたし感じた。

そう見えたし感じたことに焦燥した。

それは確実に、突き刺さっている。
足の裏の皮をびりりと割り、肉を割きながら骨の隙間を削って進んだり、押し広げたりで、その大きな石は貫通、ぬらりと濡れた顔をそこから出してきたのだ。

しかし歩みが止まらない。
おかしいことはわかっている、しかしながら薮を掻く手は次へ次へと、歩む足には未だに濁る気配すらない。
こんな怪我をたった今負ったのに、痛くない。
だから一目で認識できなかった。そしてもう一つ。

おかしいことはわかっているのに、俺はむしろ歩みを止めることのほうがおかしいように感じ初めている。いいやおかしい、この思考は俺じゃない。頭の中にもうひとりの俺がいる。そいつは意思を持ってこの体を動かしている。暑さからではない汗は止まらない。

家屋はついに目の前まで、俺はついに家屋の前までやって来ていた。襖の全て取り払われたそれはずいぶん風通しが良く、様々が生い茂り野生に帰った畳や、新たに分譲された生き物たちの巣やらがよく見える。

俺は疑うことなく縁側をよじ登り始めた。
足をかけるとすぶり、突き刺さった剣山のような石がその体を顕にし出そうとする。しかし痛くない。これは当然のことであるのだ。いや違う、そんなわけない。
きいと鳴く床に飛び乗って、また俺は歩き出している。どこに向かっているのかはわからないが、この家屋、外から見るより相当広いようだ。天井こそ2階があるのかそこそこだが、入って見えた景色はプールより広いし、すでに二十畳は跨いだ気がしている。まっすぐ進み続ける体とは逆に顔を振り返ると、緑に赤い斑点がぽつりぽつりと残されて、ずいぶんグロテスクなヘンゼルとグレーテルだと思った。

気がつくと、立ち止まった。
なんだ、と思って前を向くが、そこには壁、

ズキン。

強烈な、それでいて鮮明な痛みがフラッシュを焚いたようにやって来た。堪えられるはずもなく床にぱたりと伏せる。苦悶が音を伴って口から漏れ出した。
途端同時に、ぷつりと糸が切れる感覚、頭の中が晴れていく。体が戻った。
動けるようになり、拳を握り締めながら顔を上げると、

それだ。
見てすぐ、そうわかった。

襖は全て盗人やら泥棒やらに盗まれたと思っていたが、残っていた。屋根を貫いたように天井重ねて穴を開け、そこから陽光が太い線を描いて、部屋のど真ん中に間がおかしく立つ襖を照らしていた。それがやたら堂々と、あたかも何もおかしくないように立っているので、俺はすごく複雑な、怒りにも近い感情を抱いた。
視界は揺らいで、立ち上が


〈 お詫び 〉

ここまで熱心に読んでくださりありがとうございます。突然で申し訳ありませんが、この話に続きはありません。

著者が書いている途中で死んだ、とかそういうたいそう物語らしいことではなく、とある事情で私のもとにこの書きかけの原稿が渡されました。私は著者本人でなくその友人なのです。私はいまいち文章を書くということに慣れていないので読みづらいでしょう。ごめんなさい。

なぜこの話を、お詫びをつけてまで取り上げて、こうして皆さんに伝えているのには訳があります。

11月も上旬くらいで、いよいよ寒さも笑えなくなる頃、彼は急に私の家を訪ねて来ました。私の家は日本海側の気候にありますからというのもあるのでしょうが、その日は一段と底冷えし、ぶるぶるとコートに強く身を包んでいた彼をすぐに家に入れようとしました。

しかし彼は、彼からやってきたというのに家に入ることを拒みました。
そしてこう、なんというのか、今までの穏やかな彼からは想像できないほどすごく必死に、

「家中の襖を外してくれ!」

と叫び始めたのです。
私はマンションに住んでいましたから、玄関先でそんな騒ぎを起こされては堪らず、しかしながら襖があるような和室なんてないので、それを伝えて、それでも騒ぐのだから半ば強引に彼を部屋に連れ込みました。

