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もし鈴木たろうプロが転生して、魂天になったら…?

◇追記(2024年1月4日)
YouTubeに、この記事について話している動画をアップしました。

○はじめに

僕に生きる"強さ"を教えてくれた、尊敬する鈴木たろうプロへ。感謝の気持ちを込めて。

そして、同じ時代を旅する、麻雀を愛する全ての人たちへ。

「麻雀は、自由だ」

これは、僕が麻雀を学ぶ上で、最も重要で本質的なアドバイスだった。

麻雀好きな人なら、一度くらいは耳にしたことがあるだろう。

しかし、一体どれだけの人が、この言葉の意味を、本当に理解できているのだろう…?


○麻雀の"強さ"とは?

2年半前、初めて雀魂と出会い、段位戦にのめり込み、ついには最高ランク"魂天"になることができた。今や、憧れだった人たちと一緒に上位ランキングに名前が載っている。

(魂天Lv.7、2023年12月01日現在)

察しのいいあなたのことだ。「horiwo128」という名前に込められた意味にも、きっと気づいてくれただろう。

そう、あのMリーグでも活躍中の現役最強との呼び声も高い「堀慎吾プロを超える!」、という強い意志を込めて、堀を超える男→horiwo、と自ら名乗ることにした、という訳では全くなく、本名だ。
(そういえば話は変わるが、もうすぐ31歳の誕生日だ。)

今日は、僕がここまで勝ち続けることができた"戦略"について、明かそうと思う。

この文章をもって、僕の"強さの証明"への旅は、一つ終わりを迎える。半年間、密かに抱えていた野望も、ここでようやく種明かしだ。

そしてこれは、ずっと憧れてきた鈴木たろうプロへの恩返しでもある。

あなたの教えは正しかった。僕はあなたに出会えて、本当に幸運だった。


直接お礼を伝える方法がわからなかったので、こういうやり方にした。タイトルは、たろうさんが以前、異世界転生アニメにハマっているとYouTubeの配信で言っていたのを、なんとなく思い出したからだ。

僕なりのちょっとした、"遊び"のつもりだ。

ただ僕は、雀魂の王座の間の戦いを勝ち抜くために、「もし鈴木たろうプロが今、魂天になったとしたら、どう戦い、どう勝つだろうか」と考え続けてきた。それは、紛れもない事実だ。

結果は、大成功だった。

僕はこの半年間、王座の間で、その中でも特に、頂上対決で勝ちまくり、ポイントを荒稼ぎすることに成功した。

魂天Lv.7になるまでの60ptのうち、およそ2/3に当たる約40pt(Lv.4相当)の魂珠を、頂上対決だけで稼いだのだ。おそらくは、まだ誰も実現したことのないやり方で。

そして、その過程で、想像していたよりもずっと価値のある経験と学びの数々を得ることができたのだ。


だから、こうして書き残すことにした。2年前まで、ほとんど家族や友人としか麻雀をしてこなかった、"初心者"の意見だ。自分が未熟であることは重々承知しているつもりだ。

でも、だからこそ、今の僕の考えには、"価値"があるとも言えるのではないだろうか?

これは、全ての麻雀を愛する人にとって、そして、これから麻雀の楽しさを学ぶ人たちにとって、有益なものであると信じている。

何か一つでも得られるものがあれば、僕はそれをとても嬉しく思う。そのことだけでも、あなたの大切な人に是非、共有してもらいたい。僕は人に目立つところで、自分の意見を主張するのが、あまり得意ではないのだ。

少し僭越ではあるが、今の自分の考えをできるだけありのまま書き残そうと思う。


結論から言えば、

「麻雀の"強さ"とは、"自分らしく打って、勝つ"ことである」

どのようにして、この結論に至ったのか。

また、"勝ち"とは何か。"自分らしさ"とは何か。

具体的に、何を考え、どう実行してきたのか。順を追って説明しよう。

(※頂上対決とは、雀魂の段位戦における、最高ランク"魂天"のみの対局のこと。段位ポイントの変動が通常の2倍になる。)

○王座の間、成績

(2023年6月15日〜11月23日)

・全対局(2309戦)

