見出し画像

言葉を遺す

言葉をしたためるのは好きだ。

自分の気持ちを自由に表す事ができる。私はあがり症で言葉を発することが人より苦手なのもあるからか、極度に緊張せずにこうして文字で思ったことを綴るのが大好きだ。言葉を発している私より、文章を綴っている自分の方が本当の自分であるような気さえする。

初投稿の時にnoteを始めた理由の一つとして以前「興味があったから」と綴ったが、始めた理由としてはもう一つある。ネットへ残す「遺書」としてだ。「遺書」と聞くと一瞬ギョッとするかもしれない、しかし勿論これは今すぐ命を絶つからという訳ではない。

私は昔から、周りの子に比べて死生観に興味のある子どもだったと思う。毎年誕生日を迎える度に抱いていた思いは「来年の今日、自分は生きているのか」だ。兎に角自分でも、作品においても「生と死」を強く意識をする自覚はあった。なんでかはわからなかったけれど、今考えたら私に重くのしかかっていたプレッシャーがそうさせてしまったのかなと推測してしまう。

自分の本音を言うのが苦手で、上手く喋ることが出来なくてどもってしまうこともあって、私にとって喋るという行為は苦痛に近い。だからと言って自分の意見を言いたくない訳じゃない、聞いてもらいたいことは沢山ある、あったけれど伝えるのが下手くそで、大事な場面であればあるほど私はいつも誰かに自分の本音を伝えられずにいた。


伝えたらどう思われるだろう。

本当に本音を伝えていいのか。

本音を伝えてしまったら、相手を傷つけないか。


大衆の前に立つ度に、人々の視線が私に何か問いかけてくるような気がして私は人と目を合わせて話すのが今でも苦手だ。いい歳しているのに、5秒も人と目を合わせて居られない。マリオに出てくるテレサかて。

そんな私が中学生になって始めたのが一次創作のサイトだ。物語を作るのが本当に楽しくて、文字を打つという行為にとてもハマってブログという形で日記も始めた。緊張せずにスラスラと頭の中で考えている物語や、抱えている本音を何度も何度も綴った。楽しかったことも、辛かったことも自分の思いのままに綴ってネットで出来た友人や、サイトに訪れてくれた人たちに目を通してもらっては声をかけてもらえて本当に嬉しかった。日常では言葉をちゃんと伝えられないからいつも誤解を招いてばかりだったのに、ネットでの私はちゃんとした言葉で自分の意見を言うことが出来て、色んな人に話を聞いてもらったりアドバイスを受けることが出来た。

本当は、両親にも悩みを聞いてほしかったなって心のどこかで思いながらも。

「今話せばいいのでは」って思う人もいるかもしれない。私も何度も行動したことがある、でも返される言葉は決まって「いつまで昔の事を引きずってるの」だ。そりゃ引きずる、だって私の中でその問題はずっと解決していないのだから。母にとっては過去のことかもしれないが、私にとっては今の出来事なのだ。母はそれを理解してくれてはいないが。だから私は両親に届かない声を吐き出して、少しでも苦しみを和らげようと独り言としてネットに綴り続ける。

人はいつ死ぬかわからない、それは私もそうだ。短命かもしれないし、長命かもしれない。明日死ぬかもしれないし百年後に死ぬかもしれない。だからどこかに私の言葉を遺せるうちに遺しておきたいと思った。これは誰かの為ではなく、良い言い方をするならば自分を保つために、悪い言い方をするならただの自己満足だ。どうかネットに吐き出すことを許してほしい。

それでももし、私が今後遺していく言葉に共感してくれる人や救われる人がいてくれるなら、それも全然いい。私の綴った文章が少しでも寄り添えたり、背を押せたのなら筆者冥利に尽きる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?