空調の効いた暖かい部屋に入ったからなのか、それともひとしきり暴れてみたからなのか彼はひとまず落ち着いたようでした。
そもそも彼とは高校で一度だけ同じクラスになっただけで、それほど関わりはなかったし、今彼が何をしているかなど聞いたことがありませんでした。尋ねてみると、彼は小説家になったようでした。少しばかり名のある出版社につかまえてもらい、担当者と共に様々な物語を書いているようで、私は小説のことには詳しくないですが、それはいわゆる一つの成功じゃないか、と思って、自分ごとでもないのになんだかちょっぴりだけ誇らしくなりました。

しかし彼は、それが間違いだったと言いました。

担当者は彼に、ホラー作家になってみてはどうだろうか、と言ったそうです。もともと彼は恋愛小説なんてものを書いていたらしく、しかしそれではいまいち花咲かぬようなので、担当者から一度他のジャンルに手を出してみようという提案だったのです。

彼はあまりホラーは好まず、納得もいっていないようでしたが、ちょっぴり苛立ちながら書いた短編を出してみたらどうやらウケたらしく、これだけのものならぜひ長編も書いてほしいと、担当者は息を巻き始めました。

ぜひ、などと言われると悪い気もせず、すこしだけ乗り気になって書き始めようとしますが、長編に耐えうる、ぴったりなネタがいまいち思いつきませんでした。しかし何がしは書かなくてはいけないわけで、彼は強行手段にでました。それがこの小説なのです。

まっしろの紙をぱあっと広げて、彼は目に映るもの全てを書き出して見ました。たとえばタンスだったり、冷蔵庫だったり、トイレットペーパーだったり、そしてそれをどうにかこうにか怖がってみようとしたのです。怖がることができたものを小説のネタにしようと、そういったことなのです。

それで、襖を選んだ。

そうしてこの小説を途中まで書いて、私のところまでやってきたのです。
彼はカバンからその原稿だと言うものを出し、私に持っておいてほしいと言いました。それは、何故だか黒いガムテープでぐるぐる巻きのクリアファイルに厳重に仕舞われており、私がそれを開けようとすると、彼はものすごい剣幕でそれを制止しました。俺の目の前でそいつを開けるんじゃないと、手まで出しかねないような勢いだったので、私は言われるがままそれをもって奥の部屋の、戸棚に仕舞い込みました。

これでいいだろう、何が何だかわからないが彼にはこれで帰って貰えばいい。気になってきたら彼の気がつかないところでこれを開ければいい。そう思っていると、

バリン

何かが割れる音がしました。
今度はなんなんだと急いで音のした彼の方へ向かうと、彼はあるものにすごく怯えた様子でした。その方向を見ると、ものすごく大きな穴の割れた窓から外の冷たい風が入ってきていました。そして彼はまた、

「家中の襖を外してくれ!」

とわんわん騒ぎ出したので、私は仕方なくとうとう帰ってくれと追い出してしまいました。
部屋に戻り、改めて割れた窓ガラスを見ると、破片はベランダに散らばっており、内側から破られたことが分かります。たしかに、この窓ガラスはベランダに通じるので、縦に長く、襖に見えないこともありません。弁償については、もうどうだっていいけれど、何故彼はこんなことになってしまったのか、私は気になりはじめました。

何故あんなにも襖に怯えているのか、あの原稿を読めば分かるのかもしれない。
そう思い読んでみたら、肝心のオチが無いわけですから、私には分かる術がありません。

たかが小説を書くために、無理くり怖がろうとしたものに、あれだけ怯えることができるなんて、

彼は一体何を思いついたのでしょうか?

私ひとりではわからないので、みなさんにこれを読んでいただきました。これを読んで気がつくことがあれば、ぜひ教えて欲しいです。
彼と同じ人がたくさんいれば、彼も怖くないでしょう。

私も少しだけ、魔が差したくなりました。

まだ中学生です