・頂上対決(366戦)

https://amae-koromo.sapk.ch/player/72973846/16


○"遊び"ながら"勝つ"ことの難しさ

そもそも、"遊び"だったはずの麻雀が、いつ"勝つ"ためのものに変わってしまったのか。

きっかけは、段位戦だ。

長い長い時間をかけて、必死に増やしたはずのポイントが、ちょっとしたミスや不運の連続で、あっという間に溶けて消えてしまう。

次第に、自分の"強さ"に自信は失われ、気がつけば、遊んでいる余裕など無くなってしまっていた。

「どうすれば、勝てるのか?」

頭の中は、それだけでいっぱいだった。

ただ、ひたすら勝利を追求することに没頭する毎日は、苦しいながらも充実していた。
短い人生の中で、こんなに夢中になれる経験は、なかなかない。

そして、気づいたことがある。

"遊ぶ"と"勝つ"の両立は、とても難しい。

子どもは、"遊ぶ"ことが得意だ。自分がワクワクすることを見つけて、飛び込むことができる。

しかし、"勝つ"ためには大人になることも必要だ。目標を明確にし、やるべきことをきちんとこなす、理性が求められる。

麻雀の段位戦において、"勝ち"とは「ポイントを増やす」ことだ。
論理的。基本に忠実。ミスを減らすこと。

"遊ぶ"とは、自分がワクワクすることだ。
直感的。予想を裏切る。見慣れたパターンを避けること。

「魂天になる」という目標のために、まず僕は徹底的に"大人"になろうと努力した。「やりたいこと」は、一旦後回しだ。あの頃は、とにかく"勝つ"ために、必死だった。

毎日、何時間も麻雀と向き合い、ひたすら牌効率の勉強をし、先制されたら丁寧にベタオリし、押し引きの基準となるデータは、空で暗唱できるほど繰り返し覚えてきた。

戦術本を読み漁り、動画を見ながら上級者の思考を学んだ。AIを使った勉強も欠かさなかった。いかにAIの出す"正解"に近づけるかは、上達の指針として大きく役立った。

そしてついに、魂天に到達した。

王座の間で強者たちと戦えるのは嬉しかった。しかしある時、牌譜を振り返りながら、僕はとある"違和感"を感じた。

「麻雀って、こんなゲームだったっけ?」

僕の憧れは、もっとカッコ良かった。今の麻雀には、"何か"が足りない…。 

中でも印象的だったのは、頂上対決の対局後、反省しようと牌譜を見返していた時のことだ。

パッと見は全員、レベルが高い。ミスらしいミスは、見当たらないのである。

しかし、そこには何とも言えない不気味さがあった。

まるでAIの劣化版同士が争わされているような嫌な想像が、頭をよぎったのだ。


一言で言えば、"遊び"が無い。

自分を含む全員が、優等生、エリート、お利口さん…。何か、目に見えないルールに縛られているような、窮屈さ、息苦しさを感じた。

確かに洗練された美しさのようなものはあったかもしれない。

だが、僕の求めていた"強さ"とは、こういうことだったのか?

麻雀の面白さとは、こんなものだったのか?

そこで、大切なことに気づかせてくれたのが、鈴木たろうプロだ。

たろうプロは麻雀というゲームで、"遊ぶ"ことと"勝つ"こと、その両方を同時に実現する方法を体現している人だと思った。
あの頃、僕に足りなかったのは、"遊ぶ"ことだった。

いや、僕だけじゃ無い。
今のネット麻雀には、圧倒的に"遊び"が足りない。

僕以外にも、この感覚を抱いたことのある人はいるだろう。

麻雀は、もっと自由なはずだ。


○誰も試したことのない、"戦略"

「そもそもネット麻雀の段位戦とは、どういうゲームなのか」を考え抜いた末に、僕は一つの結論に至った。

段位戦では、誰もが自分の"戦略"を、ぶつけ合っているのだ。

その中で、より多くポイントを稼いだプレイヤーの勝ち。短期的な勝敗より、長期的な勝率にこそ、価値がある。

魂天になるまでは、"大人"になることが王道の"戦略"だった。ミスを減らせば減らすほど、ポイントは増えていった。

だが僕は、もっと"強く"なりたかった。
そのためには、"遊び"が必要だと思った。

だから、"遊び"ながら"勝つ"にはどうすれば良いかを、ひたすらに模索し続けた。

"遊ぶ"とは、自分がワクワクすることで、"勝つ"とは、ポイントを増やすことだ。

だったら、「どれだけ常識から外れたやり方で、ワクワクしながらポイントを増やせるか」に挑戦すれば良い。そう考えた。

まだ誰も試してない、驚きの"戦略"を見つけ、実行する。

こんなにやりがいのある挑戦はない。僕は心の中で、世界に小さな"革命"を起こすのだと、決意した。

そのためにはまず、「常識を疑うこと」が必要だった。

多くの人が、「これは正しい」と思い込んでいて、自分だけが間違いにいち早く気づいている状態。これを作れば、勝てる。

見つけたらあとは、誰よりも早く実行することだ。短期決戦。奇襲。手品のようなものだ。

「その手があったか!」と思わせることができれば成功。できなければ、失敗だ。

そもそも自分の"戦略"を、「勝って、証明しよう」というのが段位戦だ。

勝てば正義。求められるのは、言葉より結果だ。

幸い、時間と熱意とネット環境だけはあった。

自分の理論を語るのは、満足のいく結果を出してからでいい。

机上の空論では、意味がないのだ。


○「ミスが少ない="強い"」←?

まず、疑ったのはこれだ。

「強者とは、ミスが少ない人である。」

この言葉には、一定の真理が含まれるように思われる。ミスが少ないことを"強さ"だと語る強者が、実際にいるからだ。

現在だと、仲林圭プロや、渡辺太プロが活躍している影響も大きいだろう。彼らからも、たくさんのものを学んだ。

しかし、麻雀はミスの少なさを競うゲームではない。
それに、だとしたら、最強は未来のAIだ。

AIは、ミスをしない。ミスをするのは、人間であれば当然だ。長い目で見ればミスしない人間など、この世に誰一人としていない。

麻雀AI「NAGA」の普及によって、誰もが自分や他人のミス(NAGAでは"悪手"と呼ばれる)を可視化できるようになった。本当に、麻雀を学ぶには、良い時代になったものだ。

ミスが少ない、悪手率が低い。そういう"強さ"があることは認める。

けど、そればかりでは面白くない。

僕の憧れた麻雀は、もっと"自由"だった。

だから僕は、真逆のアプローチを試すことにした。

「いかに、"悪手"を活用できるか」と考えたのだ。

周りが"悪手"を減らそうと考える優等生ばかりなら、差をつける方法はいくらでもある。盲点をつく。奇襲をする。戦い方の基本だ。(これには『孫子の兵法』の知識が役立った。)

僕はこれを、「意図的な悪手」と呼ぶことにした。

・今この瞬間、最も損な打牌は何か?
・どんな河を作れば、絞ってくる相手から狙った牌を引き出せるか?
・どんな仕掛けをすれば、相手を降ろせるのか?
・明らかに手順のおかしな裸単騎に、周りはどう対応するのか?
・(一見すると)見合わない"押し"に対して、周りはどう反応するか?
・リーチを受けた後、ノータイムで「カンにゃ」をし続けたら、どうなるのか?

挙げればキリがないが、こういうことを思いつく限り、実践で試し続けた。何度も手痛い失敗をしたが、それ以上に、たくさんの価値あるものを得たのである。

正直、魂天Lv.1→Lv.2までが、今回の挑戦の最大のギャンブルだった。後段するのが先か、勝ちパターンを見つけるのが先か。

一度は後段ギリギリのところまで落ちたものの、なんとか踏みとどまり、持ち返し、昇段した。その後は、今日に至るまで、自分でも予想以上のペースで勝ち星を増やし続けている。

とはいえ、セオリーも一通りは学んだつもりだ。基礎を疎かにしていいというわけでは無い。むしろ真逆だ。"遊ぶ"ためには、基礎が重要なのだ。

この事実を学んだのは、大学で音楽の勉強をしたときだった。分野は違えど、自分の型を身につけるには"守破離"の段階が必要だ。

(ちなみに僕は、麻雀より音楽のほうが得意だ。以前は、大学のアカペラサークルの講師として、音楽を教えていた経験もある。)


歴史に名を残すジャズの名プレイヤーが、神がかりとしか言えない一度きりのセッションを生み出すために、何年も、何十年も音楽の基礎を磨き続けてきたのだと、自分が音楽を学べば学ぶほど、深く理解できるようになった。

観客には見えないところで、途方もない努力があったのだと想像し、心が震えた。


基礎やセオリーを学ぶことを、疎かにしたくない。その道の先人達に対する感謝と敬意を、忘れたくないのだ。

それが、ものを学ぶ上での"基本"なのだと、人生の早い段階で気づけたのは、本当に幸運だったとしか言いようがない。


僕は魂天に到達した後、もう一度基礎を学び直そうと、今度は天鳳で徹底的に基本の型を身体に染み込ませてきた。約1000半荘、ポイントが減ってもお構いなしで、NAGAの真似だけを目指し続けた時期もあった。そしてそのやり方で無事目標の段位に到達し、ようやく、王座の間で新しい挑戦を始めたのだ。


○「意図的な悪手」の例

これはとある半荘の第一打の画面である。

おそらくは、どれも”悪手”と呼ばれるものだ。


AIに怒られることは、重々承知の上で、真剣にやっているのである。

また、見ている人や同卓者を困惑させる可能性が高いため、もし自分が麻雀プロや配信者、雀荘の店員だったら、少し控えていたかもしれない。

ちなみに、最後の局は、異様な河と仕掛けに上家と対面が対応し、七対子ドラドラのダマテンが入っていた下家から、2p出和了り。結果は、5800点の加点となった。

“悪手”は本当に、悪いものなのだろうか。

もしかすると視点を変えれば、"妙手"になり得るのではないだろうか…?


○サンタクロースは、本当にいるか?

試してみてわかったことは、結局、ほとんどの場合、セオリー通り打つのが"強い"という事実だった。

雑な愚形待ちは和了率を下げるし、無駄な"押し"は放銃率を上げる。
何より、"悪手"が多いと"下手な麻雀"に見える。

セオリー通り打っていれば、難しいことを自分で深く考える必要はない。思考のリソースは大幅に節約できるし、それでいて"強そうな麻雀"が打てる。コスパが高い、というやつだろう。

だからこそのセオリーなのだ。みんなこぞって、学ぼうとする。
"悪手"が"悪手"と呼ばれるのも、頷ける。

しかし、それらのデメリットを分かった上で、ここぞという時に使えれば、大きなリターンが得られる可能性があるということも、強く感じた。

一見石ころと変わらないようなものの中に、キラリと光る宝が眠っているかもしれないのだ。

そして、この過程を経て、僕は麻雀というゲームの本質に、大きく近づくことができた。

"悪手"か"妙手"かを分けているのは、"打牌の違い"ではない。もちろん、"結果の違い"でもない。見る人の"視点の違い"だ。

特定の視点からしか価値を判断できない人は、そもそも麻雀というゲームの本質を理解できていない。

AIの言う通りに打って勝つのが楽しいのなら、それはまだ麻雀を偏った視点からしか見えていない可能性が高い。麻雀はそういうゲームでは無い。
真の強者に、食い物にされて終わりだ。

しかもあなたは、そのことに気づかない。なぜなら、負けたのは「運が悪かったから」で、あなたの麻雀は自分の中では「絶対に正しい」のだから…。

きっとあなたは、純粋すぎるのだ。疑うことを知らないだけだ。あなたの中では、まだ「サンタクロースは"いる"」のだろう。そういう時期があってもいい。最初はみんな、そうなのだ。もちろん、僕もそうだった。

大人は、わざわざあなたの主張を否定したりしない。それくらい、視野の高さが違うのだ。

どちらを伝えるのが本当の"優しさ"なのかは、きっと教わる側の姿勢やタイミングによるのだろう。

あなたが本当の意味でもっと"強く"なりたいのであれば、誰かの語る「正解」を、一度疑ってみてもいいのかもしれない。

あなたに親切に「正解」を教えてくる人の中にも、自分の視野の狭さに気づいていない人は、大勢いるのだ。

もしくは、あなたが自分で気づいてくれるよう心では願いながら、ヒントを出して待ってくれているのかもしれない。

そういう師に早い段階で出会えたのなら、あなたはとても幸運だ。というより、既に出会っていることに、あなたが気づいていないだけかもしれない。

AIの出す「正解」は、一つの視点として有益な情報を与えてくれる。だが、それは絶対の「正解」じゃない。

「麻雀は、自由だ」

僕の視野を広げてくれたのは、この言葉だ。

(ちなみに、一部の方には不安を与えてしまったかもしれないが、安心してほしい。
もちろん、サンタクロースは"いる"。)


○意図的な悪手の効果

具体的に、「意図的な悪手」にどのような効果があったか。例を挙げようと思う。

・相手の読みを外すことができる

牌効率を犠牲に、鳴きたい牌を釣り出す。
テンパイ率UP、和了率UP。

"先切り"と呼ばれるものに近いかもしれない。相手にその牌を切る"言い訳"を用意してあげるのだ。

相手は麻雀を勉強し続けてきた優等生である可能性が高い。

「こんなの放銃しても仕方ない」「オレは悪くないはずだ」と思わせてあげれば、むしろ進んで切ってくれるはずだ。


・相手の脳内に「?」を浮かばせることができる

一瞬の思考停止状態。プチパニック。ねこだまし、のようなものだと思う。
この状態を作れたら、コントロールは容易い。

制限時間の短いネット麻雀では、人はなかなか冷静に思考できない。
とっさに慣れたパターンで対応してしまう。とりあえずの様子見、ダマテン、オリ、焦った仕掛け…。

こうして、相手に"損"な対応をさせられるのは、非常に大きい。
しかもこちらから相手の思考は、読み放題だ。


・ダメな手での、損失を減らせる

チャンス手のときは、加点に向かう。
ダメな手のときは、失点を減らす。

意図的な悪手は、手が悪い時ほど有効だ。

中盤以降、放銃のリスクを大きく減らしながら、相手のミスを誘発させることができる。ブラフや威圧感でオロしてしまえれば、勝ったも同然だ。

ただしこれには、より高次元な手配価値評価の能力が求められる。
(これには多井隆晴プロの配牌オリの話が、非常に参考になった。彼は人類の先を行きすぎている。おそらくは、未来人だ。)


・「下手なやつだ」と思われる

これは、人によってはデメリットに感じる部分かもしれないが、とんでもない。

なぜなら、これこそが真の狙いだからだ。

心の中で見下してもらえれば、もうその相手に負けることはない。相手が自分から何も学ばなくなるからだ。
自分より格下だと思い込ませれば、研究も対策もされない。

「自分はこんな打ち方はしない」と、自らの正当性を守るために、貴重な学びの機会を失うのだ。

こうして、自分だけが圧倒的な優位性を保ったまま、勝ち続けることができる。

情報や知識で築いた差はすぐ埋められるが、心理を利用した城壁は、簡単には崩されない。
相手が勝手に、壁を作ってくれるからだ。

実際、僕はこのやり方で、勝ってきた。

一部の強者には、見抜かれていたような気もするが、それでも、誰にも真似されなかったのは事実だ。

分かっていても、実行に移すのが難しいのが、この作戦の妙なのである。ズルくてセコくて、カッコ悪い。だがそれでも、勝ちは勝ちだ。

弱者が強者を倒すには、弱者にしかできないことをする必要があったのだ。
その点では、独学で麻雀を勉強してきたことが、有利に働いた。

最初から、麻雀プロにはできないやり方で、勝ってやろうと思っていたからだ。


・うまく決まると、カッコ良い

意図的な悪手のほとんどは、効果があるのかないのか分からないまま対局が進む。

しかし、良い偶然が重なると、信じられないような鮮やかな和了を拾えたりもする。

そもそも、そういう良い偶然を最大限に利用するための戦術なのだ。ハマれば当然、恐ろしく強い。

まるで場の支配者になったような感覚だ。神の視点から、全てを見下ろすかのような万能感。
もしかすると、これが"ゼウス"と呼ばれる感覚に近いのかもしれない。


・何より、楽しい!

サプライズやドッキリのような、ワクワク感。スリル。

自分だけが知っている、機密作戦だ。
思いつくだけで楽しいし、うまく決まると、もっと楽しい。

自分の心の中に、自分だけのハイライトを作っているような感覚だ。

「こんな手順、きっとオレにしかできないだろうな…!」

そういうナルシズムな自己陶酔が、麻雀にはもっとあっても良いと思っている。少なくとも僕たちは、麻雀プロではないのだし、王座の間は「ラス回避ルール」ではないのだから。

仮に失敗に終わったとしても、「やってみれば良かったかな」と後悔するよりは、ずっといい。
人は、やった後悔よりやらなかった後悔を強く感じる生き物なのだ。


・痛い目を見ることも、たくさんある

それはもう、たくさん。嫌というほど、味わうことになる。

心が弱っている時は、本当に辛くなる。自分を責めたくて、どうしようもない日もある。

それでも、そのリスクを負うだけの価値は十分にある。

せめて、気分転換や息抜きの手段は、用意しておきたい。


・本物の強者には、通じない

過去に「本物の渋川」という、いかにも"偽物"みたいな名前のプレイヤーと同卓した際、試しに全力のブラフを仕掛けてみたことがあるのだが、真剣に読まれた上で、最終的には看破されてしまった。自分の"戦略"がいかにちっぽけかを、思い知らされたものだ。

麻雀プロの強さを体感できたことを嬉しく思ったと同時に、分かってくれる人はいるのだと、安堵した。そもそも、麻雀というゲームをよく理解していれば、こんな奇襲作戦を使われようが、慌てることはないのだ。

しかし残念なことに、ネット麻雀全体の現状のレベルは、まだまだだ。

きっと若き頃の多井プロやたろうプロも、こうした孤独感や危機感を感じていたのではないかと、未熟なりに、想像してみたりするのである。


○試して試して試しまくった

もともと、小さい頃から落ち着きのない性格だと言われて育ってきた。

好奇心、探究心が人一倍旺盛で、言われたことをこなすより、自分で興味のあることに、ひたすら突き進むのが得意だった。

だからこそ、たろうプロの麻雀に自分と近いものを感じたのだろう。

「こんなことをしてもいいんだ!」と、僕の可能性を大きく広げてくれた。

「ラス回避ルール」の勉強は、強い人と遊ぶために必要だったからしただけだ。麻雀の基礎を学ぶ上では、大いにためになった。

けど、ミスを減らす、なんてのはもともと大の苦手だ。今でも毎日、ミスをしまくっている。

考えているのはむしろ、どうやってミスを利用して勝つか、だ。

魂天になり、ようやく「ラス回避」から解放されたときは、どんな麻雀を試そうか、考えるだけでワクワクしていた。

おそらく、戦術自体は昔からあるものばかりだろう。麻雀好きの誰かが、きっととっくの昔に思いついて、試したに決まっている。

園田賢プロ、醍醐大プロ、朝倉康心プロ、石橋伸洋プロ、堀慎吾プロ、VTuberの鴨神にゅうさんなど、参考にさせていただいた人の名前を挙げ出したらキリが無いが、彼らからは本当にたくさんのものを学んだ。

ちなみに、"うまぶり"という表現は、あまり好きではない。上手いフリというのなら、いまだに必死に世間やAIの真似をしている人たちの方が、よっぽど"うまぶり"だ。
AIの登場により、時代は変わった。僕はASAPINさんの、いつでも"人間らしく"戦う姿を、ずっと尊敬している。

こんなトッププレイヤー達の思考を、誰もが学べる時代になったのだ。むしろ、ここまで手の内を明かしてもらっておいて、学ばない方が失礼だろうと思った。僕はこの時代に生まれて良かった。

しかし、最近のネット麻雀は、AIの"勝ち方"に影響を受けすぎているように思う。もっと"遊び"ながら"勝つ"人がいても、いいじゃないか。

そっちのほうが、ワクワクする。

"お利口さん"ばかりのクラスメイト達に飽き飽きして、ほんのちょっとだけ反抗してみたかったのだ。

だから、やってみた。

結果は、大成功だ!

半年で魂天Lv.1→Lv.7、ポイントのプラスのほとんどが、頂上対決で稼いだものだ。

対局数が全部で約2300戦、そのうち頂上対決が366戦だから、どれだけ効果的な戦略だったかが分かってもらえるだろう。

普段は、やりたいように打つ。切りたいと思った牌を切る。ミスも負けも、気にしない。目標は、平均順位2.5だ。目先の"勝ち"にこだわりすぎると、長い目で見て"勝ち"残れない。

それより、いかに"悪手"や"負け"を使いこなせるかのほうが、これからの時代には、よっぽど重要だと考えている。

とにかく何もかも試しまくった。今の僕が見ているのは、目の前の点棒を稼ぐことだけじゃない。

10年後、20年後に、勝ち続けていることだ。

この推測が正しいかどうかは、後になってみないとわからない。

それでも、様々な視点から麻雀を考えておくことには、大きな価値があるはずだ。

ミスをせずに勝つのは、それが得意な人や、AIにでも、任せておけば良い。おそらく僕は、この先一生かけても、渡辺太プロやお知らせさんにはなれない。それが彼らの強みを生かした、自分だけの"戦略"だからだ。

だからこそ、僕は僕のやり方で"勝つ"と決めた。ミスも、悪手も、"避けられたはずの負け"も、とにかく思いつくことは全部試した。

本当の失敗は、学ばないことだ。

同じ失敗を繰り返さないよう、きちんと反省すべきときは反省し、その上で「次はどう新しい失敗をするか」にこだわり続けてきた。

だからこそ、ここぞという場面で勝ってこられたのだ。

「麻雀は、自由だ!」

今なら自信を持って、そう言える。

(ちなみに最近発明した"よそ見打法"は、残念ながら失敗作だった。いけると思ったのだが…。)


○デザインの美しさと、アートの美しさ

ある日、僕を昔からよく知る親友から、

「お前がやっていることは、"麻雀"というより、"麻雀"を使った"芸術"だ」と言われたことがある。

真っ白なキャンバスに、自由きままに、絵を描いているようなものだ、と。

この言葉は、真理をついていると思った。
僕に、とてつもなく大きな気づきをくれた。

ミスのない"強さ"が緻密に計算され尽くしたデザインなのだとしたら、今の僕が目指している"強さ"はきっとアートなのだろう。

予測不可能で、誰にも真似できないことに、価値がある。

このあたりに、AI時代の次の麻雀の可能性を探るヒントが、ありそうではないか。

これを公開することは、おそらくは自分の勝率を下げることに繋がるだろう。手品のタネを、自分から公開するようなものだからだ。もしかすると、誰か真似をするプレイヤーも現れるかもしれない。(さすがに、自意識過剰すぎるだろうか?)

だが、一向に構わない。というより、早くその流れを作りたいと思っている。

ネット麻雀全体のレベルが上がることを、僕は望んでいる。

ブラフ、駆け引き、読み合い、それらを超えた先にあるギリギリの勝負…。麻雀には、そういう楽しみ方もあるはずだ。

特に、最高位戦のA1リーグには、こういう楽しみ方をしている人が多いように思う。
正直、羨ましくて、たまらない。

早くもっとみんな、"強く"なってくれないだろうか?
ネット麻雀にだって、そんなワクワクする戦いが、あってもいいはずだ。

こちらは「その上でどう勝つか」を、毎日必死に考え、楽しみにしているのだから。


○常識に、囚われるな

「頂上対決は同卓者のレベルが高いから、勝つのは難しい」←?

答えはNo!だ。

頂上対決で勝つための"戦略"を、考えつかなかっただけだろう。

もしくは、何らかの心理的なバリアに阻まれて、実行できなかったのだ。

どちらも、"常識"の枠に囚われた発想だ。

というより、「頂上対決でポイントを稼ぎ(=勝ち)、他の対局で新しい戦術を試す(=遊ぶ)」という発想に、過去に誰も至らなかったのかと思うと、少し残念な気持ちにすらなる。

"遊ぶ"と"勝つ"は両立できる。

僕がそれに気づけたのは、たろうプロのおかげだ。だからこれは、僕なりの恩返しだ。

あなたの言葉を、信じてきて良かった。

「麻雀は、自由だ。」


○目指すべきは、人間らしい麻雀

これからの時代、ネット麻雀はますますAIの影響を受けるようになるだろう。
既に、短期間で強くなるための機会と環境が、全員に与えられている。

強くなるためだけなら、わざわざプロ団体に所属する必要もない。
麻雀プロになることは、あくまで何かを得るための手段のはずだ。

勉強会やリーグ戦に参加すること、共に学ぶ仲間と出会うこと、そこで勝ち抜き自身の強さを証明すること。
こういう観点から、プロ団体に所属することには、確かに意義がある。(詳しいことは知らないので、あくまで想像だが。)

しかし、自宅にいて、ネット麻雀の世界を開けば、そこにはたくさんの仲間がいる。勝って強さを証明することができる。
本や動画やAIなどの教材が充実したおかげで、昔よりずっと効率よく学べるようになった。

では、これからの時代、僕たちはどのように麻雀と向き合っていけばいいのだろう?

僕の答えはこうだ。

「いかに、"人間らしく"麻雀ができるか」

自分らしく、と言い換えても良いかもしれない。

確かに、AIの真似をしていれば、短期的な勝率は上げられるだろう。
しかし、10年後、新しく麻雀を学び始める子どもたちは、もっと最新の情報を効率良く吸収して挑んでくる。

勝ち続ける"強さ"を身につけるには、もっと別のアプローチが必要だ。
長く"勝つ"人とは、目の前の"負け"の価値を知っている人だ。

僕が麻雀を勉強し始めたのは、およそ2年前、2021年9月の終わり頃だ。
2年で、ここまで来れてしまった。

自分が特別な人間だと言いたいわけではない。
既に、そういう時代なのだ。

そして、この傾向は、おそらく今後もっと加速する。
この現状に、一人の麻雀を愛する者として、危機感を感じざるを得ない。

しかし、だからこそ、できることもある。
こんなときこそ、発想を柔軟にするのだ。

長期的に見て、人間はAIには勝てない。
まずはこの事実を、受け止めることだ。

これは、別の似た分野を見れば明らかだ。

「将棋AIは、人間の"知能"を超えることができるのか?」

ほんの15年前の日本では、こんな議論が大真面目に行われていたのだ。結果は、見ての通りだ。

ミスをせず、疲れることもなく、学習し、思考し、判断し、実行し続ける。
こんなものに、人間はどう立ち向かえばいいのだろう?

答えは簡単だ。
AIに勝てる領域で、戦うことだ。

AIにできることを、人間が必死に追いかけてもしょうがない。

僕は何度も、自分にこう問いかけてきた。

「お前は、未来のAIの下位互換になりたいのか?」

AIの存在は、人間にできること、人間にしかできないことを知る良い手掛かりになる。
自分自身を知るには、自分以外を知ることが近道かもしれないのだ。

(たしか昔Bump of Chickenも、似たようなことを言っていたような気がする。)


人間にしかできないこととは、

・間違えること
・ミスをすること
・直感に従うこと
・さまざまな感情を味わうこと
・好きなことに没頭すること
・自分の人生を生きること

これらは人間にしかできない。
というより、あなたにしかできない。

あなたの人生を味わえるのは、あなただけのはずだ。

つまり、AIに勝てる領域で戦うということは、自分の人生を"よりよく生きる"ことに他ならない。

いま自分は、何ができるのか、何をすべきか、何がしたいかを、自分で考えることだ。
自分の選択を信じ、その結果を受け入れることだ。

あなただけの"強さ"を、見つけることだ。

他人やAIと比べる必要はない。

本来麻雀は、何を切ったっていい。もっと言えば、麻雀をしなくたっていい。
僕たちは、もっと自由に生きて良いのだ。

ただ、いきなり"自分らしさ"を目指しても、きっとすぐに限界は来る。それだけでは、勝てないからだ。

そのために基礎を、セオリーを学ぶのだ。大丈夫、あなたの今までの努力は、決して無駄じゃない。

"勝ち"を目指すのも、よりよく生きる上では大切だ。多くの学びと、充実感・達成感を与えてくれる。

その結果、「今はこの人を、徹底的に真似しよう」「ミスを極限まで減らそう」と決めるのも、自分自身の選択だ。
それはそれで、とても有意義なことだ。

ただ、僕たちにはもっと、積極的に"間違える"ことが必要だ。常識を疑うこと。感情に引っ張られること。好奇心を優先すること。その結果を、真摯に受け入れること。

つまり、もっと"遊ぶ"ということだ。
自分の意思で"自由"に選択し、その結果に自分で"責任"を負う。
こういうのを全部含めて、"強さ"と言うのではないだろうか。

麻雀は、人生における"遊び"の重要性を教えてくれる。
人は誰しも、"遊び"ながら"勝つ"ことができる。ミスをしても、負けたとしても、生きる上では、何も失ってはいないのだ。

僕はそれを、たろうプロから学んだ。

本当の"強さ"があれば、"遊ぶ"と"勝つ"は両立できるのだ。


○「勝ち」を決めるのは、自分自身

これはあくまで、僕個人の考えだ。
決して「正解」を解くものではない。

あくまで「麻雀の"強さ"とは何か?」と言う問いへの、僕なりの答えを提示しただけだ。

麻雀プロでも何でもない、たった一人の人間として、僕の立場を鮮明にすることで、あなた自身にとっての「麻雀の"強さ"」を探る手掛かりとなることを、意図したものだ。

僕にとって、

「麻雀の"強さ"とは、"自分らしく打って、勝つ"ことである」

というのが結論だ。

自分にできるのは、勝つ確率が高くなると信じる選択を、続けることだけだ。
信じて、選択し、どんな結果も受け入れる。

麻雀は、この繰り返しだ。

人生も、同じではないだろうか?

ここで重要なことは、自分にとって「勝ち」とは何か(=「勝利条件は何か?」)を決めているのは、自分だということだ。

自分で"自由"に設定できる。というより、自分の「勝ち」は、自分にしか決められない。

これはあなたの"価値観"を探る質問だとも言える。
あなたにとって、最も大切なことは、何だろう?

魂天になることかもしれないし、所属する団体でタイトルを獲ることかもしれない。
異性にモテることかもしれないし、麻雀が好きな仲間と楽しく語り合うことかもしれない。

誰にも、自分の中に「勝ち」の基準があるはずだ。そしてそれは、自分で"自由"に設定することができる。

この下限の設定の仕方が、肝だ。

「ここまでは負けてない」というラインが広ければ広いほど、精神的に"強い"人だと言える。

しぶとさ、粘り強さ、胆力…。

最後の最後に、勝ってさえいればいいのだ。
麻雀は、生きるのに必要な精神力を鍛えてくれる、素晴らしいゲームだ。

僕にとっての「勝ち」は、"生きている"ことだ。
生きてさえいれば、大抵のことは何とかなる。
それに比べたら、他のことは大した問題じゃない。

ある視点では"負け"に見えても、より高い視点ではそれが"勝ち"への重要な一手になる。

信じられないような辛い出来事も、時間が経てば、人生の転機になったりするものなのだ。

理不尽な出来事が重なり、不安に押しつぶされ、明日を生きる希望すら持てなかった時期に、僕は麻雀に出会い、魅了され、没頭した。

今度はその麻雀でも苦しみ、本当に「どうしようもない」という絶望を、一度経験できたからこそ、人生と麻雀の構造が、根本的なところで大きく似ていると気づけたのだ。

本当の"勝ち"以外は、全部"負け"ていい。

僕は、幸運だった。

勝っても、負けても、麻雀は、楽しい。

生きてさえいれば、それだけで大勝利だ。

最後に、約1年半前、僕が"勝つ"ことに囚われすぎて悩んでいた頃の、ノートの写真を貼っておこう。

(少し恥ずかしいような気もするが、この感情を味わえるのも、いま僕が生きている何よりの証拠だ。)

読みながら、自分にもこんな時期があったのかと、既に懐かしい気持ちになっている。

今もしどこかで、誰かが過去の自分と同じように悩んでいるとしたら、是非一度、僕の考えを聞いてほしい。
そういう想いから、この文章を書き残すことにした。

麻雀を続けてきて、本当に良かった。

僕は間違いなく、"強く"なれた。

"強さ"とは、"自分らしく生きる"ことだ。

あなたにとっての"強さ"とは、何だろう?

これを読んでくれたあなたの人生の、ほんの一部でも力になれたのなら、幸いだ。


読んでくれて、ありがとう。

2023年12月01日 horiwo128

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